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精霊回廊

 ベアトリーチェに投げ飛ばされた翌日から、バルドルは授業に姿を見せるようになった。ハルシュタット史や戦術概論などの講義の時間はいつも退屈そうに頬杖をついていたが、実技の時間だけは急に生気が戻ったように動き回り、乗馬の訓練でも射的でも抜群の活躍をみせた。やはり、オークの身体能力はずば抜けているということをベアトリーチェも認めざるを得なかった。


(だが、今日この場でもその力を生かせるかどうか)


 ベアトリーチェが今数名の生徒を引率しつつ歩いているのは、ほの暗い迷宮ダンジョンの中だった。今回の迷宮探索実技は、貴族の子弟の多いリヴァイアサン組と合同で行っている。体育実技で優秀な成績を収めた者だけを選抜し、ベアトリーチェの特別学級と貴族の子弟の多いリヴァイアサン組の生徒とを合わせて6名の者達が、今この古代遺跡を改装して作った迷宮へと挑んでいる。今回は平均してEランク程度の実力を持つ生徒達を集めているが、中でもバルドルの力は突出して高いとベアトリーチェは踏んでいる。


「慎重に進め。どこから魔物が襲ってくるかわからないぞ」


 ベアトリーチェの青い目の先には眩い光球が浮かび、周囲の苔むした石壁を照らし出している。ダークエルフのアルバが簡易魔術で作り出したものだ。彼は非力だが、魔術の腕前とバルドルと戦った度胸とを見込まれて今この精霊回廊へと連れて来られている。七つの影が迷宮ダンジョンの床に落ち、一行の後ろへと長く尾を引いている。


「心配いりませんよ、金髪先生。なんたって俺達には、そこの肉壁がついてますからねえ」

 

 アルバが軽口を叩くと、バルドルがわずかに眉をひそめる。迷宮ダンジョンの暗がりの中で魔法の光源に照らされた肢体はくっきりとした陰影をその身に刻み、普段にも増す迫力で周囲を圧している。


「俺に頼ろうとするな。魔物は後ろから来るかもしれねえだろうが」

「だから後ろにもきちんと肉壁を配置してるってわけよ。なあ、お坊ちゃん?」

 

 アルバが後ろを振り返りつつ、おどけた調子で言う。最後尾を歩いているのはかなり上背のある少年だが、光球に照らし出された紅顔は整っており、肩口で綺麗に切り揃えられた銀髪も育ちの良さを思わせた。

 

 身に付けている鎧は帝国騎士のものと思しき立派な装飾を施したもので、胸の徽章の部分だけが欠けている。父から譲り受けたものかもしれない。生徒の時点でこれほどの装備を身に着けているのはリヴァイアサン組の生徒だけだ。


「僕はお前のような厄介者の壁になるためにここに来たわけじゃない」

 

 少年は苛立たしげにアルバに言い返す。特別学級の生徒などと口すら聞きたくない、といった風情だ。


「その気がなくたって、何かが襲ってきたら嫌でも壁にならざるを得ないさ。なあ、撲殺姫?」

 

 物騒な仇名を呼ばれたミレーユは妖しく笑う。一応は治癒術を使えるミレーユは回復役を見込まれてこのパーティーに入れられているのだが、本人はむしろ早くバトルメイスで魔物の脳天を砕いてやりたくてたまらない、といった様子だ。


「無駄口を叩くな。こうしている間にも、どこから魔物が襲い掛かってくるかわからないのだぞ」

 ベアトリーチェが抑えた声で皆をたしなめると、この雑多なパーティーは水を打ったように静かになった。皆の靴音だけが迷宮の中に響き、嫌が応にも緊張感が高まってくる。

 

 しばらく歩くと、目の前で通路が左右に分かれている地点に出た。正面には大きな鉄の扉があるが、扉はかなり錆びついており、今は使われていないらしい。


「どうやら、おいでなすったみたいだねえ」

 魔物の気配を感じたのか、ミレーユがひび割れた声を出した。その声音はどこか楽しげにすら聞こえる。


「皆、武器を構えろ。ピエールは後方に目を配れ。アルバはいつでも詠唱を始められるよう準備せよ」

 

 ベアトリーチェがきびきびと指示を飛ばす。ピエールは先ほどアルバにからかわれていた貴族の少年だが、剣を鞘から抜いて魔物の襲撃に備えた。バルドルは緊張に顔を引き締めつつ、巨大な棍棒を握る手に力を込めた。


「――来るぞ!」

 

 何者かが迫りくる気配を感じ、ベアトリーチェの肌理細かい肌が粟立つ。

 騎士としては、教室で教科書を片手に講義するよりも、やはりこうして戦場に臨むときこそがベアトリーチェが生を実感できる瞬間だった。

 

 だが、今のベアトリーチェはあくまで生徒を引率する役割だ。いざという時は助けに入らなくてはならないが、実戦の主役はあくまで生徒達だ。ベアトリーチェは剣を構えつつ、バルドルを前面に出すよう数歩脇へと避ける。しかしその時、信じられないものをベアトリーチェは目撃した。


(あれは、何だ……?)


 目の前の床を、灰色のぬめぬめとした液状のものがつたってくる。

 動きは緩慢だが、形状からしてこれはスライムとは違う。

 この迷宮には、自然に棲みついた魔物などはいない。あくまで実技訓練のため、生徒でも倒せる程度の魔法生物を放っているだけだ。しかし、こんな魔物をこの精霊回廊に配置しているなどとは聞いていない。


「皆、下がれ!アルバ、急いで識別の呪文を」


 ベアトリーチェも魔物との戦闘経験は十分に積んでいるが、今目の前に迫りつつある魔物の正体がいまだにつかめなかった。アルバは慌てて呪文を唱え始めるが、その詠唱が終わる前に液状の生物は急に地面からどろどろとした太い突起を突き上げ、その中からさらに二本づつ突起が枝分かれした。


「あ、あれは……マッドゴーレム、だ」

 

 アルバは声を震わせつつ、ようやく背後からそう伝えてきた。

 目の前の魔物は次第に人間のような形を取り、不格好な頭部にはかろうじて目と口と判別できる三つの穴が穿たれる。魔物は両手両足から泥の雫をしたたらせつつ、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「アルバ、奴の弱点属性は探れたか?レベルはいくつだ」

「電撃系統に弱いらしい。レベルは5。でも、今この場に電撃使いは……」

 

 アルバも含め、このメンバーに雷撃魔法を使える者はいない。

 仮に使えたとしても、すでにマッドゴーレムが目前に迫っているこの状況では使ったら仲間まで巻き込んでしまいかねない。


(なぜ、こんな化物がこの場にいるのだ)

 

 ベアトリーチェは心中でそう叫ばずにはいられなかった。訓練校の教師すら戦ったことのない魔物が、この迷宮にどうやって侵入してきたというのか。


「どの道この距離で魔法は撃てねえ。こいつは肉弾戦で片付けるしかないな」

 

 バルドルの声は落ち着き払っている。こんな時ですら動揺を見せない姿は頼もしいが、なぜここまで肚が据わっているのだろう、とベアトリーチェは訝しんだ。


「おい、ピエール、って言ったか」

 バルドルは後ろを振り向くと、青ざめた顔でマッドゴーレムを見つめているピエールに声をかける。


「俺が奴の注意を引きつける。あの泥人形が俺と取っ組み合っている間にお前は背後からあいつに斬りつけろ。気づかれないように忍び寄れ」

 

 バルドルがそう言い終わるやいなや、泥ゴーレムは灰色の手を伸ばしてバルドルに掴みかかる。泥の飛沫がバルドルの顔に飛び散り、それを避けるようにバルドルは素早く目を細めた。


「おい、何をしてる。今のうちに奴の背後を取れ」

 

 バルドルは両手首を泥ゴーレムに掴まれて棍棒を振るえないまま、腰に力を入れてどうにかこの不定形の魔物の豪腕を押し返していた。バルドルの額には血管が浮き出て、二の腕にはたくましい筋肉が盛り上がる。その脇をピエールが足早に通り過ぎ、泥ゴーレムの背後に廻る。


「今だ、こいつを斬れ!」

 

 しかしピエールはバルドルの言葉には従わず、軽く剣の先で泥ゴーレムの背中を突付いただけだった。泥ゴーレムはその刺激に反応して後ろを振り向き、バルドルから手を離して今度はピエールに襲いかかる。


「ひ、ひいっ!」

 

 ピエールは短く悲鳴を上げて後ろに飛びすさり、すんでのところで泥ゴーレムの拳をかわしたが、体制を崩したピエールは仰向けに転倒してしまう。泥ゴーレムはその機を見逃さず、両手を伸ばしてピエールにのしかかろうとする。


「させるかよ!」

 

 バルドルは泥ゴーレムに駆け寄り、後ろから抱きかかえるようにしてピエールから引き剥がす。すると泥ゴーレムは瞬く間に崩れ落ち、再び泥の姿となって地面を這いずり回る。


「畜生、だから俺の言う通りにしときゃ良かったんだよ」

 バルドルが舌打ちすると、その身体に撥ねた泥が地面に吸い寄せられていく。

 一箇所に寄り集まった泥は再び地面から盛り上がり、醜い人の形を形成しつつあった。


「バルドル、君の狙いがわかったぞ。あのゴーレムはこちらの攻撃を悟ると、泥の姿に戻ってしまうんだな?」

 ベアトリーチェの言葉に、バルドルは短くうなづいた。


「それがわかったんなら、あんたも協力してくれ」

 

 バルドルは憮然とした表情で言うと、再び人の姿となった泥ゴーレムの前に立ちはだかる。ベアトリーチェが脇に退くと、予想した通り泥ゴーレムは両手を伸ばしてバルドルに掴みかかった。


 もう、自分がなすべきことがベアトリーチェにはわかっていた。

 バルドルが注意をそらしてくれている間に、あの泥ゴーレムを背後から攻撃すればいい。泥ゴーレムは他の攻撃対象に意識を向けている間は、人の形を取っているのだ。


「ミレーユ、あいつをやれるか」

 

 ベアトリーチェが黒い僧服を着込んだ女生徒にささやきかけると、彼女は薄っすらと微笑んだ。頬の髑髏が表情筋とともに歪む。

 

 ピエールはまだ腰を抜かしているし、リヴァイアサン組の他の二人も怯えていて使い物になりそうにないので、今は彼女に期待するしかない。それでもどうにもならなければ、ベアトリーチェが自ら切り込むつもりだった。


「早くしてくれ。今度は俺でもそう長くは持たねえ」

 

 先ほどの力比べでかなり力を使ったらしく、泥ゴーレムと組み合っているバルドルがじりじりと後ずさっている。石畳の床に滴る不潔な泥の雫に顔をしかめながら、ミレーユがそろそろと泥ゴーレムの背後へと忍び寄る。


「今だ。奴の背中はがら空きだ」

 

 ベアトリーチェがそう言うと、ミレーユは黙ってメイスを頭上高く振り上げ、

「きたねえ泥人形はとっとと地獄へ行きな!」

 と僧侶にあるまじき罵声を浴びせつつ泥ゴーレムの頭へ勢い良く打ち下ろした。


 脳天を砕かれた泥ゴーレムはがくりと身体を二つに折り、地に斃れると二、三度身体を痙攣させた後溶けるように周囲へ広がり、そのままただの泥となってようやく動きを止めた。


「……やった、のか」

 ベアトリーチェが声を押し殺し、努めて冷静に言うと、バルドルが怒りの形相で床にへたり込んでいるピエールのそばに歩み寄った。


「バカ野郎、何で俺の言う通りにしなかった!」

 バルドルが勢い良くピエールの左頬を殴りつけた。床に倒れた少年に顔を寄せ、バルドルはさらに怒鳴りつける。


「お前が余計な真似をしなけりゃ、あの程度の化物はすぐに片付けられたんだよ。お前が俺の言うことを聞いていれば……」


「バルドル、そこまでだ」


 ベアトリーチェが再び拳を振り上げるバルドルの手首を後ろから掴んだ。バルドルは意外なほどに強い女騎士の握力に顔を歪めながらも、ベアトリーチェの空色の瞳を睨みつける。


「ピエールに謝罪したまえ。無抵抗の者に一方的に暴力を振るうなど、冒険者の振る舞いとはいえない」

 鋭く耳朶を打つベアトリーチェの峻厳な声に、バルドルは握った拳を強く震わせた。


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