迅雷 完
硬直した戦況をひっくり返したのは、井上光盛の軍勢であった。
重光の雑色人から平氏の旗を受け取った井上軍は、その赤旗を掲げ下山すると、加勢と見せかけて城軍へと近づいた。近くまで軍を進めた井上光盛は、赤旗を下ろすと一斉に源氏旗である白旗を掲げ、突如として平氏軍に襲い掛かったのである。
井上軍が味方についたと油断していた城助茂は、ひどく動揺した。
約束通り井上軍が敵に奇襲したのを確認した木曾義仲は、これを勝機と見るや全軍に総攻撃を下知した。
背後と正面を敵に挟まれた平氏軍の駆武者たちは、甲冑をその場で脱ぎ捨てると散り散りになって戦場を逃げ出していった。城軍は一気に総崩れとなったのである。
大将である城助茂も退却したが、越後の国府にやっとの思いでたどり着いたとき、手勢はわずかに三百人余りであったという。
この横田河原合戦は、様々な書物や口伝によって現在まで語り継がれている。
「あはれ剛の奴かな、弓矢取る身は斯様の者をこそ召使ふべけれ」
『源平盛衰記』に記された、義仲が重光の最期を見届けたときに発した言葉だったという。
この戦ののち義仲は、越後、越中を手中に収めると、寿永二年(1183)五月、越中と加賀の国境、倶利伽羅峠で平家軍に大勝し京へと進軍するのである。
倶利伽羅峠の戦いに従軍していた葵は、ここで戦死したと伝わる。葵塚と呼ばれる塚が現在もその地に残る。
同年七月、入洛を果たした義仲は、安徳天皇を連れて西国へ落ち延びた平家を滅ぼし三種の神器を取り戻すよう、後白河法皇に命じられる。
しかし、天皇後継問題に口を挟んだ義仲と後白河法皇の関係は険悪なものとなり、十一月、義仲は法皇を幽閉してしまう。
その後、源頼朝の弟、源範頼、源義経が率いる鎌倉軍との戦いに敗れた義仲は、粟津で最期を迎えることとなるのである。これは、横田河原合戦からおよそ三年後の出来事であった。
現在、長野市篠ノ井に「合戦場」という地名が存在する。横田河原合戦の戦場となったことからこの地名になったといわれている。
合戦場からバイパス沿いを五分ほど車を走らせると、古戦場入口という交差点に突き当たる。ここを右折するとすぐ左手に川中島古戦場公園が見えてくる。永禄四年(1561)に甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が第四次川中島の戦いを繰り広げた土地である。
この川中島の戦いと横田河原合戦との共通点が非常に多いことに驚かされる。
場所はもちろんのこと、領地を追われた信濃の国人たちが越後の有力者に助けを求めたこと、義仲と信玄は東信濃のとある地域で一旦味方を集結させたこと、奇襲戦法で決着がついたこと、犀川を挟んだ戦が決戦の前に起きていることなど、挙げればきりがないほどである。
そのなかのひとつにこういった話がある。
川中島の戦い以前、信濃を追われた村上義清という武将がいる。その家臣のひとりに、川中島の戦いで上杉謙信に従い何度も軍功を挙げた武将がいた。
名を杵淵備中守といい、重光の子孫であるという。
史実か創作か。
はたまた歴史の因果であろうか。
完