追跡車
俺の名前は田坂守、三十一歳のサラリーマンだ。俺は毎日仕事が終わると、帰りの車から妻に電話をかけるのが習慣になっていた。所謂帰るコールというやつだ。
「もしもし、俺だけど今から帰るよ」
「あら、今日も早いのね」
「そりゃ俺は、先月主任になった優秀な商社マンですから? 仕事も早ければ退社も早いってもんさ」
「またそんな事言って、浮かれて事故なんか起こさないでね」
「分かってるって、ところで啓太はどうしてる」
「さっきまでお義母さんと遊んでいて、今は眠っているわ」
「え、母さん今日も来てたのか、ここのところ毎日入り浸りだな」
「なんせ初孫だし二歳ともなると、私達にもお義母様達にとっても可愛い盛りだから仕方がないわ」
「まったく実の息子を差し置いて、毎日孫と遊んでいるんじゃ、どっちが本当の親か分からないよ」
「私は助かっているからいいのよ。それより帰りは何時頃になるの?」
「混んでいなければ一時間位。そうだな、十九時には着くと思う」
「分かったわ、夕飯用意しおくわ」
「おう頼むよ、じゃあ後とで。――……ッ」
俺は通話を終えると、車をアイドリングさせたまま、スマホで天気や交通情報に目を通していた。俺はこの無駄な時間が結構好きだ、仕事からプライベートに切り替わるまでの、自分自身へのアイドリングも兼ねていると思っている。しばらくして、俺は電源を切ったスマホを後部座席に放り投げると、景気付けに何度か空ぶかしをしてから車を発進させた。運転の際はもちろん安全を心がけてはいるが、家で待つ妻と子供の事を思うと、アクセルを踏む足にも自然と力が入る。俺は顔から溢れる多幸感を誰にも悟られまいと、見えない風呂敷で包み隠しながら家路に急いだ。いくつかの小道を抜け直線が続く道路に出ると、俺の中の血が騒ぐのか、周りの車につられていつの間にか速度が上がっていた。スピードに乗った車体は道路との接地感がなくなり、俺の全身は心地よい浮遊感に包まれていた。家のローンが残る中、嫁に頼み込んで買ってもらったこの車エアーライン。家族向けの車とは言えないが、俺の我儘を通させてもらった。何しろ毎日の通勤に使う車だから、乗り心地はもちろん足回りも良くなくては、仕事に対するパフォーマンスにも影響が出て来るというものだ。とまあここまでが建前で、エアーラインは俺が若い時からずっと憧れていた車だ。昔はエアーラインに乗る先輩の後ろ姿を、小さな単車で追いかけるのが精一杯だったが、まさかこうして自分で運転する日が来るとは感慨深いものだ。
俺は元々運転が好きな方だが、たまの休日ならともかく毎日の通勤となると話は変わってくる。郊外にある我がマイホームまでの距離は大体一時間、持ち込んだ音楽も殆ど聞き終わってしまい、車内では暇を持て余していた。そんな時、同僚から面白いアプリを紹介されて、最近はずっとそれにハマっている。アプリの名前はオープンラジオ。ドライバー同士で会話する事を目的で作られたコミュニケーションツールで、今や殆どの車に標準装備されている。やり方は簡単、カーナビに表示されたアイコンに触れるだけで、あとは勝手に全国にいるドライバーを探し出してくれる。会話は十五分という制限時間が設けられていて、時間がくると自動的に切断される。ドライバーは十五分という制限の付いた友人と、趣味の話や世間話だとか他愛のない会話を楽しむのだ。原則として堅苦しい挨拶は不要でいきなり本題から入る、ただしプライバシーに関わる、所謂込み入った話はしないのが慣例的になっている。もし、相手が困った人だったりトラブルが起こった場合、一方的に通話を切断することができて、その相手とは二度と繋がることはない。自分の通話IDが、車体ナンバーと紐付けされている為、これといったトラブルは殆ど起こらないらしい、みんな紳士的で一時の憩いの時間を共有しているのだ。この気軽さがウケ、今や利用者は二百万人を超えている。このアプリのお陰で、朝夕の通勤ラッシュの苛立ちがいくらか緩和されて事故も減っているそうだ。今日も見知らぬ友人と、世間話でもしながら帰り道を楽しむとするか。
俺は、カーナビの右上に表示されているオープンラジオのアイコンに触れた。サーチを知らせる時計の針のアイコンが画面の中央でぐるぐると回る。相手が見つかるまでこの時間は、何とも言えない緊張感が漂う。多分このお陰で集中力が高まって、事故防止にも繋がっているのだと常々感じる。時計のアイコンが消え、相手が見つかった合図のピッという音と共に、通話開始のマークが表示された。さて今日の相手はどんな人だろうか。
「さっきまで晴れてたのに、急に曇ってきたよ。こりゃ一雨降るかな」
「今日は全国的に暑かったですからね、夕立も起こるかもしれませんね」
「こんな暑い日には夕立は歓迎だけど、運転中はちょっとご遠慮したいかな。ははは」
「そうですね。おっと、こっちにも真っ黒い曇が伸びてきましたよ」
「雨降る前に早く帰りたいね。××市まで持ってくれたら嬉しいな~」
「え、××市方面ですか、奇遇ですね私も同じです。△△街道ですよね」
「おーよく分かったね。そうそう△△街道だよ。と言う事は、おたくの車が俺の後方に居るわけか」
「あははは、そうなりますね。短い間ですがよろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそ」
オープンラジオを始めてまだ日は浅いが、こんな偶然は今までなかった。全国に居るドライバーとランダムで繋がる訳だから、極稀にこういうことも起こるのだろう。俺はこの人に対して、これから苦楽を共にする戦友のような感覚を覚えた。
「お仕事帰りですか」
「そうだよ。ここのところ仕事が順調で、毎日この時間に帰れるようになったんだ」
「それは良かったですね。声からしてお若い感じがしますが、アフターはまっすぐご帰宅ですか」
「子供がいるんだ。早く帰って顔が見たいんだよ」
「本当ですか。私のところにも二歳の男児がいるんですよ」
「え、おたくも? 実は俺の子供も二歳の男なんだ。可愛くてしょうがない」
「わかりますよ。子供の為なら、なんだって出来るというのは本当ですね」
「まったくだ」
やっぱり子供はいい。家のローンも後三十年残っているけど、妻と子供と一緒に過ごせる時間だと考えれば、むしろ返し甲斐があるってものだ。
「私、家のローンもまだたっぷり残っているんですが、家族の為を思うと返済していくのが楽しみなくらいですよ」
「俺の家も、ローンがまだ三十年残っているからよく分かるよその気持」
「貴方もでした。何だか私達気が合いそうですね」
「うん、俺も同じことを思っていた。なんせ何から何まで一緒だもんな。あはははは」
「……」
あれ、何か変なこと言ったかな。
「ええ、貴方とは気が合いそうです。何から何まで一緒ですからね」
「ああ、そうだな」
なんだ、気のせいか。一時的に会話が聞こえづらかったのかな。
「ところで、いい車に乗っていますね」
「え……」
「日刊エアーラインは男の憧れの車です。私のは中古ですが、家のローンを返しながら最近やっと手に入れたんです」
「え……。まあ、そうだよな。男の憧れだよ……な」
あれ、何で俺の車の事を知っているんだ? 車の話なんかしたっけな。
「でも、あちこち傷だらけでもったいないです。家族サービスも良いですが愛車の面倒もみてやってください」
「え、なんでそれを……」
「あれ、気が付きませんでしたか。さっきからずっと貴方の後ろを走っているんですよ」
俺は慌ててルームミラーから後続車を確認すると、確かに真後ろに自分と同じ車種の車がずっと付いて来ている。運転手の人影はうっすら分かるが、ハイビームのせいで目を凝らしてもこれ以上見えない。
「なんだ、脅かすなよ」
「ははは、驚きましたか」
「いや待てよ。どうしてこの車を運転しているのが俺だと分かったんだ」
「……一緒だからですよ」
「い、一緒……?」
「さっき、貴方は何から何まで一緒だと言っていましたよね。だから分かるんですよ、なんせ一緒なんですから」
「なんだそれ、理由になっていないぞ。それに一緒って言ったのは、俺とあんたの境遇が似ているっていう意味で、一種の冗談みたいなものだろ」
一体何なんだコイツ、なんだか気味が悪い。
「冗談なんかではありません」
「え……」
「私にも妻と子供いましたが、家が火事になって死にました。火事の原因は放火でした」
「そ、それは気の毒に……」
「幸せの絶頂だった時に、一瞬にして全てを失った私の気持ちが分かりますか」
「わ、分かるよ、辛いだろうに……」
「嘘だ! 本当は心の底で私の事を嘲笑ってる癖に……」
「いや、そんなことない! もし、俺の家族が同じ事になったらと思うと、その、お察しするよ……」
「ダメです」
「え……」
「私と貴方は何から何まで一緒のはずです。だから私は、今から貴方の家に行って火を付けます。そして、貴方の子供と奥様が焼き死ねば私と一緒になりますよね。ははははは」
「おい、あんた何を言っているんだ。悪い冗談はやめろ!」
「冗談ではありません。本当にやるんです」
「おいふざけるな」
「どこまでも貴方を追いかけます」
くそっ冗談じゃない。こんな頭のおかしい奴とは会話なんてしてられない。俺はカーナビの左下にあるブロックアイコンを何度も押した。
「無駄です、切れませんよ。私と貴方はどこまでも一緒です」
「うるさい、黙れ!」
俺は左手を握りしめて、力いっぱいカーナビを叩き壊した。「――……ッ」液晶が割れる音と同時に、ズキズキした鈍い痛みが左手に走った。俺はそのままハンドルを握り直して、アクセルを一気に踏み込んだ。加速の瞬間、身動きが取れないほどの重力加速度《G》が加わり、全身がシートに沈み込んだ。耳の中の気圧が変わりキーンいう耳鳴りが頭にこびりつく。冗談じゃないこのまま家まで付いてこられてたまるか、俺は運転には自信がある、絶対にこのまま振り切ってやる。後方を見るとまだ車が付いて来る、スピードをいくら上げようが車線を変えても影のように貼り付いて離れない。辺りが真っ暗なせいでスピード感も増して、目の前の暗がりに自分が吸い込まれるような錯覚に陥った。このままでは埒が明かない、俺は街道を逸れ市内の繁華街を目指した。繁華街に行けば、必ず交番や警察署があるからそこに駆け込もう。しばらく走ると、車と街灯しかなかった景色が少しずつ変わり始めて、人の行き交う賑やかな場所へ出た。
俺は交番を見逃すまいと目を見開いて車を走らせていた。すれ違う人や車は、まさか俺がこんな目にあっているとは夢にも思わないだろう、出来ることなら代わって欲しい。いくつかの信号を通り過ぎたあと、反対車線にあった交番を見つけると、俺は恋人に会いに行くかのようにハンドルを切った。交番の前で、全身が大きく前のめりになるほどブレーキを踏み込んだせいか、中で座っていた警官が車の様子を伺うように上半身を覗かせていた。俺の胸はエンジンの音と殆ど同じに聞こえるくらい高なっていて、どういう訳か顔から笑みが溢れていた。まったくもって妙な光景だ、交番にタイヤを鳴らしながら駆け込んで来た車の運転手が笑っているのだ。警官は、俺を付け狙う車と今の俺とどっちが不審かと問われたら、当然後者を選ぶだろう。それでも良い、この気味の悪い追跡車から逃れられれば、そう思って俺はルームミラーから後ろを確認すると、さっきまで影のように貼り付いていた車が今度は煙のように消えていた。一体どうなっているんだ、見間違えだったのか。いやそれはない、間違いなく後ろに車がついてきていた、僅かに血が滲んだ俺の左手がそれ証明している。とにかく今は警官に起こったことを話そう。俺は、警官にさっきのまでの事情を必死に説明した。しかし、なんの証拠も無いせいかかまったく信じてもらえなかった、それどころか逆にアルコール検査と車内検査を念入りにされてしまった。憤りと興奮が収まらない俺は、車の中で煙草を吹かしながら、冷静になる時間を作った。煙草の味はよく分からなかったが、俺の顔に煙がゆっくりと纏わり付き、巻紙が短くなるに連れて高鳴っていた胸が穏やかになった。俺は、今日起こった不可解な出来事をなんとか受け入れようと、頭の中であれこれ色々なことを考えた。その結果、さっきオープンラジオで話した人は、全国の中で極稀にいる悪質な人間で、俺はその人の冗談にたまたま付き合わされて運悪くもらい事故をした、逆に本当の事故でなくて良かったんだ、と強引に自分を納得させた。
俺は大きく深呼吸をして両手で顔を叩くと、気を取り直して車を発進させた。気持ちが落ち着いたせいか、ペットボトルに残った水が殆ど動かないくらい運転が上品になっていた。通り過ぎる街並みをぼんやり眺めているだけで現実感が増してくる、「はやく帰ろう」無意識に声に出していた。そう、俺は今から家に帰る、家に帰って子供を抱き上げて、家族と食事をする。その為に今運転している、だから安全運転で帰ろう。俺は家族のことを考えて、鼻歌が出るくらい陽気になっていた。ただ、ハンドルを握る指先は、しばらくの間貧乏ゆすりを止めなかった。
俺は念の為、自宅とは逆の方向に一時間ほどデタラメに車を走らせた。ルームミラーから何度も後続車を確認したり、意味もなく路肩へ停車させたり、神経質なくらい慎重になっていた。今日限りオープンラジオは止めよう。明日にでもディーラーに持っていって、壊れたカーナビごと取り外してもらおう。なんなら車通勤を止めて、明日から小説でも読みながら、のんびり電車通勤を楽しむのも良いかもしれない。帰ったらさっそく小説でも注文するか。街道から逸れ住宅街に入るに連れて、外は静かになっていった。時刻は二十一時、いつもの帰宅時間より大幅に遅れている、きっと妻は心配しているに違いない、早く帰って安心させてあげよう。見慣れたいつもの景色が今日ほど懐かしいと感じたことはない。俺はガレージに車を入れると、スキップに近い足取りで玄関までの石段を駆け上がった。俺は鼻先に香る夕飯の匂いを嗅ぎながらが、改めて我が家に帰ってきた事を実感した、やっぱりここが一番安心する。俺はニヤけた顔でチャイムを押すと、ドアの向こうに聞こえるように少し大げさに帰りを知らせた。「俺だー開けてくれー」少し間を置いて、ドタドタと妻が廊下を歩く音が聞こえてきた。こんな時間に帰ってさぞかし心配してるだろう。そうだケーキでも買ってくれば良かったかな。ドアの向こうで鍵を開ける音が聞こえる。待ちかねた俺は、妻より先に自分からドアを開けた。
「ただいま」
「お帰りなさい、随分遅かったのね」
妻が笑顔で迎える。俺はこの顔に弱い。
「心配かけてすまん。ちょっと事故があったみたいで、回り道していたらこんな時間になった」
とっさについた嘘だ、妻に余計な心配をかけたくない。
「あらそうだったの、あなたも気をつけてね」
「ああ、分かってる。それより腹ペコだよ、今日の夕飯はなんだい?」
「今日は鯖の塩焼きと里芋の煮物よ」
「おれの好物じゃないか。懐かしいな実家を思い出すよ」
「そうよ、この間お義母様から教わったの。だから苦情は一切受け付けません」
「あはは、まいったな」
俺は、こんな些細なやり取りに目一杯幸せを感じながら、その場で子供のように靴を放り脱ぬいた。そして式台に片足を乗せた時、妻がドアの方を向いて言った。
「あらあなた、お帰りなさい」