さよなら私の思い人
バスから降りると、国道と市道が交わる四差路だ。
信号を待つ間、私は辺りを見回す。
すると、対岸に自転車の少年がやってきた。夕方の薄闇の中、彼は私に気づかない。
視線を送る。風が吹き、肩上に切られた私の髪がなびき、彼のブレザーの裾もはためく。
そうすると、信号が青になる。
歩き出せない私を、いぶかしげに見てゆく人々。彼は止まったままで、こちらに向かって手を振った。ほろ苦い確信とほの甘い不安。私は駆け出す。
名前を呼んだ。正確には、彼の名字を。
「久しぶりだね」
顔をしっかり見て、お互いに笑う。彼は私の名字を呼んで、ごく自然な動作で私の髪をすくった。
「相変わらず、馴れ馴れしいね」
「いきなり、お前と会うなんて思わなかった」
「お互い様だよ」
軽く軽く、言葉が交わされる。慣れている、久しぶりの、2年ぶりの応酬。
私の髪をなでるその手をつかまえて、指を絡めた。
「お、積極的じゃん」
おどける彼に、私も余裕の笑みを返す。
「もう吹っ切ったんだよ。当然じゃない」
そうだねと、くすくす、笑う。
「中学の卒業式以来だね。ずいぶん大人っぽくなっちゃって」
「あれ、お前は私の親だっけ?」
「そうじゃなかった?」
「そんなこと、あってたまるかよ」
「親子の恋だと、禁断もいいところだもんね」
空いている彼の手が、私の頰に触れる。
その温度に、僅かに慄く、でももう怖くない。
「うわあ、ドン引き」
「誰にでもってわけじゃないよ?」
「うそつけ」
「ほんとほんと。高校での俺は、品行方正、だよ?」
彼は、キザったらしく、きっちり締められたネクタイを撫でた。
……どの口が、と呆れておく。
こんなことがしたいわけじゃない、いや、したいのだけれど。
「それ、品行方正だっていうの、過去形なんじゃなくて?」
彼は微笑した。私が見抜くだろう、分かっていた、そんな目だ。
「そうだよ」
彼の目は、烏の濡れ羽色、深い夜空の黒、もしかしたら、宵の明星の輝き。
その彼の瞳には、私は映っていない。いや、いや、私だけでない、誰も映っていない。何も映っていないのだ。
「……今、気がついた。いつの間に?」
「俺の顔ずっと見てたから、気づかないと思ったのになー」
私たちの周りには、人っ子ひとり、いない。
なにもない。2人きりだ、この世界に、今だけは。
「わざわざ来たの?」
「まあね。お前に会ったのは、ただの偶然」
「だろうと思ったよ。お前が、私に会いに来るほど思い入れ持ってるわけがないもん」
「まあ、皆無とは言わないけど」
「3年間片思いで、今更もいいところだもん。きっちり振られたしね」
思い出すのは、彼に片思いしていた頃。報われなかった、中学生の自分。そして、彼は、もう、思い出に焼きついた甘い記憶の一部。
「お前に会ったのは、確かにたまたまだけど……会えてよかったって、これでも思ってるんだよ、俺も」
うそつけ、と苦笑する私の頰を、彼は軽くつまむ。そうだ、これは、彼がよくやる悪戯の1つだった。
「懐かしい」
呟いた。彼も、頷く。最後だ、分かったから、私は絡められたままの指に力を込めた。
彼の力は一瞬だけ強まって、すぐほどけた。
「じゃあなー」
相変わらずの軽い口調に、澄み切った表情で、彼は私に手を振る。
自転車にまたがり、戻ってきた喧騒へ、消えていく。
「またね」
私は、強く遠くに叫ぶ。小さくなった彼の後姿が人の群れに呑まれる前に、ひらひら、振られる左手が見えた。
見送った私の目から、数滴、涙が落ちた。
2ヶ月前、彼が交通事故で亡くなっていたと、それを聞いたのは、この日から、さらに半年後のことだった。