第98話 エッフェル塔で昼食を
「あなた、大丈夫?」
ジャンヌが声を掛けたのは、白いローブをまとった、若い黒人女性であった。黒人女性だと分かったのは、ローブからのぞく手足の色と、その肌質からで、顔はフードに覆われて見えなかった。病人なのか、それとも怪我人なのかも、判然としなかった。
「もしもーし?」
ジャンヌは、茂みに寄りかかった女の肩をゆさぶった。
がさがさと、木の葉がざわめいた。
「ジャンヌ殿、病人かもしれぬゆえ、安静に」
「それもそうね」
ジャンヌは、自分の頭を小突いた。
「意識がないみたいだから、病院へ……」
携帯を取り出したジャンヌの目の前で、女の上半身が動いた。
ジャンヌはもう一度、女の耳元にかがみ込む。
「大丈夫? 気分が悪いの?」
女は眠りから覚めたように、ゆっくりと顔を上げた。フードの下から、目鼻立ちの整った面が現れた。面長で掘りが深く、どこかうたぐり深いような目をしていた。それとも、森の中の薄暗さが、そう見えたのだろうか。
女は長い睫毛をまたたかせながら、ゆっくりとくちびるを動かした。
「すみません……暑さでめまいが……」
「あらら、日射病ね。病院で診てもらったら?」
ジャンヌの勧めにもかかわらず、女は首を左右に振った。
「いえ、横になったおかげで、もう平気です」
女の回答に、ともえはくちびるをむすんだ。
素人判断は、考えものである。ともえはそう考えて、会話に割り込んだ。
「念のため、医者に診せたほうがいいだろう」
親切心のつもりだったが、女はやはり首を左右に振った。
そして、今までの昏倒が嘘のように、スッと立ち上がった。
「この通り、なんともありませんので」
「んー、元気そうには見えるけど……」
「ジャンヌ殿、外見の問題ではござらん」
たしなめるともえだったが、女は礼を述べて、その場を立ち去ってしまった。
あとに残されたともえたちは、狐につままれたような気分になった。
「ふむ……大丈夫なのだろうか」
「ま、本人が大丈夫って言ってるんだから、どうしようもないわよね。ムリヤリ病院へ連れて行くわけにもいかないし、それに……」
ジャンヌは、そこで言葉をにごした。
彼女の視線は、遠ざかる女の背中に向けられていた。
「それに、なんだ?」
「犯罪者かもしれないわ」
ともえは目を見開いた。
「その可能性は……考えなかった……」
「ただの憶測よ。病院嫌いなだけかもしれないし」
そう言ったところで、女の姿は、観光客の群れにまぎれて消えた。
森に差し込む陽の光が、あたりにきらめき、ともえたちの顔を水玉模様に照らした。
「ここでぼんやりしてても意味ないし、食事にしましょ」
ジャンヌはそう言って、広場へともどり始めた。
もう少し、この風景を楽しんでもいいのだが。ともえはそんなことを思いながらも、ジャンヌのあとを追った。
○
。
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「でね、この前のブティックで……」
延々と続くジャンヌの世間話を聞きながら、ともえはナイフとフォークを動かす。箸のほうが便利だと思いつつ、ともえは慣れないテーブルマナーに、四苦八苦していた。こんがりと焼けた鴨肉のソテーから、肉汁があふれた。
「トモエちゃん、お酒は飲まないの?」
ジャンヌは、ともえのそばにある赤ワインを指し示した。銘柄がどうのこうのと言っていたが、ともえにはちんぷんかんぷんだった。
「拙者は未成年だ」
「ワインなんて、アルコールのうちに入らないでしょ」
「遠慮いたす」
ともえは、かたくなに断った。
「お堅いのね」
「そういう問題ではござらん。飲みなれていないものを人前で飲むのは、いかがなものかと思うだけだ。悪酔いするかもしれぬ。ジャンヌ殿の好意だけ、受け取っておきたい」
嘘をついているわけではなかった。飲酒の経験がないから、適量が分からないのである。そもそも飲める体質なのかどうかすら、判然としなかった。
「ふーん……ま、日本人は、お酒に弱いからね」
「もうしわけない」
ともえはそう言ってから、炭酸水のボトルをかたむけた。
グラスの中へコポコポと水が流れ、シュワシュワと泡がはじけた。
ともえはそのグラスの端に口をつけながら、外の風景をかいまみた。
炎天下のパリは、その白い建物の群れを、どこまで輝かせていた。
「……ジャンヌ殿、ひとつうかがってもよいか?」
ともえはグラスを、テーブルクロスの上にもどした。
「なに?」
ジャンヌは肉を切り分けながら、そっと視線を上げた。
そして、ともえの表情が妙に真剣なことに気づいた。
「ずいぶんと、深刻な質問みたいね」
「いや……深刻というわけではないのだが……訊くのがはばかられてな」
「私の男性遍歴とか?」
ジャンヌの混ぜっ返しに、ともえは赤くなった。
「そういうことではござらん。不肖、黒金ともえ、尋ねてよいことと悪いことの区別くらいは、ついている」
「そう怒んないの……で、なに?」
「夢の国についてなのだが……」
ともえがそこまで言うと、ジャンヌは手の動きを止めた。
顔から笑みが消え、視線を窓の外へ向けた。
「夢の国……ね……それ、質問してもいいと思ったの?」
冷ややかな反応に、ともえは気後れしかけた。しかし、このパリに連れて来られてから、否、悪の組織と対峙し始めてから、ずっと心中に秘めていたものを、ともえはいよいよ切り出すときだと思った。
「だから、はばかられると申したのだ。ダメならダメで……」
「うーん、ダメって言うよりね……」
ジャンヌはナイフとフォークを置き、ワイングラスを手に取った。
ゆらゆらとルビー色の液体を揺らしながら、彼女は他の客を盗み見た。
「よく知らないのよね」
「知らない? ……なにを、だ?」
「夢の国の話をしてるんだから、夢の国に決まってるでしょ」
ともえは一瞬、ジャンヌの台詞の意味を、量りかねた。
そして、唖然とする。
「……ジャンヌ殿は、夢の国が何か、ご存じないと仰るのか?」
ジャンヌはやや自嘲気味な笑みを浮かべ、それからグラスを半分ほど開けた。やけ酒のようにも見える。ともえは、ジャンヌの不知が、ジャンヌ自身のプライドを傷付けていることに、ようやく勘付いた。
この話題を、続けたものだろうか。ともえが思案する中、ジャンヌは唇を動かす。
「幹部の間でも最高機密……ってことになってるけど、要は誰も知らないのよ。ただひとりの人物を除いてね」
「ただひとりの人物?」
「ミスター・大統領よ」
ともえは、上海スタジアムで場を取り仕切っていた、スーツ姿の男を思い出す。
「その大統領というのが、おぬしらのボスなのか?」
ともえの質問に、ジャンヌは顔をしかめた。
「幹部の地位は、おたがいに対等よ。大統領が特別偉いってことはないわ」
「そ、そうか……失礼致した……では、なぜあの男だけが?」
「知らない」
ジャンヌの返答に、ともえは目を細めた。
「……そんな目で見ないでよ」
「ようするに、夢の国がなんであるのか、大統領以外は誰も知らぬということか?」
ジャンヌは、首を縦に振った。
そんなバカな。ともえは、相手が嘘をついているのではないかといぶかった。とはいえ、ゲンキたちの嘘ならば、長年の付き合いで簡単に見破れるものの、ジャンヌ相手には、そうもいかない。悪の女幹部をしばらく凝視したともえは、食事を再開した。
「蘆屋道遥や王傑紂もか?」
「アジア方面は、大して重要じゃないわよ。問題は、仏独英の三国に……」
そこまで言って、ジャンヌは舌の動きを止めた。
あわてて右手を宙で振りまわした。
「この話題は止め。人質に話すことじゃないわ」
人質。ともえはにわかに、自分の立場を思い出した。会話が中断する。
しかし、さきほどのジャンヌの台詞が、気に掛かって仕方なかった。アジアが重要ではなく、ヨーロッパに肝心な役割が課されているようだ。そのようなバランスの偏りがなにを意味するのか、ともえには察しがつきかねた。まさか21世紀にもなって、白人至上主義というわけでもあるまい。
ともえはソテーを口に運びながら、ちらちらとジャンヌの顔を盗み見た。
「私の顔に、なにかついてる?」
視線が合ったわけでもないのに、ジャンヌはともえの行動を見とがめた。
気配で分かるのだろうか。ともえは用心した。
しばらく黙っていると、ジャンヌは食事を終え、ナプキンで口元をふいた。
「今度は、こっちから質問させてもらうわよ」
「……拙者にか?」
「ほかに誰がいるの?」
ジャンヌのもっともな回答に、ともえはナイフとフォークを置いた。量が多過ぎて、これ以上は入りそうにないのだった。ムサシの状態なら容易く平らげたかもしれないが、女の身ではそうもいかなかった。
ともえは居住まいをただし、ジャンヌの問いを待った。
「ま、あなたと同じ質問なんだけどね……夢の国について、なにか知ってる?」
ジャンヌは、さきほどまでの歓談とは打って変わった、冷たいまなざしを向けてきた。
これは尋問なのだろう。ともえは慎重に答えを返した。
「なにも知らぬ」
ふたりのあいだに、緊張が走った。
「ふむ……シラを切りますか」
「シラを切っているわけではない。拙者たちが夢の国の使者に選ばれたのは……そう、あれはまだ、七丈島にいたときだが……ただの偶然だった」
「偶然?」
ジャンヌは、これ見よがしに眉をひそめた。
信用されていないのだろう。そう考えたともえは、自ら先を続けた。
「夢の国の使者が現れたのは、拙者たちが入浴中のことで……いや、場所は、どうでもよいな。ともかく、なんの前触れもなく、拙者たちの前に現れて、勧誘してきたのだ」
「魔法少女にならないか、って?」
ともえはうなずいた。
あくまでも視線を逸らさないように努めた。
「そのとき、なにか言われたでしょ?」
「うむ……確か……暗黒霊体と戦うために、協力して欲しい、と」
「暗黒霊体? なにそれ?」
ジャンヌとともえは、お互いにきょとんとなった。
「おぬしたちのこと……ではないな。思い出してきたぞ。暗黒霊体というのは、おぬしたちとつるんでいる……よく分からぬが、黒幕のようなものではないのか?」
ともえは自信なさげに、そう解釈した。
ジャンヌは腕組みをすると、椅子にもたれかかった。
「暗黒霊体なんて、聞いたことないわよ」
「な……そんなはずはない。隠し立てするのか?」
「いや、ほんとに知らないから」
ジャンヌは両肩をすくめて、それからワインのボトルに手を伸ばした。
混乱するともえの前で、酒が注がれた。
ジャンヌはそれを一息で飲み干すと、会話を再開した。
「で、その暗黒霊体と戦うのが、あなたの役目なわけ?」
「うむ……否、ニッキー殿は確か……」
ニッキーの名前を口にしたともえは、慌てて口をつぐんだ。
ジャンヌはニヤリと笑って、体を前に乗り出してくる。
「そのニッキーって言うのが、使者の名前なわけね?」
名前ではない。渾名だ。
本名は……忘れてしまっていた。ニコルスかなにかだった気がする。
それとも、もっと長かっただろうか。ともえは、記憶をたどった。
そうこうしている間にも、ジャンヌは先を追った。
「そのニッキーは、エミリアの部下が東京で目撃したのと、同じ奴ね?」
「エミリアの部下? ……話が見えぬ」
「上海に、イケメンの吸血鬼がいたでしょ? 覚えてない?」
簡潔な描写だったが、吸血鬼のことはよく覚えていた。
「マーシャル殿のことか?」
「そう、そのマーシャルのこと」
「マーシャル殿は、ニッキー殿を見たのか?」
「いや、それを訊いてるんだけど?」
話が錯綜してきた。ともえは、ゆっくりと順番に考えた。
「……なるほど、ニッキー殿とマーシャル殿は、どこかで鉢合わせになったのだな」
「ん? その言い方だと、知らないってこと?」
「知らぬ。七王子の公園でジャンヌ殿に助けられて以来、ニッキー殿には一度も会っていないのでな。東京でなにがあったのかについては、拙者が一番情報不足だと推測する」
ともえの正直な答えに、ジャンヌは少しばかりがっかりしたようだ。
他の人質を選べばよかったと思っているのだろうか。ともえは反応を待った。
「ま、別にいいわ。多分、マーシャルが見た宇宙人と、同一でしょうから」
その台詞に、ともえはなにか引っかかるところがあった。
自分の疑念の正体を見極め、ひかえめに話を切り出す。
「ひとつ、質問させていただいても、よいか?」
「どうぞ」
ジャンヌは、右手でゆずるような仕草をした。
「ニッキー殿……夢の国の使者は、宇宙人なのか?」
質問の内容が意外だったのか、ジャンヌはしばらく押し黙った。
そして、こう答えた。
「そうなんじゃないの?」
「証拠は?」
「オーバーテクノロジーだからよ」
なるほどと、ともえは首肯した。
しかし、どこかしら納得のいかないところがあった。
「確かにニッキー殿は、宇宙からやって来たようなことを言っていたが……」
ともえは、語尾を曖昧にした。
「なに? そうでない証拠があるわけ?」
「証拠ではなく……ニッキー殿が宇宙人ならば、どの星から来たのだ? その星には、他にも同じような生命体がいるはず。しかし拙者は、ニッキー殿以外を知らぬ」
ともえの説明に、ジャンヌも同調の色を見せた。
空っぽになったワイングラスをもてあそびながら、虚空を見つめた。
「ようするに、大軍で来ない理由を知りたいわけね?」
「むむ……なんと言ってよいのやら……地球を侵略するわけではないのだから、大軍を率いる必要もないのだろうが……担当者がひとりというのは、奇妙だ。それにニッキー殿は、他にも宇宙警察のようなものがいて、星々を巡回していると言っていたような……」
だんだんと、記憶がもどってきた。てんやわんやの連続で、肝心の出発点を忘れていたことに、ともえは情けない思いをいだいた。すべては、双性者研究と、自称宇宙警察のニッキーから始まっていたのだ。
「宇宙警察ね……おとぎ話だわ」
「おとぎ話というよりは、特撮だな。ゲンキが日曜に見ていたような……」
ともえ自身は、あまり興味がなかったので、詳しい内容は知らなかった。しかし、ゲンキが朝からテレビを独占して興奮していたことだけは、いまだに覚えていた。
「トクサツね……他に情報は?」
ともえは、これが尋問だったことを思い出した。レストランという場違いなシチェーションのせいで、ぺらぺらと喋り過ぎたようだ。
それとも、それがジャンヌの狙いだったのだろうか。
「他にはない」
「ふむ」
ジャンヌはタメ息をつき、それからにっこりと笑った。
「双性者から夢の国の情報を引き出そうと思ったけど……無理みたいね」
「本当に、なにも知らされていないのだ。すべては事の成り行きで……」
「ま、それが事実かどうかは、そのうち分かるでしょう……食事は、もういいの?」
ジャンヌは、皿の上に残ったソテーをチラ見した。
「もうしわけない。拙者には量が多くてな」
「無理しないのが肝心よ。お会計済ませて、そろそろ出ましょうか」
「うむ、馳走になった。感謝いたす」




