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「ヴァレンウッド事務官。今日中にこの書類をまとめてくれるかな?」
「はい、室長」
「さすがだ。君は本当に優秀で助かるよ。じゃあ、よろしくね」
机の横に立っていた中年の男はそう言うと、わたしの頭を撫でて機嫌良さそうに立ち去っていった。
わたしはゾゾゾ、と腕に鳥肌が立つのを感じて思わず腕をさする。
この経理部のトップであるモートン室長は小太りの四十歳くらいの男性で、いつもニコニコとしていて気の良い人ではあるのだが、いまいち距離感が取りづらい。
ああやってよく頭や肩を触ってくるのは、わたしのことを娘のようにでも思っているのだろうか?
確か、離縁した奥さんとの間に娘が一人いるという話だったけれど。
そんなことを考えながらわたしは、たった今渡された分厚い紙の束に目を通す。次のガーデンパーティーの予算に関する資料だった。
わたしが働いている王宮の経理部は、主に各部門への予算の策定や税務管理などを行なっている。
やりがいもあるし、仕事自体は楽しい。ただ、ここ最近結婚して仕事を退職された女性の先輩たちが何人もいて、彼女たちの仕事がわたしにほとんど回され、際立って仕事量が増えたなと感じる日々だった。
これは今日も残業かな、と肩を回して音を鳴らしたそのとき、隣の席に座っていた同僚のバニス事務官が「ちょっとすみません」と周りを見渡しながら手を上げた。
「あの、僕これから午後休でどうしても外せない用事があって……どなたかこちらの書類を騎士団のほうに届けていただけませんか?」
その言葉に目の色を変えたのは、若い女性の事務官たちだ。
「私が!」
「いえ、私にお任せください!」
「お二人とも机の上の仕事を終わらせてから仰ってくださいな。ここはわたくしが行きますわ」
経理部の華である女性事務官の三人が互いに視線で牽制し合い、険悪な空気が漂い始める。
騎士団は花形の職業で高給取りだ。そのうえ見目の良い男性が多く、あわよくばお近づきになりたいという女性は後を絶たない。
バニス事務官は、誰に頼んでも角が立つと思ったのだろう。困ったように頬をポリポリとかきながら、ちらっと横目でわたしのことを見てくる。
ああ、なんだか嫌な予感が。お願いだからわたしに面倒事が回ってきませんように。
そう心の底から願ったのも虚しく、バニス事務官は「やっぱりヴァレンウッド事務官に頼もうかな」と素早く書類を手渡してくる。
「あの、わたしは……」
「確か騎士団に提出する書類があるって言ってたよね。ついでに行ってもらえると助かるよ」
わたしが断ろうとした空気を察したのか、素早くそう述べると自分の荷物を持って「お先に」と帰っていった。
確かに騎士団へ持っていく書類はあるけれど、急ぎでもなんでもないのに。
わたしは女性事務官たちから鋭い視線を向けられているのを感じてため息を吐く。そして面倒なことはさっさと済ませてしまおうと書類を騎士団に届けるべく立ち上がったのだった。
◇ ◇ ◇
騎士団の詰所は同じ王宮内にある。わたしは補佐官たちが仕事をするための部屋にたどり着くと、ノックをして自らの所属と名前を名乗った。
「経理部のエリアナ・ヴァレンウッドです。書類をお届けに参りました」
「どうぞ」
「失礼します」
室内はとても静かで、紙をめくる音とペンを走らせる音のみが時折聞こえてくる。
入り口の一番近くに座っていた補佐官に書類を手渡すと、パラパラと流し見しながら簡単に書類を確認してくれた。
「ありがとうございます。経理部の書類ですね。おや?」
その言葉と同時に分厚い書類をめくっていた手を止める。
「あの? 何か問題でも?」
「いえ、こちらはおそらく団長に確認が必要なものなのですが、現在団長は不在にしておりまして。ヴァレンウッド事務官、ここに来るまでの訓練所なんかで団長を見たりしていませんか?」
「いえ、見ていないです」
そもそも訓練所を素通りしてしまったので、と心の中で付け加える。
王宮に勤める女性たちは隙あらば騎士団の訓練所へと通い、騎士たちの凛々しくも勇ましい姿を目に焼き付けようとするというけれど。
「そうですか、またふらっといなくなったきり戻ってこないので訓練所にでもいるかと思ったのですが……すみません、引き留めてしまいましたね。確かに書類はお受け取りしましたので」
「はい、よろしくお願いします」
わたしはそう言って騎士団の詰め所をあとにすると、広大な王宮の回廊を早足で歩いていく。中庭の横の道に差し掛かったとき、なんだか物音が聞こえたような気がしてふと振り返った。
視線の先、色とりどりの花が咲き誇る美しい庭園の中に違和感のある黒色が見え、思わず目を凝らす。
中庭の奥まったところにあるガゼボ。そのベンチに男女が並んで腰掛けているのが見えた。女性はお仕着せを来ているので、王宮に勤める侍女だろうか。そして男性のほうは高級そうな布地で仕立てられた騎士の制服を着ている。
わたしのいるところからはちょうど男の後ろ姿しか見えなかったが、その姿がふいに動いた。男は目の前の女性の頭を引き寄せその耳元で何事かを呟くと、一瞬の間に距離を詰めてキスをする。
こちら側に向いている女性の顔が真っ赤になるのが遠目にもわかった。
わたしはその様子を無表情に眺めたのち、さっと踵を返して自らの仕事が待つ執務室へと戻ったのだった。