いきなり科挙? 【その2】
景福宮の前の広場に宮殿を背にして国王夫妻の席が設けられている。数段下がって後宮や王族の席も用意されていた。その中に一際艶やかな衣装の仁嬪が座っている。
信城君もいる。光海君は一人腰掛けているがお付きの尚宮たちが後ろに控えているから大丈夫だろう。左右には堂上官達が品階に従って並んでいる。イ・イはいつも通り柔和な笑みを浮かべているし、おっさん…チョン・チョルも今日は顔を出している。
呑むだけでなく仕事もきっちりとやっていたのだな。通常の科挙であれば地面に直接腰を下ろして受験する。さすがに王子にそれはあんまりだと思ったのか机と椅子が用意されていた。これはこれで変な感じだ。たった一人机に座って大勢に見つめられて受験する。考え方によっては一種のイジメだな。おまけに俺の机の四方は縄で囲まれている。その縄を支える柱と縄には色とりどりのお札が貼られている。
極め付けは昭格署の導流や巫女まで並んでいる。いつの間にか俺は鬼神憑きから鬼神その物か妖怪変幻の類にランクアップしたようだ。親父……宣祖はまだ来ていない。
席に座った連中を見ていると仁嬪が見た事もないような笑顔で俺を見つめている。
その笑顔がどう変わるか楽しみだ。
そうこうしていると国王の到着を告げる声が響いた。
親父……宣祖はいつものポーカーフェイスだが隣に腰掛けた王后様は心配そうな顔をされていた。この方はいつも俺たち兄弟を可愛がって下さる。そう言えば仁嬪は別にして他の側室達も誰も嬉しそうな顔はせずに心配気な視線を寄越している。これは亡くなった俺たちの母親、恭嬪・金氏の人柄によるらしい。後宮にあって親父……宣祖の寵愛を受けても驕らず王后様を慕っていたと聞いた。
親父……宣祖が立ち上がって口を開く。
「……皆の者、大義である。本日は王子、臨海君に「鬼神憑き」の疑いがありとして、改めて臨海君に問を行う。」
親父……宣祖が腰を下ろすと弘文館の役人達が席についた。親父……宣祖が直接に問うのでは無く弘文館の役人達に問いをさせる様だ。彼らは全員が経筵のメンバーでもある。そんな事を考えながら役人達の顔を眺めているといよいよ始まる様だ。
問いは初めの内は四書五経の部分を指定して暗誦をせよと言う内容だったが、いつの間にか内容を問う問答になっていった。俺には「鬼神憑き」の疑いがかかっているからか『易経』からの出題が多い。科挙は科挙でも『雑科』の昭格署、道流の選抜試験の様だ。親父、これで合格したら俸禄をくれるのか?本当に聴きたくなった。
粗方、問いも出尽くしたのか口を開く役人が居なくなった。親父……宣祖も王后様も満足そうな顔をされている。『あの』仁嬪もなごやかにに笑みを浮かべている。
『ヤバイ!』
俺は警戒警報を最大値に引き上げた!
第1種戦闘体制と言うやつだ。
親父……宣祖が席を立ち終わりの宣言しようとした時に声を出す者が居た。
「……国王様、この私めにも臨海君様にお尋ねする機会をいただけますでしょうか」
声を出したのはイ・サネ(李山海)だった。確か仁嬪とも関係の深い奴だ。
「……構わん、大監も経筵に席を置く者だ」
「ありがとうございます」
イ・サネがうやうやしく頭を下げ配下の者に何かを指示した。すると俺の机の上に硯と墨、筆がおかれ見た事のある紙が用意される。目の前には衝立の様なものが置かれた。
親父……宣祖が怪訝な顔をしている。事前の根回しがなかったと言う事だ。ちらっとみた仁嬪の顔はさっきよりさらに笑みをましてした。やりやがったな、ババアめ。
イ・サネが状況の説明を始める。
「臨海君様が四書五経に通じてらっしゃる事は十分に分かりました。そこで私は『対策』をお願いしとうございます」
成る程、これが仁嬪達の隠し技と言うわけだな。イ・サネの口上は続く。
「本来でございましたら『策問』は国王様より賜るものですが、この度は臨海君様への『策問』と言う事で私、愚考いたしまして過去の歴代の王様の『策問』への『対策』をお願いしたく存じます」
長ったらしい口上を述べてくれたが要は「策問」を国王に頼めば不意打ちの価値がなくなる。そうかと言って臣下が勝手に作る訳にも行かない。それで屁理屈をつけて過去問を引っ張り出したわけか。何かいよいよ「なんちゃって科挙」になってきたな。
確か今日の目的は俺が「鬼神憑き」か否かを確認するためだったのじゃないのかよ。
親父…宣祖の顔をちらっと見ると何かを考えている様子だ。内容からすれば完全にずれている。だが、下手に打ち切れば自身の子供を庇いだてしたと非難する輩が必ず現れる。親父はイ・サネの提案を受け入れる様だ。俺も黙って墨を擦り始めた。
俺自身が受け入れたと言う合図だ。イ・サネは国王である親父…宣祖と俺が受け入れたと確認すると、下の者に命じて俺の前にある衝立に『策問』を張り出した。
その『策問』を見て俺は吹き出すのを堪える為に顔を伏せた。1562年、明宗17年の別試文科の問題だ。おっさん……チョン・チョルが首席合格をした年の問題であり、先日俺はそのチョン・チョルとチョン・チョルが書いた解答用紙を叩き台にして議論をした。チラッと見えたチョン・チョルの顔も嫌そうにして顔を背けた所を見ると完全にイ・サネのスタンドプレーだ。俺の悪戯心がここでまた頭を持ち上げてきた。
笑いを堪えた事で瞳一杯に涙の溜まった瞳で仁嬪の方に目を向けた。相手には子供が必死に涙を堪えている様に写っているだろう。仁嬪の笑顔がさらに豊かになった。
ババア、それ以上やってその顔を親父…宣祖に見られたら寵愛を失うぞ。
俺は再び顔を伏せて墨をする。イ・イも気づいているのだろう、珍しく笑いを堪える様な顔をしている。俺は芝居を盛り上げる為に墨が磨りあがったところで筆に墨を含ませしばらく解答用紙の上で躊躇する様に手を止めた。仁嬪の口元が益々曲がって行く。
そのタイミングで俺は手を動かし始めた。周りが何とも言えない騒めきに包まれている様だがその声も俺には聞こえなくなってきた。記憶の中にしまいこんでいたチョン・チョルの解答やチョン・チョルと議論した事柄を整理して記して行く。
どれ位の時が過ぎたのだろう…俺は最後の言葉を書き終えると一旦手を止めた。
解答用紙への署名は出身地と成均館の進士なら、進士○○とする。
俺は進士とは違う。『臨海君』も官職ではない。だから「漢陽」「イ・ジン」と署名した。俺は完成した者の慣例として席を立った。
科挙なら席を立って会場から出るのだが周りには結界縄が張ってあるので俺は椅子の後ろに立った。墨の乾きを確認した官吏が解答用紙を回収し弘文館の面々が座る席へ持って行く。出題者のイ・サネもそこへ入りイ・イとチョン・チョルも呼ばれた。
殆ど議論にならなかった様だが、イ・サネが何やら言い募っているのだけが聞こえてきた。しかしそれも誰かに叱責され口を閉じた様だ。俺の解答用紙はイ・イの手によって親父……宣祖の元へ届けられた。親父が俺とチョン・チョルそしてイ・イの顔をそれぞれ見ている。チョン・チョルが少し目をそらしたところでもう一度、解答用紙に目を落としている。俺は初めてみる親父の顔を拝む事になった。
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本日、投稿2話目です。後1話投稿致します。
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