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一方ロシアはボールペンを使った

作者: 秋野花得

「一方、アルデヒト基をもつ物質はアンモニア性硝酸銀水溶液に反応し、カルボン酸化するとともに銀を析出させる。これを銀鏡反応と言う。だからこの物質Cは、選択肢中で唯一アルデヒト基をもつギ酸となる。今日はここまでー」


終業の鐘が鳴った瞬間に合わせて授業を終えられると、妙な達成感がある。蜘蛛の子を散らすようにわらわらとドアに殺到する生徒たちを眺めながら、俺は大きく伸びをした。


               ◆


 一日の授業が終わっても、塾講師の仕事は終わらない。特に、最近入ったばかりの新入りには多くの仕事が言い渡される。出席数の総まとめ、小テストの丸付けから練習問題の作成。先輩方が帰っても、俺にはまだ多くの仕事が残されている。

 こうして、深夜まで一人で仕事をするのも慣れたものだ。


「先生」


 女の子の声だった。たしか、生徒の一人だ。


 その声に反応して振り向く瞬間、怖気を覚えた。かつて特務機関DD-7に所属していた時の感覚がまだ俺の中に残っていることに悲しむと同時に、その感覚に感謝した。


 咄嗟に頭を伏せる。頭上を赤い光が奔る。


「鈍ってはいないようですね。先生――」


 ボールペンだった。先ほどの赤い光は、少女が手に持つボールペンから発射されたのだ。その光が向かった先、コンクリの壁には小さな焦げ跡が出来ている。

 こういった、公の場所での戦闘時には、なるべく隠蔽性の高い武器が好まれる。塾講師に身をやつした僕を仕留めるなら、ボールペンに偽装された光学兵器はうってつけだろう。


「なるほど、プロか」

「先生は覚えてらっしゃないかもしれませんが、あなたが機関の教官だった頃、お世話になりました」


 俺も相手に応えるように、スーツの胸ポケットからボールペンを取りだす。このボールペンもまた、ボールペンに偽装した武器。

 互いにボールペンを持って構える。間には机が数個。他にも、この教員室には教卓がずらりと並んでいる。こういう場所では、体格の大きさは利にならない。むしろ小柄であった方が小回りが利く。射程の面でも相手が優っている。乱戦になれば俺が不利。


 少女の右手が動く。相手のボールペンの能力は分かっている。肉を焼き切る極光。だが掠る程度では致命傷にはならない。初撃が失敗した今、相手の狙いは一瞬の照射で即ダメージに繋がるところ――つまり俺の眼を焼くことだと予想される。


 顔を腕で押さえつつ、素早く飛び退く。やはり狙いはこちらの眼。顔を隠した腕が熱を感じる。火がついた上着を脱ぎ捨て、相手に向かって投げつける。相手が燃えるスーツを払いのける間に、俺は廊下に向かって駆ける。


 あえて夜、俺一人の時を狙ってきたということは、俺の始末を秘密裏に済ませたいという意志の表れ。人気のあるところまで逃げ切れば、相手も手を引いてくれるかもしれない。そうでなくても、こういうときは人気の無い場所に逃げるより、人込みの中へ逃げ込んだ方がいい。


 廊下は約10m。そこから階段で一階分降りればとりあえずこの塾校舎から出られる。この時間、周囲に明かりは無いから、闇に紛れることができる。相手が例の発火する光を使えば、一方的に位置を知ることだってできる。闇の中では、ああいった光学兵器は目立ってよくない。


 が、駄目だ。相手の動きが早い。足音がすぐ近づいてくる。相手も廊下に出たようだ。

 その場に伏せる。赤い光が俺の上をいく。だが、狙いを外しているにも関わらず、相手は照射をやめる気はないようだ。


「先生、何故機関を去ってしまったのですか。組織を抜けることがどういうことか、先生が一番よく分かっていたはずなのに」


 赤光は、踊り場へと続く扉のドアノブを焼いている。まずい。相手はあの熱の力で、ドアノブを壊すつもりだ。あの熱量で合金が溶かせるのか? いや、この状況で相手がこの対応を取ってきている以上、できると考えて間違いない。相手の武器のことは、相手が一番よく分かっている。


「こういったミッションでは、最初に相手の逃走ルートを奪うのが定石……でしたね」

「ああ。だが窮鼠猫を噛むとも言う」

「旧ソの黒鼠と呼ばれた人が言うと、説得力がありますね」


 ボールペンの蓋の部分を開けて、中のインクケースを取りだす。中に詰まっているのは特殊溶解液。この距離ではギリギリ届くかどうかといったところ。だが相手のボールペンは超射程のレーザー兵器。そう簡単に距離をつめさせてはくれないだろう。


 一歩踏み出してボールペンのインクを投げかける。結果を確かめずにそのまま前進。中の溶剤はまだ残っている。ケース自体を相手に突き立てることができれば、残った溶剤で肉を貫いて一撃で決められる。


「くっ! けど、これでそちらの攻め手は品切れのはず」


 かわされた。だが一直線の廊下だ。かわすとなれば後ろに下がるしかない。その動きは読み通り! 俺はインクケースを取りだす時に落ちた、ボールペンのスプリング――つまりバネを踏みつけて、離す! 足元からの急襲、バネが跳ぶ。それ自体に殺傷能力は無いが、一瞬でも気を逸らせれば十分。右手の皮膚がただれるのもかまわず、俺はボールペンのインクケースを握りしめてさらに一歩、廊下を踏みしめて飛び出そうと――。


 が、おかしい。相手の少女はボールペンをこちらに構えている。まるで追い詰められた感じがしない。

 ああいった、殺傷性で劣るものの射程が長いタイプは、力量で上回る相手に対して一矢報いるためのもの。刺し違えててでも相手にダメージを与えるためのものだ。だからこの状況でぎりぎりまであのボールペンでの攻撃を続行しようとするのはおかしくない。


 だが、この状況、ボールペンで狙う先はこちらの眼であるはず。にも関わらず、あのボールペンの先は俺の胸。そこに気付いて、今にも飛び出そうとする身体を止め、後ろに飛び退く。


 ボールペンのペン先が跳ぶ。一回使い切りの射出攻撃。おそらくペン先には毒の互いが塗ってあったことだろう。だが、俺はぎりぎりのところで凶弾を回避できている。


「流石、鋭いですね」


 だが無理な回避のせいで、次の行動が遅れた。対して、相手のボールペンは既に俺の方を向いている。俺が次のインクケースを取りだす間に、赤い光が俺の眼を狙う。

 手の中の新しいインクケースが溶け出す。度を超した熱に、俺は暑いではなく痛いと感じた。


「!?」


 次の瞬間、少女が叫んだ。その隙に俺は少女に近寄って首を絞める。


「銀鏡反応だ」


 苦悶の声を上げる少女に対して、可哀そうだと感じつつ一向に手を緩めない自分が嫌になる。


「さっき取り出したインクは、本当にただのインクだった。有機金属インクって言ってさ、銀を有機質に溶かして作ったインクだ。その有機金属インクとさっきの溶剤が混ざると、銀が出て来る。俺の手の中に出来上がった即席の鏡が、赤光を跳ね返して相手の眼を潰した、というわけだ」


 説明が終わった時には、もう少女の首は折れていた。結構気に入っていたが、この塾にはもう居られないな。

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― 新着の感想 ―
[良い点] <NASAが宇宙で使えるボールペンを開発して自慢していたらソ連は鉛筆を使っていた>との都市伝説を皮肉った作品かと思ったら本格アクション作でございましたwww。 [一言] 絵面にすると馬鹿馬…
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