16話
唯斗の影が霧の中に消えたあと、
空間は一瞬だけ静寂に包まれた。
けれど、それは嵐の前の静けさだった。
「……来る」
夢界が、低く呟いた。
“残響視”が、空間の奥に新たな歪みを捉えていた。
霧が、再びざわめく。
空気が、冷たくなる。
そして――
現れたのは、**もうひとりの瑠衣**だった。
長い髪。
白いワンピース。
その姿は、まるで夢の中で見た“みるい”そのものだった。
けれど、目が違った。
その瞳は、深い悲しみと怒りを湛えていた。
「……あなたが、今の私?」
影の瑠衣が、口を開いた。
その声は、柔らかく、けれど鋭かった。
「違う。私は、あなたの中にいる“みるい”。
でも、あなたは私を忘れようとしてる。
私を、なかったことにしようとしてる」
「そんなこと……!」
瑠衣は、思わず叫んだ。
けれど、言葉が喉に詰まった。
「……私は、忘れてなんか……」
「じゃあ、どうして“瑠衣”なんて名前で生きてるの?
どうして、唯斗くんの前で、
“知らないふり”をしてるの?」
影の瑠衣が、一歩近づく。
その足音が、空間に響くたびに、
瑠衣の胸の奥がざわついた。
「私は、あなたの記憶。
あなたの想い。
あなたが、唯斗くんと過ごした、
あの夏のすべて」
「……知ってる。
忘れてなんか、ない。
でも、私は――
“瑠衣”として、今を生きてる」
「じゃあ、私を捨てるの?」
「違う!」
瑠衣の声が、空間を震わせた。
「私は、あなたを捨てない。
でも、あなたに戻ることもしない。
私は、“みるい”の記憶を持った“瑠衣”。
それが、私の選んだ生き方!」
影の瑠衣が、静かに首を振る。
「それは、都合のいい言い訳よ。
あなたは、私を抱えたまま、
唯斗くんと“新しい関係”を築こうとしてる。
それって、ずるくない?」
「……!」
「あなたが唯斗くんと手をつなぐたびに、
私の記憶が疼く。
あのとき、言えなかった言葉。
伝えられなかった想い。
全部、あなたが代わりに手に入れていく。
それって、私の“死”を踏み台にしてるってことじゃないの?」
瑠衣は、言葉を失った。
その問いは、彼女の奥深くに突き刺さった。
たしかに、そうかもしれない。
“みるい”としての記憶があるからこそ、
唯斗の優しさが、まっすぐに胸に届いた。
彼の手のぬくもりが、
あの夏の続きを思い出させてくれた。
でも――
「……それでも、私は、
あなたを“終わらせたくない”」
瑠衣は、ゆっくりと前に出た。
「私は、あなたを捨てない。
でも、あなたに戻ることもしない。
私は、“瑠衣”として、
あなたの記憶を抱えて、
唯斗と、夢界と、今を生きていく」
影の瑠衣が、目を細めた。
「……それが、あなたの答え?」
「うん。
私は、あなたの痛みも、
あなたの願いも、
全部、忘れない。
でも、それを“今の私”として、
ちゃんと抱きしめて、生きていく」
その瞬間、瑠衣の羽衣が、
淡い光を放った。
その光は、影の瑠衣を包み込む。
影は、抵抗するように身をよじったが、
やがて、静かに目を閉じた。
「……なら、お願い。
私の想いも、連れていって。
唯斗くんを、お願いね」
「うん。約束する」
影が、光に変わって消えていく。
その光が、瑠衣の胸に吸い込まれていく。
その瞬間、彼女の羽衣が、
より深く、澄んだ蒼に染まった。
「……瑠衣、大丈夫か?」
唯斗が、そっと声をかける。
瑠衣は、微笑んで頷いた。
「うん。
私は、私でいられる。
“みるい”の記憶があっても、
私は、瑠衣だから」
夢界が、静かに頷いた。
「……強いな、お前は」
「ううん。
怖かったよ。
でも、唯斗がいてくれたから。
夢界が、そばにいてくれたから。
だから、私は――
“今”を選べた」
唯斗は、そっと彼女の手を握った。
「ありがとう。
戻ってきてくれて」
「ううん。
私は、ずっとここにいたよ。
ただ、ようやく“自分の足で立てた”だけ」
ふたりの手が、しっかりと重なる。
そのぬくもりは、夢の中で交わしたものと同じだった。
でも、今はもう、夢じゃない。
**現実だ。**
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そのとき、夢界が顔を上げた。
「……次は、俺か」
霧の奥に、またひとつの気配が現れていた。
それは、他のふたりとは違う、
もっと“深くて、静かな闇”だった。
「……俺の影は、ちょっと厄介かもな」
唯斗と瑠衣が、夢界の隣に立つ。
「でも、俺たちがいる」
「うん。今度は、私たちが支える番だよ」
夢界は、ふっと笑った。
「……頼もしいな。
じゃあ、行ってくるよ。
俺の“過去”に、ケリをつけに」




