6話
放課後、校舎の裏手にある小さな中庭。
誰も通らない、ひっそりとした場所。
風が吹くと、木の葉がさらさらと音を立てる。
その音が、まるで誰かの気配を隠すように、空気を揺らしていた。
夢界は、そこに立っていた。
手には、まだ開いていない缶コーヒー。
足元には、落ち葉がいくつか転がっている。
やがて、足音が近づいてきた。
「……呼び出すなんて、珍しいね」
瑞希が現れた。
制服のリボンが、風に揺れている。
その姿は、どこか“ここにいない誰か”のように見えた。
「悪いな。ちょっと、話したいことがあってさ」
夢界は、缶コーヒーを差し出す。
瑞希は少し驚いたようにそれを受け取った。
「ありがとう。……でも、どうしたの?」
夢界は、少しだけ笑った。
でも、その目は笑っていなかった。
「単刀直入に聞くけどさ――
お前、本当に“瑞希瑠唯”なのか?」
瑞希の手が、ぴたりと止まった。
缶コーヒーのプルタブにかけた指が、わずかに震える。
「……どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。
お前、唯斗といるとき、たまに“今”の人間じゃない顔するんだよな。
目の奥が、遠くを見てる。
まるで、ここじゃないどこかを思い出してるみたいに」
瑞希は、何も言わなかった。
ただ、風の音だけが、ふたりの間を吹き抜けていく。
「俺さ、そういうの、けっこう敏感なんだよ。
空気のズレとか、人の目の動きとか。
だから、気づいちゃうんだよ。
お前が、何かを隠してるって」
夢界の声は、責めるようなものではなかった。
むしろ、どこか寂しげだった。
「……唯斗のこと、好きなんだろ?」
瑞希は、ゆっくりと頷いた。
「うん。……好きだよ」
「じゃあさ、教えてくれよ。
お前は、誰なんだ?」
その問いは、まるで風のようだった。
強くはない。けれど、確かに心の奥に届く。
瑞希は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……私は、“瑞希瑠唯”。
でも、“みるい”の記憶を持ってる。
それがどうしてなのか、自分でもわからない。
でも、確かに覚えてるの。
あの夏のこと、唯斗くんの声、手のぬくもり――全部」
夢界は、目を細めた。
その表情は、どこか遠くを見るようだった。
「……やっぱり、そうか」
「……怒ってる?」
「怒ってないよ。
ただ、ちょっとだけ、寂しいだけ」
「寂しい?」
「うん。
俺、唯斗のこと、ずっと見てきたからさ。
あいつが誰かを“選ぶ”瞬間なんて、初めて見た。
それが、お前だったってことが――
なんか、すげぇ納得できて、でも、ちょっと悔しい」
瑞希は、目を伏せた。
風が、ふたりの間をまた通り抜ける。
「……ごめん」
「謝んなよ。
お前が悪いわけじゃない。
むしろ、ありがとうって言いたいくらいだよ。
あいつの目が、ちゃんと前を向いてるの、久しぶりに見たからさ」
夢界は、缶コーヒーを開けた。
プシュッという音が、静かな空気を切り裂いた。
「でもさ――
もし、あいつがまた迷ったら、
そのときは、俺がぶん殴ってでも引き戻すから」
「……うん。お願い」
ふたりは、しばらく黙っていた。
でも、その沈黙は、もう重くなかった。
「じゃ、またな。
……明日も、ちゃんと隣にいてやれよ」
「うん。絶対に」
夢界は、背を向けて歩き出した。
その背中は、どこか頼もしくて、でも少しだけ寂しげだった。
瑞希は、その背中を見送りながら、
胸の奥で、ひとつの決意を固めていた。
(私は、“今”を生きる。
“みるい”の記憶があっても、
唯斗くんと歩くのは、“瑞希瑠唯”として――)
風が、やさしく吹いた。
その風は、まるで誰かの背中をそっと押すように、
瑞希の髪を揺らしていた。
――――――――――――――――――――――――
(……やっぱり、そうだったか)
背を向けて歩きながら、夢界は思っていた。
瑞希の言葉は、まっすぐだった。
嘘はなかった。
でも、それでもなお、胸の奥に残るこのざらつきは、なんなんだろう。
(“みるい”の記憶を持ってる、か……)
言葉にすれば、簡単だ。
でも、それが意味するものは、あまりにも大きい。
彼女は、唯斗の“過去”を知っている。
誰も知らない、あいつの奥底にあるものを、
すでに知っていて、触れていて、
そして、受け入れている。
(……勝てるわけ、ないじゃん)
そう思った。
別に、勝ち負けの話じゃない。
でも、どこかで自分も、
あいつの隣に立てるんじゃないかって――
そんなことを、ほんの少しだけ、思ってた。
(バカだな、俺)
夢界は、笑った。
誰もいない廊下で、ひとり、声もなく笑った。
(でも、あいつが前を向いてるなら、それでいい)
唯斗は、ずっと何かに縛られていた。
言葉にしないまま、誰にも見せないまま、
何かを背負って、黙って立っていた。
それが、瑞希と出会って、
少しずつ変わっていったのを、夢界は見ていた。
(あいつの目が、ちゃんと“今”を見てる。
それだけで、俺は……)
少しだけ、寂しい。
でも、それは悪い寂しさじゃない。
誰かが誰かを選ぶって、そういうことだ。
自分が選ばれなかったとしても、
その選び方がまっすぐなら、
ちゃんと祝福できる。
(……それに、俺はまだ、何も終わってない)
夢界は、ポケットに手を突っ込んで、
空を見上げた。
空は、もうすっかり夜の色だった。
でも、どこか澄んでいて、
星がひとつ、瞬いていた。
(俺は、俺のやり方で、ちゃんと見てるからな)
唯斗のことも、瑞希のことも、
そして、自分自身のことも。
(もし、あいつがまた迷ったら――
そのときは、俺が引き戻す。
それが、俺の役目だ)
夢界は、そう思った。
誰にも言わない。
言うつもりもない。
でも、心の奥で、静かにそう決めていた。
(……さて。明日も、ちゃんと笑ってやるか)
そう呟いて、夢界は歩き出した。
その背中は、誰にも見えない場所で、
ほんの少しだけ、震えていた。




