月の見える夜に④ 記憶のない風景
「……歩こうか」
唯斗のその一言で、ふたりは屋上をあとにした。
校舎の階段を静かに降りて、
夜の校庭を抜け、裏門から外へ出る。
街はもう、眠りかけていた。
コンビニの灯りがぽつんと浮かび、
遠くで犬の鳴き声が一度だけ響いた。
「この時間に外を歩くの、久しぶりかも」
瑠衣が、少しだけはにかんだように言った。
「俺も。
でも、なんか……落ち着くな」
「うん。
夜の空気って、ちょっとだけ、
記憶の匂いがするよね」
唯斗は、その言葉に頷いた。
ふたりの足音が、アスファルトに優しく響く。
塔へと続く坂道は、
昼間とはまるで違う表情をしていた。
街灯の光がまばらに落ち、
その隙間を、月明かりが埋めていた。
風は穏やかで、
でもどこか、耳の奥にざわりと残る音を運んでいた。
「……ねえ、唯斗」
「ん?」
「この道、こんなに長かったっけ?」
唯斗は立ち止まって、あたりを見回した。
たしかに、見覚えのあるはずの風景が、
どこか違って見えた。
「……言われてみれば、
こんな電柱、あったっけ?」
「ううん、なかったと思う。
それに、あの角の家……」
瑠衣が指さした先には、
古びた一軒家がぽつんと建っていた。
でも、その家には明かりがなく、
表札も、郵便受けも、何もなかった。
「……記憶にない」
「うん。
私も、ここ通ったことあるはずなのに、
この家だけ、ぽっかり抜けてる感じ」
ふたりは、しばらくその家を見つめていた。
でも、何も起きなかった。
ただ、風が一度、強く吹いただけだった。
「……行こうか」
「うん」
ふたりは歩き出した。
でも、さっきまでの穏やかな空気は、
少しだけ、緊張を帯びていた。
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塔のふもとに着いたとき、
ふたりは同時に立ち止まった。
塔は、変わらずそこにあった。
黒く、静かに、空を貫いていた。
でも、その足元に広がる草原が――
ほんの少しだけ、違って見えた。
「……花が、咲いてる」
瑠衣が呟いた。
塔の根元に、小さな白い花が群れて咲いていた。
それは、以前にはなかった風景だった。
「……これ、なんの花だろう」
唯斗がしゃがみ込んで、花に触れようとしたそのとき――
「やめて」
瑠衣の声が、少しだけ強く響いた。
「……え?」
「ごめん……。
なんか、触れちゃいけない気がして」
唯斗は、手を引っ込めた。
そして、もう一度花を見つめた。
たしかに、美しい。
でも、その美しさの奥に、
どこか“異質な気配”があった。
「……塔が、
まだ眠ってないのかもな」
「うん。
私も、そんな気がする」
ふたりは、塔を見上げた。
その先端は、月明かりを受けて、
かすかに光っていた。
でも、それは“反射”ではないように見えた。
まるで、塔自身が、
**何かを感じ取り始めている**ような――
「……ねえ、唯斗」
「うん?」
「もし、また塔が動き出したら、
私たち、どうなるんだろうね」
「……わからない。
でも、今度は、
“忘れない”って決めたから」
「うん。
私も、忘れたくない。
あなたの声も、
この夜の匂いも、
この花の白さも」
ふたりは、塔のふもとに腰を下ろした。
夜風が、草を揺らしていた。
「……ねえ、唯斗。
この花、名前つけようか」
「え?」
「だって、誰も知らない花なんでしょ?
だったら、私たちが名前をつけてもいいと思う」
唯斗は、少し考えてから、笑った。
「じゃあ……“記憶草”とか?」
「うーん、ちょっと味気ないなぁ」
「じゃあ、瑠衣がつけてよ」
瑠衣は、花を見つめながら、
しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「“しずく花”……とか、どうかな」
「しずく?」
「うん。
なんか、記憶って、
心にぽつんと落ちる雫みたいだから。
静かで、でも確かに残るもの」
唯斗は、その言葉を聞いて、
そっと頷いた。
「……いい名前だ。
“しずく花”」
ふたりは、しばらくその花を見つめていた。
塔のふもとに咲いた、白い花。
それは、まるで記憶の結晶のように、
夜の闇の中で、かすかに光っていた。




