5話②
放課後の図書室は、まるで水の底のように静かだった。
誰もいないわけじゃない。けれど、そこにいる人たちは皆、声を潜め、
ページをめくる音や、鉛筆の走る音だけが、空気の中に淡く溶けていた。
唯斗は、窓際の席に座っていた。
机の上には、開きかけの参考書と、瑞希が選んだ文庫本。
隣には、瑞希が静かに座っている。
ふたりの間には、ほんの数センチの空白があった。
けれど、その空白は、どこか心地よく、
互いの存在を確かめるための“余白”のようにも思えた。
瑞希は、文庫本のページをめくりながら、ときおり視線を上げて、唯斗の横顔を見た。
彼は、参考書のページをじっと見つめている。
けれど、視線の奥は、どこか遠くを見ているようだった。
昨日、夢界の家で手を重ねたときの感触が、まだ指先に残っている。
でも、あれから“恋人らしいこと”は、何もしていない。
手をつなぐことも、名前を呼び合うことも、まだ、どこか遠慮がある。
ふたりとも、まだ“付き合う”という言葉に慣れていない。
けれど、瑞希はそれを悪いとは思っていなかった。
むしろ、こうして静かに隣に座っているだけで、十分だった。
十分なはずだった――ほんの少し前までは。
でも今は、少しだけ違う。
この静けさの中に、言葉にできない何かが、ゆっくりと沈んでいくような感覚がある。
それは不安ではない。けれど、安心とも違う。
まるで、深い湖の底に沈んでいくような、静かな緊張。
その正体を知りたくて、瑞希はそっと口を開いた。
「……ねえ、唯斗くん」
声は、思ったよりも小さくて、
けれど確かに、彼の耳に届いた。
唯斗は、顔を上げる。
その目が、まっすぐにこちらを向いた。
「ん?」
「こうしてると、なんか不思議だね」
「何が?」
「“付き合ってる”ってこと。
昨日までは、ただのクラスメイトだったのに」
唯斗は、少しだけ考えてから答えた。
「……うん。俺も、まだ実感ないかも」
「でも、嫌じゃない?」
「ううん。むしろ、落ち着く」
その言葉に、瑞希はふっと笑った。
どこか安心したような笑顔だった。
けれど、その奥には、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。
瑞希は、唯斗の横顔を見つめながら、
胸の奥にある“もうひとつの時間”を思い出していた。
あの夏。
あの塔の上。
風が強くて、空が広くて、
でも、怖くなかった。
唯斗くんが、手を握ってくれたから。
その記憶は、夢のようにぼやけているのに、
なぜか、指先の感触だけは鮮明に残っている。
「……私ね、たぶん、“みるい”だったときの記憶があるから、
唯斗くんの隣にいると、安心するんだと思う」
唯斗は、少しだけ目を伏せた。
そのまま、静かに頷いた。
「……うん」
「でも、それってずるいよね。
私だけ、覚えてるなんて」
唯斗は、少しだけ首を横に振った。
「ずるくないよ。
俺も、ちゃんと覚えてる。
あの夏のこと、全部じゃないけど、
君の声とか、手のぬくもりとか――忘れてない」
その言葉に、瑞希の胸が、きゅっと締めつけられた。
嬉しさと、切なさと、安堵と、罪悪感。
いろんな感情が、いっぺんに押し寄せてくる。
「……じゃあ、今の私は?」
「“瑞希瑠唯”としての君も、ちゃんと見てるよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
唯斗の声は、静かで、まっすぐだった。
そのまなざしに、嘘はなかった。
でも、瑞希の中には、どうしても消えない不安があった。
“みるい”としての記憶があるから、
唯斗の隣にいることが自然に感じられる。
でも、それは“瑞希”としての自分が選ばれたわけじゃないのかもしれない――
そんな思いが、時折、胸をかすめる。
けれど、唯斗の言葉は、
その不安を、少しずつ溶かしてくれる。
ふたりの間の空白が、少しだけ縮まった。
唯斗は、そっと手を伸ばした。
瑞希の手に触れると、彼女は驚いたように目を見開いた。
でも、すぐにその手を握り返した。
そのぬくもりは、“みるい”の記憶とも、“瑞希”としての今とも、違っていた。
それは、ふたりだけの“これから”の温度だった。
しばらく、ふたりは手をつないだまま、黙っていた。
言葉はなかった。
けれど、その沈黙は、どこまでもやさしかった。
瑞希は、そっと目を閉じた。
唯斗の手のぬくもりが、心の奥にまで染み込んでいく。
(……このまま、時間が止まればいいのに)
そんなことを思った。
でも、時間は止まらない。
だからこそ、今この瞬間を、大切にしたかった。
「……ねえ、唯斗くん」
「うん?」
「私、今のこの時間が、すごく好き」
「俺も」
「でも、いつか――
この記憶も、また消えちゃうのかなって、ちょっと怖い」
唯斗は、少しだけ息を吸って、
それから、ゆっくりと吐き出した。
「……消えないよ。
たとえ忘れても、ちゃんと残る。
君が、ここにいてくれる限り」
その言葉は、まるで祈りのようだった。
確証なんてない。
でも、そう信じたい。
そう信じてほしい――
そんな願いが、言葉の奥ににじんでいた。
瑞希は、唯斗の肩にそっと寄りかかった。
彼の体温が、頬に伝わってくる。
そのぬくもりに包まれて、
胸の奥の不安が、少しずつほどけていく。
(“みるい”としての私がいた世界と、
“瑞希”としての今の世界。
その境目が、少しずつ溶けていく)
それは、怖くもあり、うれしくもあった。
“みるい”の記憶が、今の自分を支えている。
でも、“瑞希”としての自分も、
ちゃんとここに存在している。
唯斗の隣にいるのは、過去の誰かじゃない。
今の、自分だ。
図書室を出たとき、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
西の空が、淡い橙色から深い藍色へとゆっくりと溶けていく。
校舎の影が長く伸びて、ふたりの足元に重なっていた。
「……帰ろっか」
唯斗が言うと、瑞希は静かに頷いた。
「うん」
ふたりは並んで歩き出す。
校舎の廊下を抜け、靴を履き替え、
昇降口を出ると、風がふわりと吹き抜けた。
秋の気配が、ほんの少しだけ混じっている。
夏の終わりの匂いが、空気の中に漂っていた。
「ねえ」
瑞希がふと立ち止まる。
「ん?」
「手、つないでもいい?」
唯斗は、少しだけ驚いたように目を見開いた。
でも、すぐに微笑んで、手を差し出した。
「もちろん」
瑞希は、その手をそっと握った。
指先が触れ合い、手のひらが重なる。
その瞬間、胸の奥に、静かな波紋が広がった。
ふたりは、手をつないだまま、歩き出す。
言葉はなかった。
けれど、その沈黙は、もう不安ではなかった。
瑞希は、唯斗の横顔を見上げた。
彼は、まっすぐ前を見て歩いている。
でも、その表情は、どこかやわらかくて、
昨日までとは違う光を帯びていた。
「……唯斗くん」
「ん?」
「ありがとう。今日、いろいろ話せてよかった」
「俺も。……話してくれて、ありがとう」
「ううん。話せたのは、唯斗くんが、ちゃんと聞いてくれるからだよ」
唯斗は、少しだけ照れたように笑った。
その笑顔を見て、瑞希の胸が、また少しだけあたたかくなる。
(この人となら、きっと大丈夫)
そう思えた。
“みるい”としての記憶があっても、なくても。
今、唯斗の隣にいるのは、自分だ。
“瑞希瑠唯”としての自分が、
彼の隣にいることを、ちゃんと選んでもらえた。
それが、何よりもうれしかった。
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ふたりは、ゆっくりと坂を下っていく。
夕焼けが、背中を押してくれるように、
やさしく、あたたかく、ふたりを包んでいた。
道の端に咲いたコスモスが、風に揺れている。
その揺れが、まるでふたりの歩調に合わせているようだった。
「……ねえ、唯斗くん」
「うん?」
「明日も、一緒に帰っていい?」
唯斗は、少しだけ笑って、
握った手に、そっと力を込めた。
「もちろん。明日も、明後日も」
瑞希は、ふふっと笑った。
その笑顔は、どこまでもやわらかくて、
夕暮れの光に、ほんのりと染まっていた。
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ふたりの影が、並んで伸びていく。
その影は、まるでひとつの線のように、
ゆっくりと、まっすぐに、
これからの道を描いていた。




