プロローグ:腐ったリンゴの法則
(駐竜違反が5回、騎竜速度超過が3回、貴族との私闘が7回……か)
女騎士ベアトリーチェは、手元の羊皮紙に目を落としつつ小さく溜息をつく。
紙片を眺める瞳は蒼く澄み渡り、厳しい鍛錬で引き締まった頬の輪郭は整った目鼻立ちに中性的な凛々しさを付け加えている。
銀の甲冑をまとった背に流れる真っ直ぐな金髪は綺羅びやかに光り輝き、さながら戦乙女が地上に舞い降りたかのような雰囲気を醸し出している。
しかし、ベアトリーチェは今、戦場に槍をきらめかせようとしているのではない。
いや、ここもある意味では戦場だった。
ベアトリーチェがハルシュタット帝国随一の冒険者訓練校・ファルケンブルグ校の職員室で眺めている書類は、ベアトリーチェの受け持つ特別学級に転入してくる生徒のものだからだ。
問題児の指導には、ある意味戦場に立つのと同等の覚悟が求められる。
「全く、我が校は厄介者の流刑地ではないんですけれどねぇ……いくらベアトリーチェ先生のクラスの生徒がFラン冒険者の卵とはいえ、これ以上無法者を押し付けられても困るんですがね」
甲高い声で嘆きを漏らしたのは教頭のロダリスだった。
その琥珀色の瞳が明らかな侮蔑の色をふくみ、ベアトリーチェに向けられる。
ハルシュタット帝国の冒険者はS級から順にランク付けされているが、最下級のF級冒険者は「Fラン」と揶揄されている。成績不振の者や前科者すら在籍しているベアトリーチェの特別学級は、毎年Fランク冒険者を多数輩出する落ちこぼれの集まりとして知られていた。
「しかし、我々がはじめから生徒を厄介者とみなしていては、彼らとて心を開いてくれないでしょう。教育とは、まずは生徒を信じるところから始めなければ。ヒノモト国では『人』という字をどう書くがご存知ですか?このように互いが支え合う形になっているのですよ。教師も生徒も互いに支え合う存在とならなくてはいけないのではありませんか」
ベアトリーチェは左手の掌に右手の指先を押し当てて『人』の字の形を作ってみせたが、ロダリスは軽く鼻を鳴らしただけだった。
「そうは言っても、ファルケン市内で竜を乗り回しているような輩をどう信じろって言うのです?そのバルドルという生徒は速度違反で何度も逮捕されているではありませんか。まさか暴竜族とつながりがあったりするのではないでしょうねぇ。おお、おぞましい」
ロダリスは我が手で自分を抱きかかえるように両肩をつかむと、目に怯えの色を浮かべて身震いした。暴竜族とは、騎乗用に飼いならした竜を集団で乗り回し、交通規則も守らずに公道を爆走し、時に荷駄を襲撃するなどして治安を乱すハルシュタット帝国獅子身中の虫とも呼ぶべき存在だった。
暴竜族の構成員は仕事のない傭兵や山賊、他国からの流人などが多い。
戦争で騎竜を操る技術を身に着けた者達や、盗んだ騎竜を山野で乗り回しているうちにその扱いに長じた者達であるため、その戦力は侮りがたく、帝都ファルケンの衛兵たちも容易に手出しできない始末だった。
「確かな証拠もないうちから生徒を疑ってはいけません。我々が真摯に接すれば、バルドルも真情をもって応えてくれることでしょう」
一個人としては、ベアトリーチェは騎竜を操る者にはあまり好感を抱いていない。
本来自由に空を駆ける存在であるべき竜を手なづけ、地上を走り回る存在にしてしまうなど自然の摂理に反すると思っているからだ。
しかしそのような私情を教育に持ち込むことは避けなくてはならない、とベアトリーチェは固く心に誓っている。だからまずはバルドルを信じることにした。
「それは希望的観測というものじゃあありませんか、ベアトリーチェ先生?」
「どういうことです?」
その問いにはロダリスは答えず、もったいぶった仕草で自分の机の上から林檎を取ってベアトリーチェの前に戻ってきた。
「腐った林檎を林檎の詰まった箱に放り込むと、次第に周囲の林檎も腐り始めることを、貴方も知らないわけではないでしょう」
ロダリスは林檎をベアトリーチェの目の前に掲げると、唇の端を持ち上げた。
「教頭、我々は林檎を作っているのではありません。冒険者を育てているのです!」
ベアトリーチェは色をなした。ロダリスのように最初から生徒を更生させる気がなく、排除することしか考えていない教師を見てると虫酸が走る。
「おやおや、ずいぶんと不良生徒の肩を持つのですねぇ。教育熱心なのも良いですが、あまり問題のある生徒を抱え込んでは当校の名誉にも関わりますし……まあ、せいぜい頑張ってみることですね。貴方の手腕には期待していますよ」
ロダリスの心にもない台詞にベアトリーチェは何か言い返そうとしたが、そのとき背後の職員室の扉が開く音が聞こえた。
「お待たせしました。聖マルコ孤児院のカドフェルと申します。彼が本日よりこちらの学校でお世話になりますバルドル・ハードラーダです」
最初に扉をくぐって職員室に入ってきたのは、人の良さそうな笑みを浮かべた初老の司祭だった。この男が以前バルドルを預かっていた司祭なのだろう。続いて、鋲を打った革鎧を着た、いかにも物騒な風体の生徒が巨体を揺すって入ってきた。細かい棘のついた肩当ても、威圧的な風貌をさらに強調している。
「さあ、新しい先生に挨拶なさい、バルドル」
司祭がそう促しても、バルドルはベアトリーチェをねめつけたまま何も話そうとしない。ベアトリーチェは仕方なく自分から切り出した。
「我がファルケンブルグ校へようこそ。私が君の担任となるベアトリーチェだ。君が立派な冒険者となれるよう、精いっぱい手助けさせてもらうぞ」
バルドルの視線が品定めするようにベアトリーチェの身体を上下したのち、彼は片頬を歪めて笑った。唇の端から鋭い牙が覗き、瞳に獰猛な光が宿る。
「ちっぽけな人間風情が、俺に教えられることがあるものかよ」
そう言ってベアトリーチェを見下ろすバルドルの表情には、人間ではありえない凶悪な相が張り付いている。この男を前にしては、ベアトリーチェでなければ恐怖で身がすくんでいたかもしれない。
バルドルは筋骨逞しい正真正銘のオークだったからだ。