前編
前編、後編の二つに分かれます。
王道の恋愛ではなく、かなりドロドロした感じの話になる予定です。
二階にある、張り出したベランダで私は一人の男に追い詰められていた。
必死で愛しい人の名を呼ぶけれど、いつもはすぐに駆けつけてくれるあの人はやってこなかった。
「やだ、来ないで」
悲痛な面持ちでこちらへ銃を構え、ゆっくりと歩んでくるその人は頬を涙で濡らす。
「お願いだから、イエスと答えて」
「いいえ、無理よ」
下には多くの人がおり、興奮した様子で屋敷に火を付けていた。下から強風が吹き、真っ黒い煙がぶわりと私を包んだ。
喉に煙が引っ付き、重い咳をする。
「無理じゃない。だって、僕たちは愛し合っていたじゃないか」
「だから、そんな事実はないわ。なかったことを言われても困るの。それに私が愛するのはただ一人、エスフィア様のみだから」
そうして、婚約指輪にキスを落とす。
ねえ、早く私を迎えに来てよ。
その仕草を見た男は涙を隠すことなく、静かに泣きながらレボルバーを回して震える手でレボルバーを引いた。
嗚呼,死ぬのかな。
私の脳裏によぎったのは、やはり最愛の人だった。
覚悟をして目を閉じたものの,一向に痛みがやってこなかった。
恐る恐る目を開くと、指先を男に向け、私に背中を向けたままでいるエスフィア様がいた。
やはり、来てくれた。
「エスフィア様」
男から私を隠すかのように立つエスフィア様の背中にそっと擦り寄ればエスフィア様は振り返って私の頭を優しく撫でてくれた。
「遅くなってごめんね」
銃は地面に落ち,足をついて茫然とする男をエスフィア様は何でもないかのように瞬時に消し去り,屋敷を順調に舐めていた火を一瞬で鎮火した。
ゴホ,と咳が出る。
エスフィア様は手を喉にやって目を閉じ,ブツブツと唱えた。すると、喉の違和感がなくなった。
「ありがとうございます」
エスフィア様は私を優しく抱きしめるとベランダから空へ飛び立ち、下で驚き、怒声をあげている民衆へ一発、火を吹いた。
「次,本気で火を放つ。今,ここで去れば命は見逃してやろう」
わざわざ鎮火をした後に自ら放火。
据わった目で見られた民衆は何やら悪い方向へ事が動いていることを察知し、我先にと屋敷の敷地から逃げていった。
ああ、惚れ惚れしてしまうくらいに美しく聡明なエスフィア様の、瞳がとても……
「アリー!」
そのまま、私は失神してしまった。
ぎしり、と何かが軋む音がし、はと目を開く。
「ようやく目を覚ましたか」
「エスフィア様」
私を抱き締めるようにして隣に横たわっていたエスフィア様は私を優しく起こして手を振り、コップを呼んだ。
「きっと、喉が渇いているだろう。アリーの好きな紅茶だ。飲め」
「ありがとうございます。でも、今日は気分ではなくて」
微かに金に光る紅茶は私が好きなものだ。しかし、何故かそれがとても不気味に見えてしまう。
「そうか」
エスフィア様は気分を害した様子もなく、それを消す。
ゆっくりと私を横たわらせ、目に手を当てて囁いた。
「なら、寝ておけ。疲れが溜まっている」
「はい」
エスフィア様の美しい魔法によって私はゆるやかに眠りについた。
眠った私をとてつもなく優しく見つめ、これでもかと防御魔法を私の周りにエスフィア様が展開していたことはエスフィア様ただ一人しか知らない。
そして、その瞳の奥に激しい愛の色が浮かんでいたことも、誰も知らない。
翌日。
目を覚ましてみると、隣にいたはずのヴィアンシアレ卿の姿がなかった。
……何故、エスフィア様のことをヴィアンシアレ卿と言ってしまったのだろうか。
何故かはわからないが、心がざわざわした。
ざわざわして、なんとも気持ちが悪い。
その時、エスフィア様が部屋に入ってきた。手には朝食を持っている。
「そろそろ起きるだろうと思って、持ってきた。食べるだろう?」
嗚呼,本当に優しい方だ。
「はい、ありがとうございます」
パンを食べ、サラダを食べ、黄金色に輝くスープを見た瞬間、手が止まる。
「どうした」
スープから、なんだか嫌な感じがする。
「すみません、ちょっとお腹いっぱいになってしまって」
エスフィア様はそっと目を閉じ,一瞬無表情になった。その表情のなさにびくりと体を震わせる。
「エスフィア様……?」
おどおどと問いかけるとエスフィア様はにこりと微笑んだ。
「そうか、無理して食べることもない」
そう言って下げた。
また翌日。
ヴィアンシアレ卿のことを私は本当に好きなのだろうかと言う気持ちになってきた。
薄ぼんやりとする記憶の奥底、私はヴィアンシアレ卿ではない人と手を繋ぎ、笑っていたような気がするのだ。
毎晩出される紅茶に、毎朝出されるスープ。
心の奥にいる何かが飲むなと言っているので飲まずにいるが、それが関係しているのだろうか。
ふと、地下から叫び声が聞こえた気がした。
地下にあるのは、確か監獄。
私に銃口を向けた男が閉じ込められている場所。
今までならきっと地下に行こうなんて思わなかった。
だのに、この時は行ってみようと思ってしまった。
緻密な刺繍が施された室内着にカーディガンを羽織り、足音を殺して地下へぽっかりと開いた『決して行ってはいけない』とヴィアンシアレ卿に何度も言われてきた監獄の入り口に着いてしまった。
銅でできた扉には蝶使いがあったが、ヴィアンシアレ卿がかけ忘れたのか開いていた。
一瞬、何かの罠かとも思ったが、ヴィアンシアレ卿が私に罠を仕掛ける理由というものが見当たらない。
そっと扉を押して中に入ると、鉄臭い匂いが充満していた。
吐き気がし、でも進まなければという焦燥感に駆られ、唇を噛んで進む。
トゲトゲとした銀製の柵にカーディガンが引っかかり、布が裂ける音がした。
「ひゃっ」
後ろに戻される感覚に背中が冷え、思わず声を出してしまう。
「アリー?」
その声に反応して、遠くから私に呼びかける声がした。ヴィアンシアレ卿のものではなく、多分男のものだ。
声が掠れていて元の声とは似ても似つかないが、きっと男……アルハーンのもの。
……アルハーンって誰だ?
ふと頭によぎった名前に首を傾げる。
あの男とはあの日が初対面だ。
何故、名前が出てきたのだろうか。
「アリー、いるんだろう?」
ガシャガシャ、と鎖のぶつかり合う音がした。
そっと声の方向に近づいていき、壁にあった蝋燭を手に取って男の元に向かった。
「確かに、私の名はアリーです。でも、何故知っているのですか」
ボロボロになった男は壁に寄りかかり,私を見るとほっとしたように笑みを浮かべた。
「良かった。アリーが無事で」
「私の質問に答えて下さい」
男は茶色の、綺麗な髪をかきあげて上を向く。
「きっと、アリーは信じないだろうが、本当に恋人同士だったんだ。だから、知っている」
「私が嘘をついていると?」
男はゆるゆると首を振った。
「違う。ヴィアンシアレ卿が嘘をついている。もしくはアリーに何かした」
まさか、愛するヴィアンシアレ卿がそんなことをするはず……
本当にそう言い切れるのか?
疑問が首をもたげた。
ヴィアンシアレ卿は優しい人ではない。自分の思う通りに事を、人を動かしたがる人だ。
いや、何を考えているのだろう。
「アルハーン」
考え込んでいた私の耳に飛び込んできた名前。さっき、私の頭に浮かんだ名前だ。
はっと目を上げれば男は悲しそうな顔で言った。
「僕の名前だ」
アルハーン……恋人……ヴィアンシアレ卿……
頭の中がぐるぐるとかき乱される。
何かがおかしい。変だ。変……
「何をしている」
不意に手首を強く掴まれた。
男は柵の向こう側にいるから私の手首を掴むことは不可能だ。
「え……」
後ろに首を向ければヴィアンシアレ卿が今までにないくらいの怒りの形相で私と男を見ていた。
「アリー、何故ここへ来た」
左腕で体を固定され、右手で頭を上に向かせられる。
「何故だ?」
ヴィアンシアレ卿の瞳から涙が溢れる。
「何故、私を見ない?」
ヴィアンシアレ卿からどろどろとした黒い煙が吹き出して私に巻き付く。
遠くで逃げろと叫ぶ声が聞こえたが、そのまま意識が消えた。