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ノヴァムカイワールド  作者: フィのー
二章 ムカイヒュージョン
19/50

5話②

放課後の図書室は、まるで水の底のように静かだった。

誰もいないわけじゃない。けれど、そこにいる人たちは皆、声を潜め、

ページをめくる音や、鉛筆の走る音だけが、空気の中に淡く溶けていた。


唯斗は、窓際の席に座っていた。

机の上には、開きかけの参考書と、瑞希が選んだ文庫本。

隣には、瑞希が静かに座っている。


ふたりの間には、ほんの数センチの空白があった。

けれど、その空白は、どこか心地よく、

互いの存在を確かめるための“余白”のようにも思えた。


瑞希は、文庫本のページをめくりながら、ときおり視線を上げて、唯斗の横顔を見た。

彼は、参考書のページをじっと見つめている。

けれど、視線の奥は、どこか遠くを見ているようだった。


昨日、夢界の家で手を重ねたときの感触が、まだ指先に残っている。

でも、あれから“恋人らしいこと”は、何もしていない。

手をつなぐことも、名前を呼び合うことも、まだ、どこか遠慮がある。

ふたりとも、まだ“付き合う”という言葉に慣れていない。

けれど、瑞希はそれを悪いとは思っていなかった。

むしろ、こうして静かに隣に座っているだけで、十分だった。

十分なはずだった――ほんの少し前までは。


でも今は、少しだけ違う。

この静けさの中に、言葉にできない何かが、ゆっくりと沈んでいくような感覚がある。

それは不安ではない。けれど、安心とも違う。

まるで、深い湖の底に沈んでいくような、静かな緊張。

その正体を知りたくて、瑞希はそっと口を開いた。


「……ねえ、唯斗くん」


声は、思ったよりも小さくて、

けれど確かに、彼の耳に届いた。


唯斗は、顔を上げる。

その目が、まっすぐにこちらを向いた。


「ん?」


「こうしてると、なんか不思議だね」


「何が?」


「“付き合ってる”ってこと。

 昨日までは、ただのクラスメイトだったのに」


唯斗は、少しだけ考えてから答えた。


「……うん。俺も、まだ実感ないかも」


「でも、嫌じゃない?」


「ううん。むしろ、落ち着く」


その言葉に、瑞希はふっと笑った。

どこか安心したような笑顔だった。

けれど、その奥には、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。




瑞希は、唯斗の横顔を見つめながら、

胸の奥にある“もうひとつの時間”を思い出していた。


あの夏。

あの塔の上。

風が強くて、空が広くて、

でも、怖くなかった。


唯斗くんが、手を握ってくれたから。


その記憶は、夢のようにぼやけているのに、

なぜか、指先の感触だけは鮮明に残っている。


「……私ね、たぶん、“みるい”だったときの記憶があるから、

 唯斗くんの隣にいると、安心するんだと思う」


唯斗は、少しだけ目を伏せた。

そのまま、静かに頷いた。


「……うん」


「でも、それってずるいよね。

 私だけ、覚えてるなんて」


唯斗は、少しだけ首を横に振った。


「ずるくないよ。

 俺も、ちゃんと覚えてる。

 あの夏のこと、全部じゃないけど、

 君の声とか、手のぬくもりとか――忘れてない」


その言葉に、瑞希の胸が、きゅっと締めつけられた。

嬉しさと、切なさと、安堵と、罪悪感。

いろんな感情が、いっぺんに押し寄せてくる。


「……じゃあ、今の私は?」


「“瑞希瑠唯”としての君も、ちゃんと見てるよ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


唯斗の声は、静かで、まっすぐだった。

そのまなざしに、嘘はなかった。

でも、瑞希の中には、どうしても消えない不安があった。


“みるい”としての記憶があるから、

唯斗の隣にいることが自然に感じられる。

でも、それは“瑞希”としての自分が選ばれたわけじゃないのかもしれない――

そんな思いが、時折、胸をかすめる。


けれど、唯斗の言葉は、

その不安を、少しずつ溶かしてくれる。


ふたりの間の空白が、少しだけ縮まった。

唯斗は、そっと手を伸ばした。

瑞希の手に触れると、彼女は驚いたように目を見開いた。

でも、すぐにその手を握り返した。


そのぬくもりは、“みるい”の記憶とも、“瑞希”としての今とも、違っていた。

それは、ふたりだけの“これから”の温度だった。




しばらく、ふたりは手をつないだまま、黙っていた。

言葉はなかった。

けれど、その沈黙は、どこまでもやさしかった。


瑞希は、そっと目を閉じた。

唯斗の手のぬくもりが、心の奥にまで染み込んでいく。


(……このまま、時間が止まればいいのに)


そんなことを思った。

でも、時間は止まらない。

だからこそ、今この瞬間を、大切にしたかった。


「……ねえ、唯斗くん」


「うん?」


「私、今のこの時間が、すごく好き」


「俺も」


「でも、いつか――

 この記憶も、また消えちゃうのかなって、ちょっと怖い」


唯斗は、少しだけ息を吸って、

それから、ゆっくりと吐き出した。


「……消えないよ。

 たとえ忘れても、ちゃんと残る。

 君が、ここにいてくれる限り」


その言葉は、まるで祈りのようだった。

確証なんてない。

でも、そう信じたい。

そう信じてほしい――

そんな願いが、言葉の奥ににじんでいた。


瑞希は、唯斗の肩にそっと寄りかかった。

彼の体温が、頬に伝わってくる。

そのぬくもりに包まれて、

胸の奥の不安が、少しずつほどけていく。


(“みるい”としての私がいた世界と、

 “瑞希”としての今の世界。

 その境目が、少しずつ溶けていく)


それは、怖くもあり、うれしくもあった。

“みるい”の記憶が、今の自分を支えている。

でも、“瑞希”としての自分も、

ちゃんとここに存在している。

唯斗の隣にいるのは、過去の誰かじゃない。

今の、自分だ。


図書室を出たとき、空はすっかり夕暮れに染まっていた。

西の空が、淡い橙色から深い藍色へとゆっくりと溶けていく。

校舎の影が長く伸びて、ふたりの足元に重なっていた。


「……帰ろっか」

唯斗が言うと、瑞希は静かに頷いた。


「うん」


ふたりは並んで歩き出す。

校舎の廊下を抜け、靴を履き替え、

昇降口を出ると、風がふわりと吹き抜けた。


秋の気配が、ほんの少しだけ混じっている。

夏の終わりの匂いが、空気の中に漂っていた。


「ねえ」

瑞希がふと立ち止まる。


「ん?」


「手、つないでもいい?」


唯斗は、少しだけ驚いたように目を見開いた。

でも、すぐに微笑んで、手を差し出した。


「もちろん」


瑞希は、その手をそっと握った。

指先が触れ合い、手のひらが重なる。

その瞬間、胸の奥に、静かな波紋が広がった。


ふたりは、手をつないだまま、歩き出す。

言葉はなかった。

けれど、その沈黙は、もう不安ではなかった。


瑞希は、唯斗の横顔を見上げた。

彼は、まっすぐ前を見て歩いている。

でも、その表情は、どこかやわらかくて、

昨日までとは違う光を帯びていた。


「……唯斗くん」


「ん?」


「ありがとう。今日、いろいろ話せてよかった」


「俺も。……話してくれて、ありがとう」


「ううん。話せたのは、唯斗くんが、ちゃんと聞いてくれるからだよ」


唯斗は、少しだけ照れたように笑った。

その笑顔を見て、瑞希の胸が、また少しだけあたたかくなる。


(この人となら、きっと大丈夫)


そう思えた。

“みるい”としての記憶があっても、なくても。

今、唯斗の隣にいるのは、自分だ。

“瑞希瑠唯”としての自分が、

彼の隣にいることを、ちゃんと選んでもらえた。

それが、何よりもうれしかった。


---


ふたりは、ゆっくりと坂を下っていく。

夕焼けが、背中を押してくれるように、

やさしく、あたたかく、ふたりを包んでいた。


道の端に咲いたコスモスが、風に揺れている。

その揺れが、まるでふたりの歩調に合わせているようだった。


「……ねえ、唯斗くん」


「うん?」


「明日も、一緒に帰っていい?」


唯斗は、少しだけ笑って、

握った手に、そっと力を込めた。


「もちろん。明日も、明後日も」


瑞希は、ふふっと笑った。

その笑顔は、どこまでもやわらかくて、

夕暮れの光に、ほんのりと染まっていた。


---


ふたりの影が、並んで伸びていく。

その影は、まるでひとつの線のように、

ゆっくりと、まっすぐに、

これからの道を描いていた。

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