第96話 極東の安らぎ
病院の白い壁に木霊する、ふたりの女の声。
ひとつは一気通貫、もうひとつは、いづなのものであった。
「おいッ! なんでこのバカ狐と同室なんだッ!」
「それは、こっちの台詞じゃッ! 病室を分けんかッ!」
ベッドの上に横たわったふたりは、お互いににらみを利かせて、ぐるるとうなっていた。あいだに座る十三不塔は、あきれ気味にタメ息をついた。
「ハァ……人外同士、仲良くしなよ」
結局、いづなは国家第三体育場の戦闘で負傷し、病院送りになった。もっとも、怪我自体は大したこともなく、一週間そこらで退院できるというのが、医者の見立てだった。もし遅れる要素があるとすれば、いづながベッドの上でおとなしくできないという、多分に動物的な習性であろう。
十三不塔は、窓際に座る大蝙蝠に、声をかけた。
「じゃ、ちゃんと見といてね。喧嘩させないように」
「お任せくださいませ」
大蝙蝠は編み物をしながら、にこやかにそう答えた。
十三不塔は病室をあとにして、薬品の香る廊下に出た。行き交う看護士や医者を尻目に、別の病室へと向かった。そこは、廊下の突き当たりにある、個別病棟。白いドアを叩くと、中から返事が聞こえた。
「お邪魔するよ」
ドアノブを回すと、振り返った緑川清美と目が合った。右手にフォークを持ち、その先にはリンゴが刺さっている。
ベッドの上に座っていた蘆屋が、顔を赤らめた。
「し、十三不塔殿、これは……」
「はいはい、お熱いことで……」
十三不塔はそばの椅子を引くと、勝手にそこに腰を下ろした。
目の前では、カップルのやり取りが続く。
「はい、アーンして」
「清美さん……私は手を骨折してるわけでは……」
「いいから、食べさせてあげる」
蘆屋は本当に恥ずかしそうに視線を逸らしたあと、観念して口を開けた。
リンゴ一切れが押し込まれる。
清美は満足そうに微笑むと、十三不塔へ体を向けなおした。
「で、十三不塔くん、なんの用?」
「用ってほどじゃないんだけど……容態は?」
「当分安静だって」
清美の返答に、蘆屋が割り込む。
「それは、この病院の医師の見立て……一向聴殿によれば、一週間程度で退院できるとか」
十三不塔は、軽く首を縦に振った。要するに、凡人の回復力ではないのだ。二日前、病院に担ぎ込まれた蘆屋は、ほとんど危篤状態だと告げられたが、今はピンピンしている。このままいけば、本当に一週間で退院できるかもしれない。
ただそれは、十三不塔にとって、あまり好ましい状態ではなかった。
「退院したら、どうするつもり?」
十三不塔の問いに、清美と蘆屋は、顔を見合わせた。
決めていないのか。そんなはずはない。十三不塔は、答えを待った。
これには清美が代表して、
「日本に帰ろうかな、と思ってる」
と答えた。
「そっか……」
そのほうが、こちらも助かる。十三不塔は、そう言いかけた。
ルシフェルの命令で、王は今日、ヨーロッパへ飛ぶ。ボスの不在中におかしなことをされては、たまらないからだ。四風仙のうち、一気通貫もまだ全快していない。いくら停戦中とは言え、不安が残る展開であった。
十三不塔はさらに、
「それなら朗報があるんだけどさ……」
と言いかけて、間を置いた。
「なに? 朗報って?」
「隠密課のボスは、上海攻勢で戦死したよ」
十三不塔の暴露に、清美たちはふたたび顔を見合わせた。
蘆屋は信じられないといったようすで、
「それは、本当ですか?」
とたずねかえした。
「うん、僕と一向聴お姉ちゃんとムサシお兄ちゃんの、3人掛かりでね」
3人掛かりというところで、蘆屋はようやく納得したらしい。
うつむき加減にくちびるを動かす¥した。
「そうですか……礼を申し上げます」
「いや、別にいいよ。隠密課は僕たちのことも狙ってたみたいだし」
隠密課の課長が黒金ムサシの実父であったことを、十三不塔は隠した。言う必要がないと思っただけではない。そのような関係は、ムサシが自分で清算する問題であり、他人が口出しすることではないと、そう考えたのである。
清美はリンゴの皿をひざのうえに置きながら、
「隠密課は壊滅ってこと?」
とたずねた。
これには蘆屋が、
「組織である以上、幹部が亡くなったくらいでは、壊滅しないよ」
と、いつもの「ですます」調を止めて、清美に語りかけた。
ずいぶんと様になってきたではないか。十三不塔は、そう思った。
清美は、
「じゃあ、日本へ帰るのは、危なくない?」
と、やや不安げな顔になった。
「いや、むしろ好便。隠密課が混乱しているうちに、組織を立て直したい。すでに牛鬼を返して、京都の旧邸にそう伝えてあるから」
蘆屋の決心に、清美はなにも反論しなかった。
十三不塔も、黙って席を立った。
「それじゃ、またあとでね。帰るときはちゃんと……」
「十三不塔殿、清美さんもそろそろ帰りますので、送っていただけませんか?」
蘆屋の唐突な頼みに、十三不塔だけでなく、清美も顔を上げた。
「ボク、まだ帰らないよ?」
「もうすぐ面会時間は終わるし、ひとりで帰るのは、危ない」
蘆屋の説得を受け、清美は不承不承と言った感じで、皿をテーブルの上に置いた。
「それでは十三不塔殿、よろしくお願い致します」
「アジトまでだね」
十三不塔はそう言って、さっさと出口に向かう。
「それじゃ、また明日ね」
「お気をつけて」
十三不塔の背後で、チュッと軽い音がした。
十三不塔は眉を持ち上げ、やれやれと病室をあとにした。
○
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真夏の太陽を浴びながら、清美は十三不塔のあとをついていく。病院からアジトまでは、ほぼ一本道。道順を覚えている清美だが、警察に顔を覚えられている可能性もあった。人民帽を深く被り、うつむき加減に歩き続けた。
そして、もうひとつ、とっておきのカモフラージュもしてある。
「その体、ほんと便利だね」
「そうでもないよ」
性別転換を終えた清美こと清明は、事も無げに、そう答えた。
「ただ、ちょっと女版と似過ぎかな……ムサシお兄ちゃんとトモエお姉ちゃんは、全然別人に見えたけど……」
「それは、しょうがないよ。個体差があるから」
その台詞を最後に、ふたりは路地裏へと曲がった。アジト、もといドヤ街の安宿場に辿り着いた清明は、そこで十三不塔と別れた。
「あんまり、出歩かないようにね」
「ありがとう……お茶でも飲んでく? 冷やしてあるんだ」
清明の申し出に、十三不塔は首を左右に振った。
「ごめん、空港に用事があるから」
「空港? ……出迎えかな?」
「見送りだよ。じゃあね」
だれを見送るのかすら告げず、十三不塔はその場を去った。
清明は宿場の入り口を開け、中に入った。
すると突然、後ろから声を掛けられた。
「あんた、出られたのかい?」
振り返ると、圓が立っていた。
圓は、少し驚いたような顔で、清明を見つめ返してきた。
そして、片方の眉毛を吊り上げた。
「ん……あんた、清美じゃないね……だれ?」
「ボクは、清美の兄だよ。清明って言うんだ」
清明の嘘に、圓は納得顔でうなずき返した。
こういうときは、容姿がそっくりで、逆に助かるという寸法だ。
「双子かい?」
「そうだよ」
「清美は?」
「無事、釈放されたよ」
清明の簡潔な答えに、圓は膝を叩いて、大笑いし始めた。
「ハハッ! だろうね。このへんの警官は、見境なく人を捕まえるから、質が悪いよ。どうせ、読み取り機の故障とか、そんなオチだったんだろ?」
圓の誤った推測に、清明は反論しなかった。
「で、これから、どうするんだい? あんた、清美の家族なんだろ?」
家族。その言葉の響きには、どこか哀愁を誘うものがあった。
清明は改めて、圓の境遇を思い出した。
「日本へ帰るよ」
「妹さんも一緒に?」
清明は、黙ってうなずきかえした。
圓は、少し寂しそうな顔をした。
「そうか……お別れだな……早いもんだ……」
圓は、手近なソファーの肘掛けに腰を下ろし、鼻の下をこすった。
「どこ出身なんだい? 東京? 大阪?」
「太平洋の離島だよ。普通の地図には、載ってないんじゃないかな」
少なくとも、そこらで売っている世界地図には、載っていないだろう。七丈島は、あくまでも小さな人工島である。
「そこに、両親がいるのかい?」
「いや……ボクたちは孤児だよ。両親はいない」
清明の返答に、圓はバツの悪そうな顔をした。
ごまかすような笑いを浮かべる。
「そっか……あたいは、四川に行こうかと思ってるよ」
「四川……? 故郷へ帰るの?」
清明は、圓の祖父が、四川出身であることを思い出した。
けれども圓は、肩をすくめ、清明の発言を否定した。
「故郷ってわけじゃないさ。爺さんがそこに住んでたってだけ。行ったこともなけりゃ、見たことすらないね。爺さんは、あんまり写真が好きじゃなかったし……でも、なんであんたがそのことを知ってんのさ?」
「妹から聞いたんだよ……四川に行く理由は? 北京のほうが、働き易いだろう?」
清明の質問に、圓は口をつぐんだ。
自分でも、答えを量りかねているのだろう。清明は、そう思った。
「さあ、なんなんだろうね……分かんないや。あんたは、その離島に帰るんだろ?」
「いや……京都に行くよ」
「京都? 京都に親類がいるのかい?」
「そういうわけじゃないけど……わけがあって、島にはもどれないんだ」
清明の返事に、圓はふたたび笑った。
爽快な笑みであった。
「なんだい、それじゃ、あたいと一緒だね」
「……そうだね」
清明もなぜか、ほほえみかえした。
「結局、あたいらみたいな根無し草は、ふらふらするしかないのさ。それでいいんだよ」
自分に言い聞かせるように、圓はそうつぶやいた。
根無し草。清明は、ふと思う。自分は、根無し草なのだろうか、と。どこで作られたのかは知らないが、物心ついたときには、七丈島にいた。もしかすると最初から、七丈島の研究所で培養されたのかもしれない。そして、そこで学生生活を送っていたのだ。それがなぜ、突然大地から引き抜かれたように、行く当てがなくなってしまったのか……清明は、不思議に思った。
「あんた、清美に輪をかけておとなしいね。気分でも悪いのかい?」
「いや……ボクは、昔からこうなんだよ。感情の起伏に乏しいんだ」
「はん、計算機みたいなやつだね」
清明は怒りもせず、圓の人物評に同意した。打算的な清美に比べて、清明は私情を排したところがある。無論、ゼロではないのだが、ひどく分析的な性格をしていた。それが、清美と清明を分ける、ほとんど唯一の違いである。
「そう言えば、妹さんの彼氏は、元気にしてるのかい? 見かけないけど」
「彼はちょっと体調不良で、入院してるよ」
「入院? ……病気?」
「さあ、食べ物が合わなかったんじゃないかな。彼が退院したら、日本へ帰るよ」
「妹さんは亭主を尻に引きそうなタイプだし、男同士、かばってやりなよ」
圓の要らぬ気遣いに、清明は内心、苦笑した。
なるほどそうかもしれないと、清美を客観視した。
「そう言えば、清美を介抱してくれた男の人は、まだいるかな?」
清明はこっそりと、ニッキーに話を移した。
ステッキを返して以来、会っていないのである。
「知らないよ。そもそも見かけないね」
「そうか……」
ふたりは、沈黙した。
話題がなくなったのか、圓は肘掛けから飛び降りた。
「清美に伝えといてくれよ。出て行くときは、挨拶くらいしなって」
「……分かったよ。伝えておく」
○
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空港。人の群れ。離陸音。
「それでは、天和、十三不塔、留守をよろしくお願いします」
王の一言に、天和たちは一礼した。
天和は頭を下げながら、
「王様こそ、お気をつけて……監視先は、どのように?」
とたずねた。
「ベルリンに固定してください」
「蘆屋道遥については、よろしいのですか?」
「蘆屋が中国に留まる理由は、もうありません。国家第三体育場は、結局のところ、建築中止になりました。そのうち別の候補地が、名乗りを上げるでしょう」
ここで十三不塔がわりこんだ。
「だね。日本へ帰るって言ってたよ」
王はうなずき返した。
「ルシフェル様との約束通り、停戦は続行。極東情勢は、ひとまず落着ということです。お互いに、ずいぶんと被害を出してしまいましたが……」
振り返ってみれば、七丈島で双性者発見の報を受けたのが、ことの始まりであった。東京、上海、北京へと戦場を移し、最終的には収穫もなく、和議へと至ったこの経緯を、どう評価したものか。王にも、難渋な課題であった。
とはいえ、北京警察と隠密課の共闘は崩れ、こうして悪の平和が訪れている。
天和は、
「北京警察は、動くとお思いですか?」
と用心深くたずねた。王は、ガラス張りの壁から、整備中の飛行機を見やった。
すでに荷物は載せられ、ボーディングタイムを待つばかりであった。
「動かないでしょう。上海での犠牲を見れば、後任が二の足を踏むのは確実。司馬は、名誉欲が強過ぎました。オリンピックが終わるまでは、政府も介入をひかえるはずです」
王の意見に、天和は首を縦にふった。
「わたくしも、そのように考えております。となれば……」
「次にキナ臭いのが、欧州ということになります。エミリアも、ずいぶんと厄介な問題を起こしてくれたものです。ラスプーチンの動向も、気に掛かります」
その調停に向かうのが、王のこれからの仕事であった。ルシフェルに頼まれたこととは言え、あまり気が進まない。ヨーロッパの問題は、ヨーロッパで解決する。それが、従来の掟であった。中国人の王が介入して、果たしてどうなるのか──王は疑問に思う。
ただ、今回の極東紛争のように、もはや悪の組織の縄張りには、ほころびが見え始めていた。ジャンヌは成田空港に現れ、その他の幹部も、上海スタジアムに現れた。王がベルリンに現れる口実は、一応整っていた。あとは、切り出し方の問題であった。
天和は主人の考えを察して、
「クレムリンはドイツに入らず、北海上空へ抜けました。もっとも、単なる待機とも考えられますし、あるいは、イギリスのメアリーと、なんらかの連絡を取っているのやも……いずれにせよ、予断を許さない状況にあります」
と、仔細に報告した。王はタメ息をついた。
「どうも気になります……」
「なにが、でございますか?」
「七丈島から上海攻勢、北京騒乱に至るまでの経緯……出来過ぎな気がします」
天和は一瞬、主の意図を汲み取れなかったのか、視線を宙に逸らした。
しかしすぐに察して、
「何者かが、裏で糸を引いているとお考えで?」
と問うた。
「そこまでは言いません。それにしては、行き当たりばったりも多い……けれども、すべてが終わった今、蘆屋道遥は負傷、一気通貫もやられ、日中どちらの組織も立て直しを迫られています。これを、どのように考えれば良いのでしょうか?」
十三不塔は「ふーん」と言ってから、
「ようするに……だれが一番得をしたのか、ってことだよね?」
とたずねた。
「その通りです。今回の騒動で、誰が一番得をしたのか……」
王の意味深なつぶやきに、天和が眼を光らせた。
「夢の国……でございますか?」
王は曖昧に首を振る。
「夢の国が一番得をしたのは、事実でしょうね」
「しかし、隠密課と北京警察も、大きな損失を受けています。夢の国の目的が、我々組織の壊滅にあるならば、失敗と言わざるをえないのではありませんか? 緑川清美も、蘆屋道遥と恋仲になってしまいました。これも、夢の国にとっては、想定外のはず……」
「ではなぜ、夢の国の使者は、緑川清美をあっさりと手放したのですか? 夢の国の使者、そう、あのニッキーとか言う輩は、確かに双性者を取り返したのですよ。わたくしと蘆屋道遥の手から……なぜそれを、一夜にしてリリースしたのか……」
王の問いに、答える者はなかった。
王自身も、その答えを知らないでいた。緑川清美は、決して役立たずではない。陰陽師と魔法少女を兼ね備える人物など、そうそう見つからないだろう。その戦力を切り捨てたとなれば、よほどの理由があるに違いないと、王はそう睨んでいた。
十三不塔はこの場の空気に合わないややおどけた調子で、
「なにかが起きてる感じだね」
と言った。
「そのなにかを突き止めるのが、ルシフェル様との契約を履行する、第一歩になるでしょう。天和、十三不塔、引き続き調査をお願いします」
「かしこまりました」
「了解」
そのとき、ボーディングのアナウンスが始まった。
搭乗口へは、長い行列ができている。
王はパスポートを取り出しつつ、その手で別れの挨拶を示した。
「再会、くれぐれも、留守を頼みましたよ」
【第6章 北京騒乱編 完】




