迅雷 4
治承四年(1180)九月、稲の収穫も終わり、朝夕寒ささえ感じる季節になっていたにも関わらず、この日は朝から蒸し暑かった。
笠原頼直率いる信濃平家軍は善光寺を出立すると、犀川を挟んで栗田、村山軍の真向かいに陣取った。市村の渡しと呼ばれる場所である。
笠原頼直は、敵の後詰に木曾義仲が参戦してくるのを恐れていた。
そのため、敵を一度手前岸におびき寄せたのち、木曾義仲の援軍が来ないことを確認したうえで、味方の総力をもって一気に犀川の底へ沈める、という作戦を立てた。
戦況は、笠原頼直の思惑通りに展開した。
夕刻頃、南西の山から入道雲が湧きだし、善光寺平は徐々に薄暗い闇に包まれていった。
敵を犀川の縁まで追い込んだ重光は、敵のしんがりを務める武士を見て驚き、その場に立ち尽くしてしまった。
その武士は、昨年の栗田寺襲撃の際に遭遇した葵と名乗った娘だったのである。
葵は、次々に逃げ戻ってくる栗田の兵を反対岸に逃がそうと、川辺で薙刀を振り回し敵を切り倒していたのである。
(これほどの武勇の持ち主であったとは……)
驚きのあまり、重光は呆然と女武者の戦ぶりを眺めていた。
しかし、周りをぐるりと平氏軍数十騎が取り囲み、葵が討たれるのも時間の問題にみえた。
(なんとかあの娘を助けてやりたい)
重光は敵であるにも関わらず、今にも首をとられそうな目の前の女の命を救ってやりたくなったのだ。
ふと、ある一案を思いついた重光は、己の雑色人を呼びつけると周りの者に聞こえぬよう小声で耳打ちした。
雑色人は困惑した表情を浮かべたが、重光に睨まれると、黙って味方の後方へと走り去っていった。
いつの間にか降り出した雨が兜に当たり、律動的な音を奏で始めている。
「富部家俊が郎党、杵淵小源太重光である。そなたの戦ぶり、女でありながら見事である。富部郎等一の剛の者と言われる己と一騎打ちいたせ」
葵の前まで馬を進めた重光は、声が上ずらないように気を配りつつこう言い放った。
このままでは味方に葵が殺されかねないと思った重光は、一騎打ちを挑んだのである。
「そなたは昨年の……」
重光を見上げた女武者は、途中で言葉を濁した。
「よかろう。富部一の武士がどれほどの力量か確かめてやる」
馬から降りた重光は、堂々と言い放つ葵の眼前へ、鞘から太刀を抜き放ちながら歩み寄った。
間をとって、じりじりと互いに相手の出方を窺う。
静寂の中、川面を打つ雨音だけが聞こえる。
得物の長さにおいて有利な葵が先に動いた。
薙刀の穂先を下段から重光の左脇腹を裂くように切り上げる。それを太刀で弾き返した重光はひらりと体を回転させながら隙のできた相手の左腿へ切っ先を繰り出す。辛うじて防いだ葵はその余勢で薙刀を重光の頭上に振り下ろす。それを太刀で受け流す。
周りの兵はこの一騎打ちを茫然と見守っていた。
二人の立ち合いはまるで、華麗な二羽の蝶が野原に咲く花の上を楽し気に舞うかのように見えた。
突然、あたりが閃光に包まれたかと思った次の瞬間、耳をつんざく轟音が大地を震わせた。
重光と葵は少し距離を置き、構えたまま静止した。
沈黙がその場を支配する。
次の稲妻が天空に走った時である。
西の山上から鬨の声と共に新手の軍が湧きだしてきたのだ。
鬨の声が落雷の地響きと重なる。
その軍は、真っすぐに山を駆け下ってくると、突如として平氏軍に襲いかかってきたのである。
騎馬隊の先頭を駆ける武士が、太刀を天に突き上げながら大音声で名乗った。
「源義賢が次男、源義仲なり!この戦を平家打倒の狼煙とせん!」
義仲と名乗った男の兜の前立てが、雷光に反射して不気味に光る。
「あれが……、木曾義仲か……」
重光は、恐怖と羨望の入り混じった目で、遠くに見える木曾義仲を見上げた。
突然湧いて出てきた敵の騎馬隊に横腹を突かれた形となった味方の軍から惨憺たる悲鳴が上がった。まさかここに至ってこの男が動くとは思っていなかったのである。
犀川の対岸へ逃散していた栗田、村山の兵も木曾義仲の援軍に鼓舞され、再びこちらへ取って返してきていた。
味方が態勢を立て直せぬまま劣勢に陥り始めたときである。重光の背後から別の悲鳴が聞こえた。
「井上光盛の軍が挙兵し、我々の背後から襲い掛かってくるぞ!」
(しまった……)
雨とは別の冷たい雫が己の背中に伝うのを感じた。
この井上軍襲来の情報は、葵を助けるため、雑色人に味方の背後で言いふらすよう重光が命じた虚報であったのである。
間が、悪かった。
先ほどまでは味方の軍が栗田、村山の軍を犀川に追い落とし、九割九分勝利を確定的なものにしていた。葵ひとりを助けられればそれでよかったのである。
しかし、木曾義仲の奇襲により、戦況は一変していた。
木曾義仲の参戦で浮足立っていた、笠原、布施、富部の兵は、井上軍襲来の流言を聞くとその場をあとに次々と敗走を始めた。重光の周囲にいた味方も同様である。
重光も敵が満ち始めたこの場を去らざるを得なくなった。
一瞬、葵に目をくれると、背を向けて重光は走り去っていった。
葵の勇ましい声が落雷の轟音と共に重光の背後を追いかけてきていた。