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群衆の中の猫

「ぼ、僕はお金なんて持ってないんです。本当です。信じてください」

 猫型の獣人の消え入りそうな声が路傍に響く。


「ああん?じゃあ、ちょっとそこで飛び跳ねてみな」


 柄の悪そうな男が獣人を睨みつけながら、低い声で言う。獣人が硬貨を持っていたら、飛び跳ねれば硬貨の音が鳴ることだろう。

 恐喝の現場を見るに見かねて、ベアトリーチェは細い路地へと入っていった。


「何をしているのだ。乱暴な真似は止め――」


「そこのお前、何をしていやがる!」

 

 二つの声が同時に響いた。ベアトリーチェの反対側から近づいてきた大きな影が、柄の悪そうな男の手首を掴んでねじ上げる。


「おい、お前、誰に断ってこんなふざけた真似をしてやがるんだ」

 吠えるような声の主はバルドルだった。大きな傷のあるバルドルの頬を目にした途端、男は震え上がった。


「い、いや、俺はこいつに貸した金を返してもらおうとしただけで……」


「そのためにこいつに飛び跳ねてもらう必要があるってのか?お前、所属はどこだ?――ふん、魔留主マルスか」

 

 バルドルは男の手首に刻まれた入れ墨を一瞥して言った。男は悄然としてうつむくと、視線を地面に落とす。


「俺に断りなくこの街でカツアゲとはいい度胸してるな。狂風のバルドルの名を知らねえわけじゃねえだろう」


 男はひっ、と短い悲鳴を上げると、その場から逃げ出そうとした。しかしバルドルの握力からは逃れられようはずもない。男は必死で身をよじるが、バルドルはより一層男を掴んだ手首に力を込める。


「いいか、この街の秩序を乱す奴には俺は容赦はしねえ。今度同じことをしたら、次の日にはお前の身体がニーベル湾に浮かぶことになるぜ」

 

 バルドルが声に凄味を利かせ、ようやくつかんでいた手首を話すと、男は上擦った声で何度も謝罪の言葉を述べ、飛ぶように走り去ってしまった。


「今度ああいう奴に絡まれるようなことがあったら、怒羅愚雲ドラグーンの名前を出しな。もう誰もお前には手出しができなくなるからな」

 

 バルドルが意外にも静かな声で獣人に語りかけると、獣人は琥珀色の瞳を輝かせつつ顔をほころばせた。喜びのせいか、細い口髭が何度も上下する。


「本当にありがとうございました。このご恩は決して忘れません!」


 獣人はこの界隈の者にしては丁寧な礼を述べ、何度も米搗き飛蝗のように頭を下げると、時折こちらを振り返りつつその場を後にした。


「――全く、ちょっと目を離すとすぐこれだ」

 吐き捨てるように言うと、バルドルはきまり悪そうにベアトリーチェに目を向けた。


「こんなところまで生徒の尾行かい、騎士さんよ」


「尾行とは人聞きが悪いな。君が授業に出てこないから心配で様子を見に来たのだぞ、バルドル」


「あんたにはわからねえだろうが、俺にはな、授業なんぞよりずっと大事なことがあるんだよ」


「なるほど、君がいなければこの界隈を取り仕切るものがいない、というわけだな」


「よくわかってんじゃねえか。そういうことだから、俺は学校には戻れねえよ」


「そう言われて私が黙って引き下がるとでも思っているのか?」

 ベアトリーチェが語気を強めると、バルドルは訝しげにベアトリーチェを睨みつけた。


「バルドル、君はもっと強くなりたいとは思わないのか。ファルケンブルグで鍛えれば、君は一流の冒険者になれる。君を見下してきた貴族や商人を見返してやることだってできるのだぞ」


「冒険者訓練校ってのは、強い冒険者を育てるところなんだろ?なのにあのクラスの連中は束になっても俺には勝てなかったじゃねえか。俺が学ぶほどのものがあの学校にあるとは思えねえんだよ」


「そう決めつけるのは早計だぞ、バルドル。屋外での戦いなら呪紋を使えばいいかもしれないが、さっきのように狭い路地ではあの手は使えない。ファルケンブルグなら迷宮での模擬戦も行っているし、多種多様な戦いが学べるぞ」


「ふん、迷宮か」

 

 バルドルは顎に手を当て、少し考え込む素振りをみせた。もうひと押しすれば彼を連れ戻せるかもしれない。


「ファルケンブルグには初心者用から上級者用まで数多くの迷宮が用意されている。模擬専用に作ったものもあるが、中には古代ハイナム時代の遺跡をそのまま使っているものもあるぞ。君にもきっと満足してもらえるはずだ」


「ハイナム時代の遺跡って、もしかして精霊回廊のことか」

 

 バルドルの瞳に好奇心の光が宿った。このオークが古代遺跡に興味を示すのは意外に思えた。


「その通りだ。よく知っているな」


「馬鹿にしてもらっちゃ困るね。俺だって手強そうな奴のいる場所くらい知ってる。あそこには今でも炎の精霊がうろついているのか?」


「精霊たちはだいぶ前に我々が片付けたよ。あれは危険すぎるのでね。今は模擬戦用の魔物を放ってある」


「ふん、どうせ大して強くもないんだろうが、それなら行ってやってもいいぜ」


 バルドルは唇の端を吊り上げた。なぜ精霊回廊に興味を示したのかは分からないが、学校に戻ってもらえるのなら理由は問う必要はないだろう。今ベアトリーチェが訊くべきことは他にある。


「ところでバルドル、君はさっき怒羅愚雲ドラグーンという名前を出していたな。君はその集団に入っているのか」

 

 怒羅愚雲ドラグーンとは、帝都ファルケンでもかなり多くの構成員を擁する騎竜愛好家の集団だ。その正体は暴竜族だと言う者もいるが、まだはっきりとした証拠があるわけではない。少なくとも、怒羅愚雲ドラグーンの者達が恐喝や窃盗などの罪を犯したことはまだ一度もないのだ。


「だとしたら何か問題でもあるってのか」


「カドフェル司祭が、君が暴竜族と関わっているのではないかと心配しておられるのだ。怒羅愚雲ドラグーンとはどういう集団なのだ?」


「俺達は走り屋だ。暴竜族なんかじゃねえ」

 

 その言葉を信じてやりたいのはやまやまだが、暴竜族はみなそう言うのだ。そもそも暴竜族とは彼らを嫌う者の使う蔑称なのだから、自分でそう名乗るわけがない。バルドルと彼が先ほど魔留主マルスと呼んでいた男との争いも、暴竜族同士の抗争と考えられないこともないのだ。


「どうした、俺を信じる気はねえってことか」

 考えあぐねているベアトリーチェにバルドルが疑いの目を向ける。


「信じてほしいのなら、まず君も生徒としての義務を果たす必要があろう。迷宮探索実技の授業だけでも受けるがいい。あれは他のクラスとも合同で行う。貴族の子弟に君の実力を見せつけるいい機会になるぞ」


「ほう、そいつは面白えな。だがその前に、あんたにひとつやってもらいたいことがある」


「何だ?遠慮なく言いたまえ」


「俺と勝負しろ。俺は自分より弱い奴に従う気はねえ」

 

 バルドルがにやりと笑うと、唇の端から鋭い牙がのぞく。ベアトリーチェでなければ震え上がってしまいそうな恐ろしい形相だ。


「いいだろう。ただし今回は一対一の勝負だから呪紋を使うのは禁止とする」


「言われなくても、あんた一人を片付けるのに呪紋は使わねえよ」


「ならばよい。だが、どこで戦う?」


「俺についてきな。向こうにおあつらえ向きの場所がある」

 

 バルドルはベアトリーチェを手招きすると、いくつか狭い小路を抜け、やがて少し開けた場所に出た。目の前にはファルケン市内を流れる濁った川の岸辺に細い砂利道が一筋通っていて、脇には粗末な東屋がいくつか並んでいるが、周囲には人影も見えず、格闘戦を行うにはまず適当な場所と思われた。


「じゃあ、さっそく始めるとするか」

 

 バルドルは砂利道の脇の草むらに立ち、ベアトリーチェに向き直ると、肩を何度か回し、左手に勢いよく右の拳を打ち付けた。そして両の拳を胸の前に構え、拳闘士のような格好になる。


「どこからでもかかってくるがいい」

 

 バルドルの構えには隙は見えないが、以前の戦い方を見ている限り、それほど彼は素早いとは思えない。力任せに襲い掛かってくるなら勝機はあるとベアトリーチェは踏んでいる。


 バルドルはベアトリーチェの力量を試すように、軽く拳を打ち込んでくる。

 まだ力を加減しているようだが、オークの拳を真正面から喰らえばただでは済まない。


 ベアトリーチェは上半身の動きだけでバルドルの拳をかわす。

 鎧を着込んでいるので、顔面への打撃に気をつけていればまずは大丈夫だ。

 バルドルは左右の拳で何度かベアトリーチェの顔面を捉えようとするが、そのたびにベアトリーチェは素早く身体を捻って拳から逃れる。


 決して己の打撃がベアトリーチェを捉えられないことに苛立ったのか、バルドルは拳を開き、今度はベアトリーチェの肩を掴んで引き寄せようと右手を伸ばしてくる。

 その動きを見て取ったベアトリーチェは素早く身体を回転させ、バルドルの懐に潜り込むと右手を両腕で抱え込み、勢いよく投げ飛ばした。


「くっ……」

 背をしたたかに地面に打ち付けたバルドルは苦しげに顔を歪めると、衣服についた埃を払い、背をさすりながら立ち上がった。


「ここが戦場ならば、君はとどめを刺されて死んでいたぞ」

 

 ベアトリーチェは冷ややかにそう言い渡した。彼女を見返すバルドルの瞳にはまだ闘志が宿っていたが、バルドルはそれ以上ベアトリーチェに挑んでくることはなかった。


「ふん、伊達に冒険者訓練校の教師をやってるわけじゃないってことか。レジーナには足元にも及ばねえだろうが、あんたの腕は認める」

 

 バルドルは薄笑いを浮かべつつ、ベアトリーチェに強い力の籠もった目を向けた。打ち負かされた悔しさよりも、己より強い者と戦えた喜びが勝っていると見える。


「我が訓練校の迷宮ダンジョンでは多くの強敵が待ち受けている。君の腕を存分に見せつけるがいい」

 

 ベトリーチェが厳かに言い放つと、バルドルは当然だ、と言いたげに軽く鼻を鳴らした。

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