孤児院
「だから言ったではないですか、ベアトリーチェ先生。オークの更生などしょせん不可能なんです。奴らはもともと凶暴な種族で、我々の社会になどなじめない存在なんですよ」
ベアトリーチェは放課後、ファルケンブルグ校の校長室で、ロダリスの苦々しそうな顔と対面していた。ハイエルフのロダリスは立ち居振る舞いが洗練されていて教養も高く、オークのような力自慢の種族を殊の外嫌っていた。
バルドルが校庭で嵐を呼んで以来、もう3日も授業に出てこないため、ベアトリーチェは教頭のロダリスに校長室に呼び出されていたのだ。校長のジェラルドは帝国人だが、腕組みをしたまま無言で渋面を作り、ベアトリーチェの真向かいで椅子に腰掛けたまま何も話そうとはしない。
「ですが、そのような我々のオークに対する偏見こそ、バルドルを頑なにしているとは考えられませんか。私の見たところ、バルドルはできるだけ対戦相手を傷つけないような戦い方をしていました。彼が単に粗暴なだけの生徒であるとは、私にはどうしても思えないのです」
「それなら、なぜ彼は校庭で嵐など呼んだのです?あんなことをする必要などなかったはずではありませんか。大体、呪紋などは暴竜族のような悪党どもが根性を試すために身につけるもの。バルドルも今頃ファルケンの郊外で竜などを乗り回しているに違いありません」
ロダリスのその言葉に、ベアトリーチェは真っ向から反論することができなかった。バルドルは実際に騎竜に乗っており、過去に駐竜違反や速度超過などの罪を犯しているのだ。彼をロダリスが暴竜族の一味だと考えるのも無理はない。
「しかし、まだ彼が暴竜族に入っているという証拠はありません。はじめから我々が彼に疑いの目を向けていたら、彼も我々を信用してくれないでしょう」
「あのような不良生徒を受け入れたこと自体が間違いだったのです。このまま授業に出てこないようなら、即刻退学処分としましょう。当校の秩序を守るにはそれが一番なのです」
ロダリスはすでにそれが既定路線であるかのように言うが、ベアトリーチェはとても納得することはできない。
「退学を決めるにはまだ早すぎます。彼のような生徒が退学になれば、それこそ暴竜族や山賊くらいしか彼を受け入れてくれるところはありません。私は彼を立派な冒険者に育て上げるまでは、バルドルから目を離すわけにはいかないのです」
「では、貴方には何か考えがあるというのですか?」
「そうですね、一度カドフェル司祭にお会いして、お話を伺いましょう。この学校に転入してくるまでは、彼がバルドルの唯一の理解者だったようですから」
ベアトリーチェがそう言うと、ロダリスは眉根を寄せつつベアトリーチェを見た。
「貴方がそこまで言うのなら、今しばらくの猶予を与えましょう。ですがもしバルドルが暴力事件など起こしたら、貴方の責任も問われますからね」
「そのようなことにはならないと、私は信じています」
ベアトリーチェは断言した。それは希望的観測かもしれない。しかし、バルドルはまだ他の生徒に理不尽な暴力を振るったことはないのだ。呪紋で嵐を呼んだ時も、バルドルはあくまで周囲を威圧するために力を行使しているように思えた。
「私が、必ず彼を連れ戻します」
ベアトリーチェはロダリスに軽く一礼すると、校長室を後にした。
本当を言うと、連れ戻せる自信があるわけではない。
しかし、まず生徒を信じなければ何も始まらない、というのがベアトリーチェの信念だった。カドフェルが必ず助けになってくれるはずだという希望を胸に抱きつつ、ベアトリーチェは靴音を響かせながら長い廊下を歩いていった。
「ようこそおいでくださいました。さあ、こちらへどうぞ」
帝都ファルケンの中央区画の外れにある孤児院を訪れたベアトリーチェを、カドフェル司祭は柔らかな笑みで迎えてくれた。
ベアトリーチェはカドフェルに誘われるままに院長室に通されると、簡素な木製の椅子に座るよう促される。目の前のテーブルに置かれた薬草茶の爽やかな香りが、胸を覆う重い空気を少しだけ吹き払ってくれた。
「そうですか、さっそくあの子がそんな問題を……」
ベアトリーチェが椅子に腰を下ろし、バルドルが転入初日にとった行動をひと通り説明すると、カドフェルの表情は憂いに沈んだ。聖職者で子を持たないカドフェルにとって、バルドルは我が子も同然の存在なのだろう。
「いえ、勘違いしないで頂きたいのですが、バルドルの戦い方はあくまで校則に則ったもので、何の問題もないのです。ただ、ここ数日授業に出てこないもので」
「ええ、それはわかっております。あの子は振る舞いこそ粗野に見えますが、自分より弱い者を虐げるような真似は決してしません。ただ、その――」
「ただ?」
「彼は幼い頃から、オークに対する差別と偏見に苦しんできたのです。帝国ではオークは珍しいので、貴族など上流階級の者からは鬼の子と言われ石を投げられたり、薄汚い豚だと嘲られたりと、数々の心ない仕打ちを受けてきたのです。そんなバルドルからすると、学校という帝国の権威を象徴する存在がどうしても許せないのでしょう。それに貴方は騎士です。帝国の秩序を維持するために剣を振るう貴方には、従いたくないのかもしれません」
ベアトリーチェはロダリスが琥珀色の瞳を歪めるさまを思い出した。あのハイエルフがバルドルに向けたような軽蔑の眼差しを、彼は身分の高い者達から嫌というほど浴びせられてきたのだろう。
秩序と言うなら聖職者であるカドフェルもまた帝国の秩序を体現する存在なのだが、そこはバルドルの親代わりを務めてきたために信頼があるに違いない。
「彼が呪紋の力を使ってみせたのも、貴方への挑戦のつもりかもしれません。何しろ呪紋はファルケンの不良達が好んで身につけたがるものですから、彼なりの反骨精神の現れなのでしょう」
「先ほど上流階級の者からは差別を受けたとおっしゃいましたが、下層階級の者からはバルドルは受け入られたのですか?」
「バルドルは貧民街で育ちましたが、あそこでは力こそが全てですからね。腕っ節の強いバルドルは数十人の子分を従えるいっぱしの顔役でしたよ」
バルドルは貧民街にしか居場所がなかったのだろう。あるいは今この瞬間も、バルドルは貧民街に顔を出しているのかもしれない。
「――そういえば、少々気になったのですが、バルドルは暴竜族とつながりがあるのですか?」
ベアトリーチェがそう問いかけると、カドフェルは少しうつむきながら応えた。
「それは、私にもよくわからないのです。確かに彼は騎竜で何度か交通違反を犯してはいますが、恐喝や窃盗などの犯罪は犯したことがありません。だから、暴竜族とは関係していないと信じたいところなのですが……ただ彼は、レジーナに憧れておりまして」
「レジーナとは、あの『九頭竜のレジーナ』のことですか?」
カドフェルはくぼんだ眼窩の奥の瞳を伏せると、力なくうなづいた。
「九頭竜のレジーナ」とはかつてこのハルシュタット帝国全土に名を轟かせた伝説の義賊である。帝都の騎竜乗りなどとは違い、野生の竜を従えるほどの本物の豪傑だったレジーナは、悪徳商人の屋敷や過酷な税を課し私腹を肥やす領主ばかりを狙って盗みを繰り返していたが、数年前に姿をくらまして以来、その行方は杳として知れない。
今は罪を悔い改めて修道女になったとも、冒険者になって隣国のアランシアに逃れたとも言われているが、本当のところは誰も知らない。レジーナの率いていた盗賊団「悪窮零」は神出鬼没で、帝国兵ですら頭目のレジーナの姿を見たものは誰一人としていないからだ。古代竜を駆りアストレイア山脈の上空を飛んでいたと言うものもいるが、あくまで噂の域を出ない。
「そうですか、彼がレジーナを慕っているとは……しかしレジーナは決して弱き者を虐げることはなかったと聞いております。彼女に憧れるなら、バルドルが暴竜族に入る心配はないのではありませんか」
暴竜族の中には旅人を襲ったり、麻薬を販売したり、時には防備の手薄な集落を狙って略奪を行うなど、組織的な犯罪に絡んでいるものも少なくない。
そのような行為を嫌っていたというレジーナに憧れているのなら、バルドルが暴竜族に近づくとは思えない。
「そうですが、暴竜族にもレジーナの残党を名乗る者達もいます。それが本当なのかはわかりませんが、彼女の身体にも大きな入れ墨が施してあったといいますし……」
カドフェルはそこまで話すと黙り込んでしまった。
やはり呪紋のことを気にしている。
暴竜族が好んで用いる呪紋をバルドルが身に着けているからには、やはり暴竜族とは全く無関係だと言い切ることはできない。
「バルドルは今どこにいるのか、心当たりはありませんか」
答えに窮しているカドフェルを見かねて、ベアトリーチェは質問を変えた。
「そうですね、今ならワイヴァーン地区あたりでしょうか。彼が以前仕切っていたのがあの辺の子供たちでしたから」
ワイヴァーン小路は帝都ファルケンの中でも、とりわけ貧しい者が多く治安も悪い一角だ。確かに学校などよりずっとバルドルが羽根を伸ばせる場所なのかもしれない。
「お話を聞かせていただきありがとうございます。では、私はワイヴァーン地区に向かってみることにします」
「そうですか、どうか気をつけてくださいね。貴方の腕なら心配は要らないかもしれませんが、あの辺には物盗りや詐欺師のたぐいも多いですから」
「ご忠告、確かに胸に刻みましょう」
ベアトリーチェは席を立つと、カドフェルに深々と頭を下げた。
孤児院を出てファルケン旧市街の壁を超えると、そこから先は新参者の多い区画となり、石畳の道路もここからは土で覆われる。
住宅街を曲がりくねった道路が通っているのは、戦争の時に敵軍が攻め込みにくいように作られているためだ。
「ヒャッハァー!さすがマハールの競争竜はよく走るぜ」
三騎ほどの騎竜乗りが、土埃を巻き上げながらベアトリーチェの脇を駆け抜けていく。ベアトリーチェが咳き込みながら振り返ると、最後尾の騎竜乗りが背中に「仏恥義理」と刺繍されたシャツを着ていることに目を留めた。何と読むのかは知らないが、暴竜族はこうした東洋の文字を好んで用いている。
蛇のようにのたうつ道路を何度も折れ、二つの橋を超えると、その先がワイヴァーン地区だ。ここにベアトリーチェのような騎士が立ち入るのは珍しいのか、狭い路地ですれ違う住民たちが何度もうさんくさ気な視線を投げてよこす。時には口笛を吹き、ベアトリーチェの整った容姿を冷やかしてくる者もいた。街をゆく者達の目は一様に濁っていて、界隈を暗く淀んだ空気が包み込んでいる。
ふと路傍に目を留めると、吟遊詩人がいま帝都で流行りの歌を歌っている。
反権力を掲げる歌でありながら、その旋律は不思議と心地よくベアトリーチェの耳に染み込んでくる。
しかしその歌詞に聞き耳を立てると、ベアトリーチェは眉をひそめざるを得なかった。
その歌詞の中では、盗んだ騎竜を乗り回して自由を謳歌する若者たちの姿が歌われている。
(こんな歌が流行っているのか……)
こんな歌詞では窃盗を煽っているようなものだ、と思ってしまうのがベアトリーチェの融通の利かないところだった。それに騎竜を自由の象徴のように歌うところも気に食わない。騎竜乗りはその背で自由を謳歌しているとしても、飼いならされた騎竜の方はどう思っているのか?と思ってしまうからだ。
しかし、一度沸き起こった怒りの火は、すぐ傍から聞こえてきた怒鳴り声に消し止められた。
「おい、有り金さっさと出せって言ってんだろうがこのクソ猫が!」
その苛立たしげな声のした方を振り向くと、道路脇の家と家の間の狭い空間で、人相の悪い若者が猫の頭をした獣人の胸倉をつかんで脅しあげていた。






