1話
朝の光が、校舎の窓を透かして差し込んでいた。
春の空気はまだ少し冷たくて、
でもその冷たさの奥に、やわらかな匂いが混じっていた。
唯斗は、教室の窓際の席に座りながら、
ぼんやりと空を見上げていた。
その視線の先には、遠くにそびえる塔の影。
昨日の夜、あのふもとで過ごした時間が、
まだ身体のどこかに残っている気がした。
「……眠そうだね」
声をかけてきたのは瑠衣だった。
彼女は、いつものように静かに席につきながら、
唯斗の横顔をちらりと見た。
「うん、ちょっとだけ。
でも、悪くない眠気」
「ふふ、わかる。
私も、まだ夢の中にいるみたい」
ふたりは、それ以上言葉を交わさなかった。
でも、それで十分だった。
昨夜のことは、言葉にしなくても、
ちゃんとふたりの中に残っていた。
教室のざわめきが、少しずつ広がっていく。
クラスメイトたちが登校し、
いつものように笑い声が飛び交う。
でも、唯斗にはその音が、
どこか遠くに感じられた。
まるで、自分たちだけが、
**“昨日とは違う世界”に立っているような感覚。**
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1時間目の現代文が始まっても、
唯斗の意識はどこか上の空だった。
教科書の文字が、
塔の壁に刻まれた記録のように見えてくる。
意味はあるのに、どこか現実味がない。
「……“記憶とは、個人の中にある物語である”」
教師の声が、教室に響く。
「記憶は、事実の記録ではない。
むしろ、記憶とは、
その人が“どう感じたか”の積み重ねだ。
だからこそ、記憶は歪む。
そして、時に――綻ぶ」
唯斗は、はっとして顔を上げた。
その言葉が、まるで自分に向けられたもののように感じた。
瑠衣もまた、同じように顔を上げていた。
ふたりの視線が、教室の中で静かに交わる。
“記憶は、綻ぶ”
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
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昼休み。
ふたりは、校舎裏のベンチに並んで座っていた。
昨日の夜、キスを交わした場所。
今は陽が差していて、
あのときの静けさとは違うけれど、
それでも、どこか落ち着く場所だった。
「……ねえ、唯斗」
「ん?」
「今日の授業、ちょっと変だったと思わない?」
「現代文?」
「ううん、じゃなくて……
クラスの雰囲気。
なんか、みんなの話してる内容が、
少しだけズレてる気がして」
唯斗は、少し考えてから頷いた。
「たとえば?」
「さっき、陽菜が“このクラス、女子は15人”って言ってたの。
でも、私の記憶だと16人いるはずなんだよね。
……ひとり、足りない」
「……それって、誰?」
「それが、思い出せないの。
顔も、名前も、声も。
でも、“いた”って感覚だけが、残ってる」
唯斗は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……俺も、似たようなことがあった。
さっき、理科のプリント配ってたとき、
“あれ、この席って誰のだっけ?”って思った。
でも、誰も座ってなかった。
みんなも、何も言わなかった」
ふたりは、顔を見合わせた。
その目に浮かんでいたのは、
**“確信のない確信”**だった。
「……塔、まだ眠ってないのかもね」
「うん。
それか、もう目を覚まし始めてるのかも」
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放課後。
ふたりは、校門を出て、
自然と塔の方角へ歩き出していた。
言葉はなかった。
でも、足が勝手にそちらへ向かっていた。
塔のふもとに着くと、
昨日と同じように、しずく花が咲いていた。
でも、その中に――
**ひとつだけ、黒い蕾が混じっていた。**
「……これ、昨日はなかったよね?」
「うん。
咲いてないけど、
なんか……怖い」
瑠衣が、そっとその蕾に手を伸ばしかけたとき、
唯斗がその手を取った。
「やめとこう。
なんか、嫌な感じがする」
「……うん」
ふたりは、しずく花の群れの中に腰を下ろした。
風が吹き抜けて、花が揺れる。
その音が、まるで塔の呼吸のように聞こえた。
「……ねえ、唯斗」
「ん?」
「私たち、
このまま“今”を守れるかな」
唯斗は、しばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「わからない。
でも、守りたいって思ってる。
それだけは、変わらない」
瑠衣は、そっと微笑んだ。
その笑顔は、どこか寂しげで、でもあたたかかった。
「……ありがとう。
私も、そう思ってる」
ふたりは、手をつないだ。
その手のぬくもりだけが、
この世界の“確かさ”を教えてくれる気がした。
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その夜、夢界はノートを開いていた。
ページの隅に、
見覚えのない文字が浮かび上がっていた。
**『第二綴、準備中』**
夢界は、眉をひそめた。
その文字は、彼の手によるものではなかった。
「……誰が、書いた?」
塔の奥から、
かすかな脈動が聞こえた気がした。
(続く)
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