生きるために 【その1】
俺たち……俺と弟光海君の一日は国王である親父……宣祖の元へ挨拶に行くことから始まる。王后様では無く側室恭嬪の子供である俺たちは当然に王后樣へも挨拶に行く。その後に内殿で弟の光海君と食事をとり、学習の時間となる。俺が時間をまとめて確保するには座学の時間をどうにかするのが一番手っ取り早い。自身の身体を鍛える意味でも鍛錬の時間は削りたくはないからだ。
おまけにこの時代の学習は暗記が殆どなので俺にとっては意味がない。前世の記憶がある俺の頭には世界の主な情報が正確に詰まっている。当然に座学の中心の四書五経はこの時代の後の解釈も含めて覚えている。宗室(王族)の教育は宗学が仕切っている。座学は弘文館の学者……ここでは師匠や博士と呼ぶのが良いらしいが、彼らがやって来て講義する。経筵(王の勉強会)のついでにやってくるのだろう。ご苦労な事だ。
「それでは、臨海君様 本日は過日の続きから始めましょうか」
一人の初老の学者が始まりを告げる。
名前は知らないが今日のメンバーの中で筆頭のようだ。
「……博士方、今日は余から提案がある」
「臨海君様、それは講義が終わってからでよろしいのでは」
うるさ型の博士が先に口を開いた。こいつの名前はイ・サネ(李山海)、確か仁嬪と繋がりがあったっけ。
「いや、先にさせて貰いたい。なに大した事ではない。皆なと一つ賭けをしたくな」
「講義の最中に賭けですか、それこそ後になさいませ」
イ・サネが子供の駄々を宥めるが如くに答えてくる。
「賭けと言っても、学問に通じる事だ。四書五経、どれでも博士の指定した箇所を余が暗誦しよう」
博士達の顔色が変わった。俺にからかわれたと感じたのだろう。
顔色を変えていないのは筆頭のあの爺さんくらいだ。
「余が勝ったら座学の時間は今後なしだ。負ければ倍の時間を学問に充てよう」
博士達が周りの者と相談を始める。この賭けに引き込めれば俺の勝ちだ。相談がまとまったのか筆頭の爺さんが口を開きかけた。
「それでは、中庸の…」
そこまで言ったところで爺さんの発言を遮った奴がいる。また彼奴だ。
「春秋をお聞かせ願いたい」
爺さんが一瞬俺の顔を見た。俺が顔色一つ変えないのを見て何かを感じたのか口を閉じた。「春秋」とは中国の魯の年代記で四書五経の中で最難関とも言われている。
それを指定してくるとは……さすがだ。おまけに「どの部分」の指定も無い。
ようは「全部」と言う事だな。面白い、俺は一瞬目を瞑りゆっくりと目を開けた。そして口を開く。
「正義に云う、周法每國に史記有り、同じく春秋と名づく。……」
博士達の何人かの顔色が変わる、俺が覚えているのは「春秋左氏伝」と言われる物だ。
「春秋」自体は元々一つの書物では無く年代記を集めた物を言う。孔子によって書かれた年代記を後世に注釈をつけてまとめた物がいくつか存在する。「春秋左氏伝」は科挙の対象になる代表的な物だ。言葉の一つ一つは確かにありがたい事も参考になる事も書いてあるのだろう。しかし全体を通せば要は「魯」国の年代記だ。
朝方の静かな書院で子供の甲高い声で朗々と語られる「春秋左氏伝」を聞いてよく、誰も居眠りを始めない物だな。ここで俺の悪戯心が顔を出した。
まず前半の途中でわざと言い澱んで見たのだ。
言い澱む俺の顔を見て爺さんは笑顔を崩さないし彼奴は口元を歪めている。他の博士はと言うとさすがに前半だからか誰も「春秋」を拡げようともしなかった。この辺りまでは全員が暗記していると言う事だ。それを確認すると俺は暗誦を続けて行った。
後半の昭公三年に差し掛かる所で、俺はもう一度言い澱もうとした。そのタイミングで爺さんが口を開いた。
「…誰ぞ、水をもて。臨海君様 一度喉を潤わせてはいかがかな」
確かに口は乾くし喉も痛くなっていた。何より爺さんが俺に一息入れさせたのは俺の為と言うより他の博士の為だったようだ。目を爛々と輝かせて俺を睨んでいる彼奴は別として他の博士は限界なお方もいた様だ。さすがに弘文館で鍛えられていただけあって居眠りをする様な博士はいない。だが何人かの博士が「春秋左氏伝」を膝の上に置いて隠れる様に頁を捲ろうとしていたからだ。
大方の儒学生は春秋左氏伝を一度くらいは通読するだろうが学ぶとすれば春秋左氏伝の14巻から始まる「襄公」までだ。22巻昭公三年以降を覚えている博士がさて何人いることやら。
俺の悪戯を見破ったのか否か。まあ、この爺さんが只者で無い事だけは間違い無い。
暗誦は終章「哀公」に差し掛かっていた。程なくして「春秋左氏伝」の暗誦を終えた。
書院全体に静寂が続く。本当に物音一つしない。
一陣の風が吹き抜けて行き本のめくれる音がした。それが合図でもあったかの様に博士達の身じろぎする衣摺れの音がする。俺はそのタイミングで目線をあの爺さんに送る。
目線があった途端ニカっとでも擬音のつきそうな笑顔を送られた。
「……賭けは、臨海君様の勝ちでございますな」
誰もイ・サネすら異論を挟めない。俺はこれで終わりとでも言う様に立ち上がり踵を返そうとした。そこへ同じく席をたった爺さんが寄ってきて小声で話かけてきた。
「臨海君様、今後とも学問にお励み下さい。必要とあらばいつでも読書堂へおこし下さい」
「…よいのか?余はまだ5歳になったばかりの子供だ」
「フフフフフッ…5歳の子供は春秋を暗誦はいたしませんよ」
俺はそれ以上の反論をせずただ一つ頷いた。本来なら頭を下げたいのだが宗室(王族)が臣下に頭を下げる事はダメらしい。これで俺は晴れて自由時間を確保した。さあこれからだ。
書院を出た俺は数人の宦官と女官を連れて宮殿内を歩いている。
あの爺さん…名前はイ・イ(李珥)だと宦官が教えてくれた。
正直ビックリした。イ・イはこの時代……いや朝鮮王国を代表する儒学者で有能な政治家だ。多くの著書や共著、建白書を後世に残している。それが俺の教育係に来ていたなんて……そう言えば読書堂へいつでも来いと言っていたな。
確かこの時期イ・イはチョン・チョル(鄭澈)と二人で賜暇読書に入っていたはずだ。賜暇読書は読んで字の如く当時の官僚が功績を認められ研究時間を与えられる制度だ。儒教の研究を人生の目的に置くソンビには最高の褒美だろう。
一度は読書堂へ顔を出そう、置いてある資料が見たいからじゃないぞ。
爺さん…イ・イが来いと言ったからだ。
そんな事を考えながら歩いていると建物の影から多くの宦官や女官、護衛を引き連れた一団が姿を表した。親父……国王宣祖と仁嬪だった。俺は道を開けて頭を下げた。いつもなら、そこに居るのかとも言わずに通りすぎる親父……宣祖が声をかけて来た。
「今の時間は、講書ではないのか」
一瞬、俺の周りの御付きの連中が凍りついたのが分かった。俺の御付きの尚宮が何か言おうとしたが俺はそれを制した。
「今後、座学の時間はなくなりました。イ・イより許可を取りましたので」
俺の答えに何を言っているのだと言う顔をした親父……宣祖が何かを言いかけたタイミングで仁嬪が親父の耳元で何かを告げた。俺の顔をみた仁嬪の口元は嫌らしく曲がっている。
「……ユルゴク(栗谷……イ・イの号)がそのように言うのなら、良い」
親父……宣祖はそう言うと歩みを再開して立ち去って行った。一団を見送る俺に振り返って仁嬪が何とも言えない笑顔を送っている。どうせロクでもない事を親父に吹き込んだのだろう。まあ、おかげでいらない言い訳をせずに済んだ、仁嬪様様だ。
俺は……いや、まだ誰もこの「座学がなくなった理由」で後々とんでもない騒ぎが起こる事を知らなかった。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
◎ 仁嬪:仁嬪・金氏 宣祖の側室の一人。仁嬪は側室の位
◎士:朝鮮王国の支配階級 日本の士農工商の士に近い