第92話 休戦協定
ベッドに横たわり、額に濡れタオルをあてた人狐、いづな。彼女は、うーうーと大げさな呻き声を上げながら、この世の終わりのような顔をしていた。
隣に立つ蘆屋に振り向きもせず、苦しそうな声をあげた。
「うー……もうダメなのじゃ……清美様の身になにかあっては……」
蘆屋は、
「清美さんは、ご無事だと思います」
と、安心させるような言葉をかけた。
それまで寝込んでいたいづなは、ガバリと起き上がり、拳を振り上げた。
「無責任なことを言うでないッ! そもそも、おぬしが……」
「清美さんを誘拐されたことについては、謝罪致します。しかし、相手は王殿」
「だからこそ、清美様の身になにかあっては……」
「だからこそ、安全だと言いきれるのです。王殿の作戦は、おそらく人質。それを安易に殺害するほど、王殿も耄碌なさっていません」
なぜ断言できるのか、いづなには分からなかった。スタジアムはすでに崩壊して、人質の価値はなくなっているのだ。あっさり清美を殺そうとしても、不思議ではなかった。
幹部同士ということで、信頼が厚いのだろうか。
いずれにせよ、主人は自分が助ける。いづなは、そう心に決めた。
「ならば、清美様のいどころが、分かると申すのか?」
「残念ながら……それは……」
ほら見ろ。やはり頼りにならない。いづなは、鼻でせせら笑った。
「では、いづな殿は分かると?」
「うぐッ……」
いづなは耳をしょんぼりと折りたたみ、俯き加減に答えた。
「……分からぬ」
いづなの返答に、蘆屋は中立的なタメ息をついた。
あきれたのでも怒ったのでもなく、ただ呼吸を整えただけのようだ。
「参りましたね……かなりの遠距離に運ばれたのか、それとも、結界のようなもので、気の流れを断たれているのか……捜索が難しくなりました」
「呑気なことを言っている場合では、なかろう。すぐ捜しに行かねば」
ベッドから飛び降りようとしたいづなを、蘆屋が制した。
「お待ちください……怪我は大丈夫なのですか?」
「舐めてもらっては困る。いづなは、安倍清明様の式神、これしきのことで身動きが取れなくなったりはせぬ。そもそも、軽くころんだだけなのだからな」
蘆屋の冷たい目線が、いづなの胸を突き刺した。
「はて……私が駆けつけたときは、壁の下敷きになりかけて……」
「えーい、うるさいッ! あれしきの壁、いづなだけでも避けれたわッ! それより、清美様を捜しに行くのか、行かぬのか?」
いづなは拳を解き、右手を水平方向を勢いよく振った。
蘆屋は憎たらしいほど冷静に、言葉を返してきた。
「北京市内で少女をひとり捜すなど、大海に針を求めるようなものです」
「そんなことは分かっておるッ! じゃが、他に方法がなかろうッ!」
「いえ……あります」
いづなは、きょとんとなる。いぶかし気に、蘆屋の顔を見つめた。
「……それは、なんじゃ?」
「王殿からの連絡を待つのです」
「王からの……? どういうことじゃ? きちんと説明せんか」
「言葉通りです。王殿が人質作戦を選んだ以上、私たちに連絡を取らねば、あちら側としても打つ手がありません。交渉に使わない人質は、意味がありませんので」
だからこそ、危ないのではないか。いづなは、そう思った。
しかし、他に手がないこともまた、事実であった。妙案が浮かばないのだ。
いづなは爪を立て、それを自分の手の平に食い込ませた。
「ぐぅ……そうするしかないのか……」
「王殿とて、安倍清明をいつまでも監禁できるほど、人手は足りていないでしょう。すぐに連絡を取ってくるはずです。それまでは……」
そのときだった。備え付けの電話が、音を立てて鳴り始めた。
いづなは、蘆屋の了解も取らずに、受話器に飛びついた。
通話口を獣耳に押し当てて、威嚇気味に相手を確認した。
「もしもしッ!?」
《その声は……蘆屋様ではないのですね。蘆屋様に代わっていただけますか?》
落ち着き払った男の声が、いづなの神経を逆撫でした。
「おぬしはだれじゃ? 名を名乗れ」
《わたくしは、天和と申します……声で思い出しましたが、あなたは上海のアジトでお会いした、いづな様ですね。お久しぶりです》
「くだらぬ前口上は要らぬ。用件を言え、用件を」
《蘆屋様に代わってください》
天和は、まるで蘆屋の在室が分かっているかのように、強く頼んで来た。
それとも、本当に分かっているのだろうか。天和の能力を知らないいづなには、事情が飲み込めなかった。
いづなが戸惑っていると、蘆屋が背後から、受話器を引き抜いた。
抗議するいづなの前で、ハンズフリーのボタンを押した。
「もしもし、代わりました。蘆屋道遥です」
《狐にも、会話を聞かせるのですか……まあ、良いでしょう》
盗み見られている。
いづなは、監視カメラがないかどうか、室内を一瞥した。
だが、それらしきものは、どこにも見当たらなかった。
ごちゃごちゃと家具をひっくり返すいづなをよそに、会話は続いた。
「天和殿が、私になんの御用ですか?」
「人質の件に決まっておるッ!」
ベッドの下をのぞき込みながら、いづなはそう吠えた。
ところが電話機からは、別の答えが返ってきた。
《人質は、すでに第三者の手に渡りました》
いづなはしっぽをピンと立て、四つん這いの状態でふりかえった。
蘆屋も多少、動揺しているように見えた。
「……詳しい説明をお願い致します」
《昨晩、国家体育場に、夢の国の使者が現れました》
「それは、十三不塔殿の変装……」
《ではないのです……本物が現れました》
いづなは無意識のうちにひざを上げ、蘆屋のそばに寄り添っていた。
意味もなく、通話口に耳を澄ませた。
「本物が? ……本物の使者が、昨晩スタジアムに来ていた、と?」
《そうなのです。おかげでわたくしたちも、まんまと騙されてしまいました。十三不塔が変装した夜に、本物が現れるとは、予期しなかったもので……》
「ということは、清美さん……いや、清美殿は、夢の国の使者の手に落ちたと?」
蘆屋の声は、かすかに震えていた。
《『落ちた』というよりは、『戻った』という方が、正しいかと。もともと、緑川清美を魔法少女に仕立て上げたのは、夢の国の使者です。使者としても、誘拐ではなく、救援に駆けつけたものと思われます》
そうだ、その通りだ。
いづなはガッツポーズをかました。
このまま部屋を抜け出して、主人と合流すれば、なにもかも元通りだ。
いづなが忍び足で後退し始めたとき、蘆屋の鋭い目が光った。
「いづな殿は、そこに留まってください」
ふざけるな。いづなは心の中でそう叫び、窓に向かって跳躍した。
ところがその背中に、強烈な痛みが走った。
飛距離の足りなかった彼女の体は、そのままベッドへと突っ込んだ。まだ行ける。いづながもう一度、脚に力をこめたところで、彼女は異変に気が付いた。
手足が動かないのだ。見れば、靄のようななにかが、彼女の体をぐるぐる巻きにしていた。それが束縛の術と分かるまで、数秒とは掛からなかった。
「えーいッ! この術を解かぬかッ!」
「七王子で苦戦したからと言って、いづな殿、あなたは私を、少々見くびり過ぎです。蘆屋家の長者に、式神一匹が楯突く行為、愚かとご理解ください」
「黙れ、黙れ、黙れッ! おぬしに指図される謂れはないッ!」
もがくいづなをよそに、蘆屋は会話を続けた。
「失礼致しました……して、王殿のご意見は?」
《休戦を申し出たい、と》
「なるほど……ルシフェル様との契約上も、そうせざるをえませんか」
《それもありますが、昨晩の第三国家体育場崩落により、警察と軍が動いています。悪の組織同士で争っている暇がないとのご判断。清算は、すべてが終わったあとに願います》
「……分かりました。こちらとしても、スタジアムを破壊しようとしたのは事実。お互いに休戦と致しましょう。ところで……王殿は、清美殿を奪還するおつもりですか?」
蘆屋の問いに、天和はしばらくのあいだ、口をつぐんだ。
王と連絡を取っているのだろうか。ありうる。
脱出不能と悟ったいづなは、おとなしく聞き耳を立てていた。
《……いえ、王殿は、安倍清明に、もはやご関心がないようです》
「左様ですか……では、私ひとりでなんとかします」
「いづなもおるぞッ!
《お待ちください……夢の国の使者に、歯向かわれるのですか?》
「天和殿ともあろう御方が、奇異なことを……それが、古の契約事項では?」
《失礼致しました。言葉の選び間違いです。今ここで、夢の国の使者と戦われるのですか? そのような指示は、裏バチカンからも届いておりません。それに、他の幹部とも、調整を図る必要が……》
「ご協力いただけないなら、申し訳ございませんが、ここまでにしとうございます」
蘆屋はそう言って、受話器を置いた。
異様な闘気が、少年の体から発せられていることに、いづなは気付いていた。
「き、清美様を、どうするつもりじゃ?」
「夢の国の使者から取り返します」
「取り返すじゃと? おぬし、正気か? 清美様は、夢の国に選ばれた御方。元の鞘に戻っただけではないか。なぜ事態を拗らせる?」
犬歯を剥き出しにするいづなに、蘆屋は冷ややかな、それでいて熱いまなざしを返した。その瞳に宿った感情を、いづなはしかと感じ取り、表情を崩した。
「おぬし……清美様のことを……そこまで……」
「無駄口は、ここまでと致しましょう。相手が夢の国の使者となれば、こちらには連絡を取らぬはず。街に出て、情報収集せざるをえません。それでは……」
蘆屋はそう言い残して、部屋を出て行った。
猛烈に吠え掛かったいづなの前で、扉がしまった。
手足を縛られたいづなは、遠離る足音に、黙って耳を澄ませるしかなかった。
○
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.
牛鬼は待っていた。
だれもいない裏路地で、ゴミ箱の上に座り、じっと息を潜めていた。
遠く見える通りの光が、どこか神秘的に思えてくる。牛鬼は、その真っ赤な目で、大蝙蝠の帰りを待っていた。
……来た。人民服に着替えた大蝙蝠が、路地に駆け込んで来るのが見えた。
「おい、どうだった?」
まだ数メートル離れたところから、牛鬼は声をかけた。
よほど急いで戻ったのか、大蝙蝠は息を切らしていた。
「ハァ……みなさん……ハァ……北京へ……」
「北京だと? ……北京へ移動したと言うのか?」
大蝙蝠は、ひざに両手を突き、ただうなずくばかりだった。
牛鬼は、その鼻から蒸れた息を吐き出し、首をひねった。
「ふむ……こんなことなら、北京行きの船に乗れば良かったな」
牛鬼は、大蝙蝠の呼吸が整うのを待った。
あまり急かしても、仕方のない状況である。
それに、主たちの行き先は分かったのだ。焦る必要もない。
大蝙蝠の息切れがやみ、ふたりは今後の計画を練り始めた。
「上海には、だれも残ってないのか?」
「天和様が、留守をお預かりだそうで……」
「てんほー? ……ああ、王の右腕か」
牛鬼はどこかで、王にそんな名前の配下がいることを、耳にしていた。
なんでも、ブレイン役を務めているらしい。老亀のような存在だろう。牛鬼は勝手に、ふたりを関連づけた。
「牛鬼さん、ここは中国なのですから、呼び捨ては禁物です」
「ふん、そんなのはオレの勝手だ……で、どうする? 北京へ行くか?」
牛鬼がたずねると、大蝙蝠は困ったような顔を浮かべた。
そして、こう答えた。
「私は、どちらでもいいのですが……アジトはここにもありますし。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「私の直轄の上司は一向聴様なので、そちらのほうが、都合がいいかもしれません。それに、上海は、警察に襲撃されて以来、若干混乱しているようですし」
行き場がないわけか。牛鬼は、そう解釈した。
悪の集団と言えども、組織は組織。単独行動は、なかなかできないのだ。牛鬼も、そのことは身に沁みて分かっていた。
「北京までは陸路だ。また空間移動で行ける……俺の肩に乗れ」
さすがに双性者から作られた怪人だけあってか、大蝙蝠は片足で飛翔すると、そのまま牛鬼の肩に乗った。
「よし、行くぞ」
牛鬼は指の骨を鳴らし、その姿を闇へと溶け込ませた。
○
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「司馬くん、これは、どういうことなのかね?」
怪しい輝きを放つ、黒檀の事務机。
同じく黒革の椅子に腰掛けた男が、重々しい声で、そうたずねた。
目の前に立つ司馬は、苦々しい表情を押し隠し、くちびるを動かした。
「昨晩、何者かが第三国家体育場へ侵入し、火薬庫を……」
「その報告は、もう聞いたよ。ワシが尋ねているのはね、なぜ体育場へ侵入され、さらに火薬庫の引火程度で、建物が崩壊せねばならぬのか、ということだ。現場検証によれば、火薬の量自体は、大したことがなかったらしいではないか」
そんなことは、自分でも分かっているだろう。司馬内心、そう毒づいた。
要するに、請け負い業者がピンハネを繰り返し、手抜き工事を行わせていたのが、今回の崩落事件の真相である。そのことは、警視総監の司馬には、とっくに情報が届いていた。そして、目の前の男にも、届いているはずなのだ。
しかし司馬は、そう答える代わりに、別の答えを返した。
「現在、調査中です」
司馬の返答に、相手は納得がいかぬような溜め息を漏らした。
これも演技に違いないと、司馬は口を閉ざした。
案の定、男の方から、話題を変えてきた。
「で、北京市内の警備は、きちんと強化したのかね?」
「万全の態勢です」
「その言葉、1ヶ月前にも聞いた気がするが……まあ、いい。中央本部は、今回の件をテロと認定した。きみも、聞いているだろうがね。もし犯人が捕まらないならば、IOCの方から、辞退勧告がくるやもしれぬ……ワシ自身は、その可能性は低いと思っておるが、観光収入などに影響が出るのは、間違いないのだよ。分かるかね?」
「それは、十分に承知しております。ですから、軍隊も……」
「軍は信用ならん」
ややきつめな調子で、男は司馬の言葉をさえぎった。
大方、出世の関連で、軍の上層部と揉めているのだろう。司馬は、そう推測した。
司馬が慎重に黙っていると、男は両ひじを事務机に突き、そこにあごを乗せた。
「いいかね、今回の件は、なんとしてでも、警察の手で処理するのだ。軍に先を越されてはならん。さもないと今後、テロリスト対策の権限は、軍へ移ることになる。それは、きみにも不本意だろう? ……答えなくてもよい。分かったら、至急対策を講じたまえ。以上だ」
男は椅子を回し、右手の窓から見える北京市の風景へと、顔をそむけた。
司馬は一礼すると、そのまま部屋をあとにする。
出るときに掛けられた秘書の挨拶も無視して、廊下に出た。
「豚のような連中が……」
司馬はそうつぶやくと、絨毯の上を歩きながら、策を練った。彼とて、テロリスト集団を放置する気など、さらさらないのだ。王の一味が主犯だと、そうにらんでいた。上海攻勢の失敗もあって、ポストが危うくなっていることも、重々承知であった。
ここは、なにかでかい手柄が必要だ。王の首か、あるいは──
司馬はエレベーターに乗り込み、ひとり静かに、自分の将来を案じていた。




