迅雷 5
吾妻鑑に「市原合戦」と記されるこの戦は、木曾義仲の援護により、栗田範覚、村山義直の軍が笠原頼直の軍に勝利を収めた戦いであった。
敗れた笠原頼直、布施惟俊、富部家俊は信濃を去り、越後の平氏豪族、城助永のもとへ落ち延びて行った。
翌年の治承五年(1181)、信濃平氏の求めに応じ信濃進軍の準備をしていた城助永は突然死してしまうのだが、弟の城助茂が六月に木曾義仲追討の軍を挙げるのである。
信濃で市原合戦が起きたちょうど同じころ、関東では源頼朝が、甲斐では武田信義が、それぞれ以仁王の令旨を受け挙兵していた。
治承四年(1180)十月二十日には、源頼朝と武田信義が手を組み平家追討軍を富士川で迎撃し、見事勝利を収めている。
平清盛が福原で亡くなったのもこの年のことであった。
笠原頼直という信濃一の平氏豪族をその地から追い出すことに成功した木曾義仲は、越後まで侵攻することはせず、戦の直後、勢力拡大のため上野へと出陣している。
一方、重光はというと、ひとり信濃に残っていた。
「敗因のひとつである井上軍襲来という虚言を流した疑いでお前を勘当する」
二度と富部の郎等と名乗るでない。
富部家俊は、怒りで震える白刃を重光の喉元に突き付けながらこう言うと、重光に背を向け越後へと去って行った。
「何故じゃ……」
杵淵郷の中で一番大きな屋敷にいる重光は、ぶつくさと呟きながら床を睨み据え、時々思い出したかのように盃のどぶろくを胃の腑へと流し込んでいた。
実はというと、主に勘当された衝撃は大きかったが、それよりも助かったという安堵の方が上回っていた。味方が勝利していれば、いまごろ虚言を流した罪で農業用の水を止められていたかもしれないからだ。
しかし日がたつごとに、主人に縁を切られた衝撃と水路を遮断されなかった安堵は、重光の脳裏から薄れていった。
葵のことである。
「おい、酒がなくなった。すぐに持ってこい」
重光は、屋敷のどこかにいる雑色人に大声で命じた。
「何故じゃ……」
何故、己はあの娘を捕らえなかったか、である。
土間から徳利を持ってきた雑色人に、鬱憤晴らしに手に持っていた盃を投げつけた。
男は少々びくついたが、何も言わず盃を拾い上げるとそそくさと部屋をあとにする。
その様子を見て重光はさらに苛立ちを募らせた。
あの戦以来、日に日に葵のことを思い出しては息が苦しくなることが増えていった。
重光にとって、今後の己の身の振り方をいかにするかが危急の問題であるはずであった。城助茂の平氏につくか、木曾義仲の源氏につくか、である。
(やはり主に許しを請うた方がよいか)
などと考えていても、いつの間にかあの黒髪と白い頬と仄かな甘い香りが思考の邪魔をする。
毎夜床に就き目を瞑ると、娘との栗田寺での出会いや河原での一騎打ちを思い出しては身もだえる。
今あの娘はどこにいるのだろうかと居てもたってもいられなくなり、おそらくは栗田寺付近の屋敷にいるのではなかろうか、今からでも助命の恩と引き換えに嫁にと頼みいるのはいかがであろうか、いや、一夜ともに語り合うだけでもよいから様子を窺いに行こうか、などと本気で考えては床から這い出し部屋中をぐるぐると歩き回る。そんな夜が続いた。
なぜ捕らえなかったか。栗田寺においても、犀川の戦においてもやろうと思えばできたはずである。
毎晩、思い苦しんだ挙句、重光は己のこの苦悩にひとつの結論を見出した。
(源氏につき栗田範覚と懇意の仲となり、娘との縁組を頼み入ろう)
床の中で天井を睨みながらこう決めたのは、富部家俊に勘当を言い渡されてから九か月もの月日が経ったある晩のことであった。