4.5話
夢界は、階段を上がりながら、
なんとなく胸の奥に引っかかるものを感じていた。
麦茶の入ったコップが、手の中で少しだけ汗をかいている。
冷蔵庫の中には、他に何もなかった。
母親が「ごめんね、今度ジュース買っとくね」と笑っていたのを思い出す。
ドアの前で、ふと足を止めた。
中からは、何の音もしない。
ゲームの音も、話し声も、笑い声も――何も。
(……あれ?)
夢界は、そっとドアを開けた。
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「おーい、麦茶しかなかったー」
声をかけながら部屋に入ると、
唯斗と瑠唯が、少しだけ距離を取って座っていた。
テレビには、ゲームのスタート画面が映ったまま。
ふたりとも、こちらを見て微笑んだ。
「それで十分」
唯斗が言う。
「それにしても、ふたりとも静かだったな。
……まさか、いやしいことでも?」
ニヤニヤしながら聞いてみると、
「うるさいよ、夢界」
唯斗が即座に返す。
「お、またツッコミ入った。よし、今日の俺は満足だ」
いつものやりとり。
でも、夢界の中には、**ほんのかすかな違和感**が残った。
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そのあと、三人でまたゲームを始めた。
笑い声も、冗談も、いつも通り。
でも、夢界の目は、ふたりの間の“間”を見逃さなかった。
たとえば、
唯斗が瑠唯のほうを見たときの、**目の奥のやわらかさ**。
瑠唯が笑うときの、**ほんの一瞬の視線の揺れ**。
それは、言葉にできるものじゃなかった。
でも、夢界にはわかってしまった。
(……あ、これ、たぶん、そういうやつだ)
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帰り道、夕焼けが街を染めていた。
夢界の家から駅までは、ゆるやかな坂道が続いている。
蝉の声は、もうほとんど聞こえなかった。
「じゃ、また明日なー」
夢界が手を振る。
「うん、またね」
瑠唯が笑う。
「……ああ、また明日」
唯斗も応える。
ふたりが並んで歩いていく背中を、夢界はしばらく見送った。
その距離感が、**昨日までとは違って見えた。**
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家に戻ると、母親が「おかえり」と声をかけてくれた。
夢界は「ただいま」と返しながら、靴を脱ぐ。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……唯斗、付き合ってんのかな」
言葉にしてみて、少しだけ胸がざわついた。
それが寂しさなのか、驚きなのか、自分でもよくわからなかった。
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夢界は、唯斗のことをよく知っている。
無口で、真面目で、でもどこか抜けていて。
それでも、**大事なときには、ちゃんと誰かの手を取れるやつ**だ。
そして、瑠唯――
あの転校生は、どこか“違う”。
言葉の選び方、笑い方、沈黙の使い方。
全部が、**この世界のリズムと、ほんの少しだけズレている。**
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夢界は、ベッドの上で目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、
唯斗が瑠唯を見つめるときの、あの目の奥の光。
(……でも、悪くないな)
そう思った。
ふたりが並んでいるのは、自然だった。
違和感はある。でも、それは“悪い違和感”じゃない。
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ただ――
夢界の中には、ひとつだけ、拭えない感覚が残っていた。
**「あの子は、本当に“今”の人間なのか?」**
それは、疑いではなかった。
ただの直感。
でも、夢界の直感は、たいてい当たる。
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夢界くんの家は、思っていたよりも静かだった。
外観は少し古くて、でも玄関のたたきはきれいに掃かれていて、
靴箱の上には、季節の花が飾られていた。
お母さんが笑って「いらっしゃい」と言ってくれたとき、
私は少しだけ、胸の奥が温かくなった。
この家には、ちゃんと“日常”がある。
それが、うれしかった。
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夢界くんの部屋は、整っていた。
漫画が並び、ゲーム機が置かれ、
ベッドの上には、くたびれたクッションがひとつ。
窓から差し込む光が、床にやわらかく広がっていた。
唯斗くんと夢界くんが、並んでゲームをしている。
私はその横で、コントローラーを握りながら、
ふたりのやりとりを見ていた。
夢界くんは、明るくて、まっすぐで、
でも、時々ふとした瞬間に、**鋭い目をする。**
それが、少しだけ怖かった。
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夢界くんが「飲み物取ってくる」と言って部屋を出たあと、
部屋の空気が変わったのがわかった。
唯斗くんとふたりきり。
私は、胸の奥で何かが波打つのを感じていた。
――言うなら、今しかない。
でも、言ってしまったら、
もう“瑞希瑠唯”としての輪郭が、少しだけ崩れる気がして。
それでも、私は口を開いた。
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「……あの夏の日、覚えてるよ」
唯斗くんが、私を見る。
その目の奥に、驚きと、戸惑いと、
それでもどこか、**安堵のようなもの**が浮かんでいた。
私は、あの塔のことを話した。
風の音、空の色、手のぬくもり。
全部、夢だったのかもしれない。
でも、確かに覚えている。
“みるい”としての記憶。
それが、私の中にある。
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唯斗くんが「君は“みるい”なの?」と聞いたとき、
私は笑った。
違う。私は“瑞希瑠唯”。
でも、“みるい”の記憶があるのは本当。
それを否定する理由は、もうなかった。
だから、私は言った。
「……私たち、付き合ってみる?」
それは、衝動でも、計算でもなかった。
ただ、**今ここにいる私が、そうしたいと思ったから。**
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唯斗くんが頷いたとき、
胸の奥に、静かな波が広がった。
それは、懐かしさとも、喜びとも違う。
でも、確かに“始まった”という感覚だった。
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夢界くんが戻ってきたとき、
私は、何もなかったように笑った。
でも、彼の目が、ほんの一瞬だけ私たちを見たとき――
**何かに気づいたような光が、そこにあった。**
夢界くんは、鋭い。
でも、優しい。
だから、きっとすぐには何も言わない。
でも、きっと、見ている。
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帰り道、唯斗くんと並んで歩く。
夕焼けが、街を染めていた。
私は、ふと彼の手を見た。
さっき、重ねた手。
今は離れているけれど、
**あのぬくもりは、まだ指先に残っていた。**
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夜、部屋に戻って、
私は机の引き出しを開けた。
中には、小さな石が入っている。
白くて、すこしだけ光っている。
それは、あの世界から持ち帰ったもの。
“みるい”としての私が、最後に拾ったかけら。
私は、それをそっと手に取った。
「……唯斗くん、ちゃんと覚えててくれて、ありがとう」
声に出すと、少しだけ涙が出そうになった。
でも、泣かなかった。
泣いてしまったら、“今”が崩れてしまいそうだったから。
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私は、“瑞希瑠唯”。
でも、“みるい”の記憶を持っている。
そのことを、唯斗くんが受け入れてくれた。
それだけで、今は十分だった。
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次の日、夢界はいつもより少しだけ早く登校した。
教室のドアを開けると、まだ誰もいなかった。
窓から差し込む朝の光が、床に長い影を落としている。
夢界は、自分の席に座り、
ぼんやりと空を見上げた。
空は、青かった。
でも、どこか――**透明すぎる気がした。**




