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迅雷  作者: 三峰三郎
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迅雷

 1181年(治承五)7月、木曾義仲と城助茂が善行寺平にて戦す(横田河原合戦)。1184年(寿永三)三月、木曾義仲、粟津にて敗死。

「一人残らず召し取れ。抗うものは切り捨てて構わぬ」


 主人の命を受けた杵淵小源太重光は、先ほど味方が射かけた火箭で煙りはじめた栗田寺へ、真っ先に乗り込んだ。

 日が昇ってからまだ一刻(二時間)と経っていない。


 境内へ駆け入り、名乗りを挙げようと太刀を振りかざし口を開きかけたが、そこには誰もいない。


(善光寺へ逃げたか)


 敵大将のひとり、栗田寺別当範覚がまだ潜んでいないか確かめるために、重光は熱気と煙が充満する寺の奥へと進んでいく。

 すると、奥の間、板襖の前に敵の郎等が二人、背後を守るかのように重光の行く手を阻んだ。


「富部三郎家俊が郎党、杵淵小源太しげ……」


 重光が名乗ろうとするのを遮って、一人の男が必死の形相で襲い掛かってきた。重光は驚いて身構える。

 突進してくる相手の切っ先を重光は冷静に躱すと、前のめりになって無防備となった相手のうなじを後ろから太刀で貫いた。相手の首から血飛沫が噴き上がる。


(名乗る名すらなかったか)


 軽蔑を込めた視線を倒れて動かなくなった男からもう一人へと向ける。

 残った男は、その場でガタガタと体を震わせていた。今すぐにでもこの場から逃げ出したいがどうしても守らなければならないものがある、といった様子である。


 重光はもう名乗ろうとはしなかった。そうすべきほどの相手ではないと悟ったためであるが、それよりも相手の背後の部屋に何があるか気になったからである。

 

 太刀を構え直した重光は、相手の震える刀身を思い切り払い上げ、瞬く間に懐へ潜り込むと左脇腹の鎧の隙間へ太刀をねじ込んだ。断末魔の叫びが上がる。


 しかし、もうすでに重光の関心はそこにはなかった。

 重光が襖を開け奥の間に入ると、薙刀の穂先をこちらに向けて構える者がいた。

 その者と視線が交差する。

 

 瞬間、燃え盛る炎の熱気、息苦しいほどの煙、背後の男の叫び声、返り血で濡れた太刀の柄の感触、そういった外部の情報が重光の脳内からすべて消え去った。そこにはただ、春の日差しに当たりながら空中を浮遊しているような感覚と己の鼓動のみがあった。


「栗田寺別当範覚が娘、葵」


 十七、八に見えるその娘がよく通る清んだ声で名乗った。その声音は重光の鼓膜を心地よく振動させた。


 膝まで垂れた艶やかな黒髪、細く筋の通った鼻、小動物を連想させるような目尻の下がった大きな瞳、ふっくらとした白い頬。すべての部位が楕円の輪郭に調和を取って配置された娘の顔は、神が特別な意思を持って作り上げたのではないかと思わせるほど美しかった。

 

「……早く逃げよ。そなたの父は、おそらく善光寺へ退いた」

 

 葵と名乗った女は驚いた表情をしたが、重光自身も己の言葉を疑った。重光が発した言葉は、思考を巡ることなく口から零れ出たのである。

 少しの沈黙ののち、重光は続けた。


「よこせ」


 葵は困惑していたが、警戒は解かない。

 重光の後ろからこちらに近づいてくる味方のものと思われる足音が聞こえた。


「早くしろ」


 重光は叫ぶと娘の薙刀を素早く奪い取り、その勢いのまま床板の隙間に突き刺した。力任せに床板を剥ぐと、そこには暗くて湿った空間が顔をのぞかせた。外へと通じている。


「急げ」


 薙刀を持ち主に返すと、重光は女を催促した。背後の足音が大きくなる。


「なぜ……」

 

 葵が瞼をぱちくりさせながら問いの言葉を発しようとしたとき、背後から迫ってきていた足音の主がこの部屋に到達した。

 そこにはすでに、茫然と立ち尽くしている重光がいるだけであった。

 僅かに残る甘い香りに気が付いたのは、重光のみであった。



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