いきなり科挙? 【その1】
騒いでも仕方ないので俺は大人しく自室に篭る事にした。せめて読書堂へでも行ければ時間は無駄にはならないのだが一切の外出は禁止らしい。
まあ、部屋の窓から昭格署の連中がやっている儀式を見ているだけでも飽きはこない。やはり知識で知っているのと生で見るのとでは迫力が違う。
ただ野誌に記載されているような「法力」は全然見られなかった。当然と言えば当然だがちょっぴり期待していた自分が可笑しかった。
数日後、親父……宣祖から命令が下った。王宮の前で親父……宣祖隣席で試験を行うと言う事だ。王宮、この場合は「景福宮」の事だ。尚宮や宦官達が仕入れてきた情報によると弘文館の役人だけでなく堂上官と呼ばれる従三位以上の役人全員が顔を揃えるようだ。ご大層な事だ。
今後の事も考えてみんなの前で恥をかかせて置こうと言う腹づもりだろう。
中々どうして食えないババアだ。食いたくもないがね。どんな試験をするつもりかは知らないが国王の前で堂上官に見守られて試験を受けるなんてまるで科挙だ、それも科挙の最高峰「殿試」を受けるような感じだ。
宗室(王族)には科挙受験資格がない。
当然だろう。科挙は官僚選抜試験であって資格試験なんかじゃない。科挙か……そう言えば読書堂へ通い始めた時だ……読書堂にはあらゆる資料、書籍が集められている。前世で俺が勤めていた図書館と同じだ……俺が顔を出すと大概イ・イがいる。
そしてもう一人、真っ昼間から酒の匂いをプンプンさせたおっさんが机に突っ伏して寝ていた。二日酔いの役人がサボっている訳ではない。読書堂は許可を得た者しか入れない。そのおっさんの名前は後で知る事になるが、その時は面白いおっさんだと思っただけだった。ある時、俺が読書堂へ行くとイ・イはおらず酒臭いおっさんが机に突っ伏して寝ているだけだった。俺はおっさんに構わず興味のある資料を漁り出した。
いつの間にか目を覚ましたおっさんが胡散臭げに問いかけてくる。
「ここは、いつから子供の遊び場になったのだ?」
「イ・イから許可をもらっている」
おっさんは俺の答えに何か面白いモノでも見つけたように喰いついてきた。
「イ・イを呼び捨てか、大した餓鬼だな。名は何と言う」
確かに目上の者に対して敬称も付けずに呼び捨てにするのはよくない。ただし「普通の者」ならばだ。このおっさんは間違いなく俺の正体に気づいている。それをあえて「餓鬼」と呼び「名」を聞いてきた。面白い、こういうタイプの人間は大好きだ。
「失礼いたしました大監。私は『イ・ジン』と申します」
するとおっさんは一瞬キョトンとして次に大笑いを始めた。ヲイ!「図書館ではお静かに」と司書に怒られるぞ。残念ながら怒る司書そのものがいないがな。
一通り大笑いするとおっさんは涙を拭きながら近づいてきた。涙流す位まで大笑いするなよ、おまけに酒臭い。
「儂の名はチョン・チョル(鄭澈)だ」
それだけかよ、おっさん。
初めまして位言えよ…言われたら言われたで気持ち悪いけど。俺も正直おっさんの正体には察しが付いていた。イ・イと共に賜暇読書に入ったのはチョン・チョルだと記憶している。
政治家としては堅物と言うか融通の効かない方だったようだが彼は有能であった。科挙も首席で別試文科に合格している。但し今日もそうだがどうも酒が過ぎる事から親父……宣祖からもイ・イからも酒を控えろと言われつつ酒を一生涯の友にしたお方だ。前世の韓国での評価は政治家としてよりも詩人として名を残している。
芸術家は酒を友にする方が多い。このおっさんもそう言う方々の一人と言うわけだ。
おっさんは俺が漁っていた資料に目をくれた。
「殿試の対策など見て何になる??」
俺が漁っていた資料は科挙殿試の「対策」と言われる科目の解答用紙だった。
「対策」とは簡単に言うと国王がその時々によって「お題」を出しそれに解答する試験だ。大体その時々の時事ネタが多く興味深い。
「それぞれの「対策」が今はどうなっているのかと思ってな」
俺はおっさんに皮肉な笑いを返しておく。国王の出す「策問」は一般論を述べる程度の問題から深刻な国策を問うものまである。「対策」の解答用紙には当然に本人の署名が残っている。要は現官僚連中の新進気鋭の頃の志と今の在りようを比較しているのだ。考えて見れば意地の悪い事をしていると自分でも思う。
おっさんも俺の考えが分かったのか鼻息一つ残してまた席に座った。対策の解答用紙を漁って行くと、第13代国王 明宗時代の物が出てきた。例の別試文科の解答用紙だ。内容はさすがに明宗、深刻な国難に対しての「策問」を出題している。
解答を呼んで行くと親父……宣祖の代になって大きく改善された事も書かれている。軍事についてはイ・イによって献策される十万養兵説に通じる考えも記されている。おっさん、ただの酒飲みではなかったんだな。
ちらっとおっさんの顔を見ると何を見ているのかに気づいて目を逸らした。
俺は真剣な声でおっさんに語りかけた。
「大監、お聞きしたい事があるのですがよろしいですか」
「……なんだ」
答えてはくれるらしい。俺はこの国の最大の弱点、国防と食料生産について聞いた。
おっさんの語る内容は前世の文献に記された物と左程違いはない。食料生産については救貧作物の代表、サツマイモがまだ知られていない。穀物の流通については米相場があり投機対象となって庶民に負担を強いているようだ。軍備についておっさんは自軍を養成するべきだと言った。
「明国など当てにしておっては先が知れているわ」
おっさん大正解だよ。事実、明国の先は見えている。前世の歴史家の何人か……日本よりの評価もあるだろうが、「朝鮮出兵」「文禄の役」「壬辰倭乱」なんでもいい。
要は秀吉が死なずにあのまま日本軍が進軍を続ければ明国を下したと言うのだ。
この点については俺も賛同する。日本軍が強かったからではない。明国が末期であった事と「後金」……清国の存在だ。秀吉の優れた点は戦略家としてだと俺は思う。
朝鮮出兵、秀吉に言わせれば「唐征伐」とは西欧列強……当時のイスパニアの侵略に備える為と俺は理解している。イスパニアに侵略されるなら先に大陸の日本寄りを押えておこうと言う考えは間違ってはいない。秀吉ほどの戦略家なら明国を落とすために後金と手を組む位はしただろう。
おっさん……チョン・チョルの頭の中にも形は違うが明国を頼る危うさが写っているに違いない。しばらくの時をおっさんと話をして俺は読書堂を後にした。
おっさんはまた机に突っ伏している。読書堂を出る時に外で待っていた尚宮がイ・イの来た事を教えてくれた。イ・イは俺とチョン・チョルの声を聞くと中に入る事なく引き返したそうだ。いつも通りの柔和な顔を更にほころばしていたと言う。
つらつらとそんな事を思い出したり光海君の相手をしていたりしていつの間にか『なんちゃって科挙』の日がやって来た。
ここまでお読み頂けた事、感謝致します。
本日、後2話投稿させて頂きます。
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