迷宮のその先
ロダリスから預かった解錠石を扉に合わせ、ベアトリーチェは精霊回廊のその先の通路へと進んだ。普段はここを施錠してあるのは、この先には危険な魔物が出るからだ。精霊回廊は今は生徒の訓練用迷宮として使っているため、危険な領域とは隔離しておく必要があるからだ。
(ここに足を踏み入れるのは、何年ぶりだろうか)
身体を押しつつむような濃い闇を、ベアトリーチェの銀の鎧が照らし出す。ハルシュタットの正騎士の鎧は使用者の意志に応じて発光するため、騎士は松明で手を塞がれることがなく、両手に武器を持ったまま迷宮の探索をすることができる。この光は弱い不死生命体ならば近寄らせない程度の力も持っていた。
しかし、ベアトリーチェは闇の中にうごめく何者かの気配を感じていた。
鎧の光で照らし出された壁面には、あちこちにどす黒く変色した血の染みを見て取ることができる。油断した冒険者がこの場で何人も息絶えたのだろう。足元には時折、子供のような小さな頭蓋骨も転がっている。ホビット族のものだろうか。
(――そろそろ、来るか?)
ベアトリーチェが前方に目を凝らすと、周囲の闇を凝り固めたような漆黒の球体が、いくつも宙に浮かんでいるのがみえてきた。蝙蝠の翼を生やした数個の球体は羽音も立てずにベアトリーチェに近づいてきたが、急に真ん中の一体が正面で停止すると、今まで閉じていた巨大な瞳を見開いた。
(魅入られてはいけない)
ベアトリーチェはとっさに目を閉じる。邪眼の視線には魔力がある。これを正面から受け止めてしまうと、たちまち魅入られて嬲り殺しにされることをベアトリーチェは知っていた。
ベアトリーチェは目を閉じたまま抜剣し、目の前の空間を横薙ぎに払ったが、その剣は空を切った。次の瞬間、背中に強い衝撃を感じた。背後に回り込んだ邪眼が体当たりを食らわせてきたのだ。
鎧の上からなので衝撃は薄められているが、それでもベアトリーチェは体勢を崩しかけ、かろうじて前に踏み出した右足で身体を支える。
かさにかかって次の一体がベアトリーチェの頭部をめがけて襲ってくるが、微かに頭を振っただけでその一撃をかわす。気配だけで敵の位置を探る訓練も十分に積んでいる。
何度か邪眼の突進を避けた後、ベアトリーチェは再び大きく弧を描くように剣を振る。怯んだ魔物が自分を遠巻きに囲む気配を感じたベアトリーチェは精神を集中させ、剣にまばゆい光をまとわせる。
「――聖なる光よ、邪なる者どもを緩慢なる時の狭間に誘え!」
ベアトリーチェが鋭い声を飛ばすと、邪眼たちが宙に縫い付けられたかのようにその場で動きを止める。瘴気を帯びている者の周辺の時間を一時的に止める騎士特有の技「聖なる安息」だ。
その隙を見逃さず、ベアトリーチェは目を閉じたまま素早く剣を舞わせた。刃に切り裂かれるたびに邪眼はおぞましい悲鳴を上げ、力を失って次々と床に落ちる。六つの破片となり地に転がったその身体から細かい黒い霧が吹き出し、周囲の闇に溶け込んでいく。
(ようやく片付いたか)
ベアトリーチェは大きく肩で息をつきながら、心中でそう呟く。
今の大技でかなりの力を使ってしまった。騎士職の固有技は気力も体力も消耗する。もしこの先に大きな戦いが待っているなら切り抜けられないかもしれない。ベアトリーチェは怒羅愚雲が危険な集団でないことを祈りつつ、迷宮の先へと進むしかなかった。
幸い、迷宮の奥へと進む間、もう魔物と出くわすことはなかった。
曲がりくねる通路を進むうち、ベアトリーチェは巨大な蛇の腹に呑まれているような気分になったが、分かれ道が無いため迷うことはなかった。
通路の最奥部は行き止まりで、地面には五芒星が描かれており、古代ハイナム文字が周囲に散りばめられている。どうやら転移門らしい。
(この先が、怒羅愚雲の本拠地だ)
ベアトリーチェが地面を見つめていると、またどこからか若い男の声が迷宮の中に響いた。
「よくここまで来れたな。じゃあ今から転移門を起動させる。五芒星が光ったらその上に乗ってくれ」
クローデルの涼やかな声音を聞いた後、五芒星と周囲の文字が鈍い光を放ち始めた。ベアトリーチェはその上に足を載せると、ゆっくりと瞳を閉じ、この先に現れる光景に思いを馳せた。
生暖かい空気が身体を包み、鈍い振動が周囲を震わせる。
地面の揺れが収まったので目を開けると、ベアトリーチェは殺風景な部屋の片隅に立っていることに気付いた。
石造りの部屋の地面には藁屑が散らばり、周囲を見渡しても桶が二つほど置いてあるばかりだった。部屋の左側には扉がある。見覚えのある風景に、ベアトリーチェはふと胸の奥を締め付けられるような気分を味わった。
「どうやら無事に着いたようだな。さあ、こっちへ来てくれ」
扉が少しだけ開き、隙間から痩せた鋭い顔相の男が顔をのぞかせた。男の手招きに応じてベアトリーチェが扉をくぐると、隣の部屋は思いのほか広く、細長いテーブルの周りに十人ほどが腰掛けていた。
上品なアランシア樫のテーブルは、一見して無頼の者達とわかるこの部屋の住人たちにはいかにも似つかわしくない。壁に掛けられた肖像画には、緋のマントを羽織り、手綱を握って巨大な竜の背にまたがる凛々しい女が描かれている。おそらくはレジーナだろう。騎竜乗りには野生の竜を操っていたレジーナに憧れる者も多いのだ。
席についている者たちは革鎧を着込んだ者や薄手のシャツを着崩した者など、服装はばらばらだが、皆一様に喧嘩慣れしたふてぶてしい雰囲気をまとっている。末席にはバルドルがきまり悪そうな表情を浮かべて座っている。
「ようこそ、我が砦へ。好きな所へかけてくれ」
ゆったりとした豪奢なローブを身に着け、優雅な仕草で一礼した男の声はクローデルと名乗った男のものだった。クローデルは波打つブロンドの髪をかきあげつつ、長い睫毛の下で油断なく黒々と光る瞳をベアトリーチェに向ける。
「私に話があるそうだが」
ベアトリーチェはバルドルの向かいの席に腰を下ろすなり、そう切り出した。
「そう慌てないでもらいたいね。胸襟を開いて語り合うには、前準備ってものが必要だ」
クローデルが右隣でむっつりと押し黙っている目の細い女に顔を向けると、女は無言でうなづいて席を立った。二本の刀を交差する形で背負った背の上で、後ろで高く括った黒髪が左右に揺れる。
「もてなしなどはいい。貴殿は私に筋を通せといいたいようだが、それはどういう意味なのだ?」
クローデルは軽く肩をすくめると、薄い笑みを浮かべる。
「バルドルから話は聞いたよ。あんたは精霊回廊でパーティー内でのいざこざがあった時、そこのバルドルに謝れと言ったそうだな。貴族のボンボンに頭を下げろと」
「ああ、確かに言った。ファルケンブルグの規則で私闘は禁じられているものでね」
「だが、俺が話を聞いた限りではバルドルは間違った指示は出していない。なのに指示に従わなかった坊っちゃんのせいで、パーティーは危険にさらされた。それに腹を立てたバルドルがボンボンを殴りつけたそうなんだが」
クローデルはそこまで話すと、様子をうかがうようにベアトリーチェと視線を交わした。部屋に戻ってきた女戦士が、無言でベアトリーチェの前にワインを満たした盃を置く。
「それは確かにそうだ。しかし、間違ったことをしたからといって殴ってもいいわけではない。貴殿は私に筋を通せと言うが、私にも通すべき筋はある」
「金髪さんの話にも一理ある。だが俺が疑っているのは、あんたがバルドルを咎めたのは殴った相手が貴族のボンボンだからなんじゃないか、ってところでね」
クローデルは薄ら笑いを消し、表情をひきしめた。
「バルドルから聞いたところだと、あんたはどうしてこいつが泥ゴーレムとの戦い方に詳しいんだ、と訊いたそうじゃないか。バルドルはそんなことを訊くのは自分がならず者だと疑っているからだと言ってるんだが、その点はどうなんだ。貴族が相手ならそんな質問をしたのか?」
「誤解を招いたかもしれないが、決してバルドルを疑ったわけではない。なぜ彼があの魔物との戦いに長けているのかを知りたかっただけだ。一人の戦士として。相手が誰であろうと私は同じ質問をしたはずだ。この剣に誓っても良い」
ベアトリーチェは腰に刺した剣を指差した。クローデルは腕を組むと、目を閉じて何度もうなずいた。
「……その言葉、信じても良さそうだな。一人でここまで来た以上、あんたにも俺達の話を聞く気はあるだろう。なら訳は俺から話そう」
クローデルは頑なにベアトリーチェの方を向こうとしないバルドルを一瞥すると、視線をベアトリーチェに戻した。
「あの泥ゴーレムは、以前ここを占拠していた魔留主って暴竜族の召喚師が地下に放ったものだ。帝国兵に精霊回廊からこの砦に攻め込まれるのを恐れたんだろう。俺が術式を変えるまではあの転移門は簡単な起動式しか使ってなかったからな。俺達、怒羅愚雲がこの砦から奴らを追い出すついでに転移門の先の魔物もぶちのめしたのさ。そうこうしてるうちに俺達は泥ゴーレムとの戦いにも慣れていったってわけだ。だが俺達も全ての魔物を始末できたわけじゃない」
クローデルは目の前の盃に手を伸ばすと、ぐいとワインを飲み干した。ようやくベアトリーチェにも事情が飲み込めてきた。
魔留主という名前には聞き覚えがある。バルドルが以前ワイヴァーン地区で懲らしめていた男が所属する集団の名だ。彼等が放った泥ゴーレムは形状を自由に変えられるため、扉の隙間をかいくぐってベアトリーチェたちの前に姿を表したのだろう。
「金髪さんよ、あんたが何を言いたいかは俺にもわかってる。暴竜族をここから追い出した俺達も暴竜族なんじゃないか、って思ってるだろ?」
心中を言い当てられたベアトリーチェは、ごくりと唾を飲み込んだ。実のところ、怒羅愚雲が暴竜族だという疑いは完全に捨てきれてはいなかった。暴竜族と争い、これに勝てる力を蓄えているのなら、むしろその疑いは強まってしまう。
「その気持ちがわからないわけじゃない。だが、俺達はむしろ奴等のやり方に腹が立ってる口でね。同じ騎竜を乗り回す身としちゃあ、ごろつきどもがこの国で好き放題に暴れまわってるのを黙って見てるわけには行かなかったのさ」
「君達と暴竜族との戦いは同類同士の抗争ではないのだな?」
「ああ、そうだ。傍からはどう見えるかは知らないがね」
ベアトリーチェはバルドルが獣人を恐喝から救い、怒羅愚雲の名を出せばもう絡まれることはないと言っていたのを思い出していた。クローデルの言葉を信じるなら、怒羅愚雲は暴竜族に対抗する力を持つことで裏社会の秩序を保つことを狙っている、ということになろうか。
「――クローデル殿の言い分はわかった。だが一戦士としては私からも言いたいことがある。この砦は危険だ。できるだけ早くこの場からは立ち退いたほうがいい。ここは騎竜乗りにふさわしい場所ではないのだ」
ベアトリーチェがテーブルの面々を眺め回すと、その末席でバルドルが怒りの声を上げた。
「それ見ろ、やっぱりそいつは向こう側の人間なんだ。なあ頭領、やっぱり俺は訓練校には戻れねえよ。この金髪は俺達の居場所すら奪おうとしてるんだぜ」
火を噴くようなバルドルの言葉にクローデルは渋面を作ると、空になった盃に手酌でワインを注ぐ。
「まあ、確かに俺達は砦の使用許可を出してるわけでもなし、あんたの立場からすりゃここを不法占拠してると言いたいんだろうな。だがここに俺達が居座ってなかったらこの砦はどうなる?また別の暴竜族が棲みついちまうぜ」
クローデルはゆっくりと諭すように言うと、再びワインで喉を湿らせる。それに続いてバルドルも気を吐く。
「あんたら帝国の連中がだらしねえから、俺達が出張って行かなきゃいけねえんだよ。帝国兵がきっちり暴竜族を取り締まれるなら、俺達だって……」
「頭領、砦の外にハルシュタット兵が姿を表しました!数は30人ほど」
勢い良く扉を開けて駆け込んできた男が、息を切らせながら話した。完全に髪を剃り上げた武闘家風の男の頭が、興奮で真っ赤に染まる。男のただならぬ様子に、ベアトリーチェも胸の鼓動が早くなっていくのを抑えることができなかった。