表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

89/178

第88話 立小便

 深夜。月明かりの中で、清美きよみはしげみから顔をのぞかせた。

「だれもいないよ」

 さすがに観光客が出歩く時間ではなかった。

 けれども、となりにいた蘆屋(あしや)は、闇の中で怪訝そうな顔をした。

「警備員も?」

「警備員は……」

 清美は首を伸ばし、ぎりぎりの角度で、3つの人影を認めた。

「いるね。門の前にひとりと……巡回がふたり」

「昼間見たときは、もっと多かったように思いますが……」

 蘆屋の独り言をよそに、清美はしげみの中へと引っ込んだ。

 夜の公園にふたりきりというシチェーションが、ひどく扇情的に思えてくる。

 七丈島(しちじょうじま)なら、間違いなく補導される時間帯だ。いくら規律が緩いとは言え、門限はあった。時計は、2時を回ろうとしていた。

「どうする? あの3人をなんとかすれば、壊せちゃうんじゃない?」

 楽観視する清美だが、蘆屋はその端正な顔付きを崩さなかった。

「表にいるのが3人、というだけのこと。それに、工事が突然中断されているのは、合点がいかない……罠なのでは……」

 罠。その言葉に、清美もゆるんでいた表情を引き締めた。

「罠? だれの?」

「北京警察か、それとも(わん)殿が勘付いたのか……」

「ありうるなら、警察じゃない? 王さんが気付いたら、先に忠告がくるでしょ?」

「王殿は、そのような甘い人ではない」

 なんだそれは。清美は、目を白黒させた。

 いきなり実力行使に出るタイプなのだろうか。

 清美が疑問に思う中、蘆屋はひざを上げた。

「私が様子を見て来る」

「ダメだよ」

 清美も芝生から腰を上げ、蘆屋のそでを引いた。

「ボクも行くよ」

「清美さんは、ここで待機して欲しい。なにかあった場合は……」

「ダメだって。そういうのは死亡フラグだから」

「しぼうふらぐ……?」

 なるほど、日常的に使われている単語でもダメなのか。

 清美は言いなおした。

「単独行動は危険って意味だよ。だいたい、ボクがここで待機してても、意味ないでしょ」

「伝心の術で、連絡は取り合える。私から緊急信号が入ったときは、すぐ……」

「その段階じゃ、もう手遅れでしょ?」

 清美は怒ったように、両手を腰にあてて、蘆屋をにらんだ。

 蘆屋は軽く視線を逸らし、スタジアムへとそれを伸ばした。

「私は……清美さんを巻き込みたくない」

「まだそんなこと言ってるの? いい加減に、腹をくくりなよ」

 蘆屋の優しさが、疎ましいわけではなかった。むしろ、本当に自分を道具ではなく、ひとりの伴侶としてみてくれていることに、悦びすら感じた。

 しかし、必要以上の気遣いは、かえって迷惑であった。蘆屋が清美を想っているように、いや、それ以上に、清美は蘆屋のことを想っていた。蘆屋だけが身の危険を引き受けるのは、納得がいかなかった。

 清美の勢いに押されたのか、蘆屋も小さくうなずき返した。

「分かった……危険な真似は、しないで欲しい」

「それは、こっちの台詞だよ」

 ふたりはお互いの瞳を見つめ合い、それから口づけをした。

 これが最後のキスにならないよう、清美は心の底から願った。

「で、今から壊すの?」

「できれば……ただ、破壊するポイントがつかめていない。それに、内部の警備がゼロとも思えぬ。まずは、その連中を追い出さねば……」

 あくまでも、犠牲者は出さないつもりらしい。

 だがそれは、スタジアムの破壊を、非常に困難なものにしていた。

 清美は、

「とりあえず、警備員のひとりを締め上げて、罠かどうか調べない?」

 と提案した。

「……そうするか」

 ふたりは茂みの中を移動し、スタジアムに最も近いベンチの背後へと回った。

 そこで息を殺していると、巡回の警備員がひとり、前を通りかかった。

 蘆屋はわざと音を立て、警備員の気を引いた。

「おい、そこに誰かいるのか?」

 警備員は腰の銃に手をかけ、茂みに向かって問うた。

 ふたりは打ち合わせ通り、両手を挙げて立ち上がった。

 相手が少年少女であることに気付いた警備員は、眉をひそめ、それから苦笑した。

「ここはラブホじゃねぇんだ。ヤルなら、おうちに帰ってから……うッ」

 蘆屋と目を合わせた警備員の男は、額を押さえ、その場に崩れた。

 男が地面に突っ伏す前に、しげみから飛び出した清美が、その上半身をかかえた。

「どうするの?」

「しげみの中へ」

 清美と蘆屋は協力して、男をしげみの後ろへと引きずり込んだ。

 男は酒にでも酔ったような顔で、ぼんやりと虚空を見つめていた。

 清美は、

「なにかしたの?」

 とたずねた。

「簡単な幻術です……では、私の質問に答えてもらいましょうか」

 蘆屋が問うと、男はこくりと、首を縦にふった。

「スタジアムに従業員がいない理由は?」

「定期……メンテ……」

「めんて?」

 清美は、

「工事の出来具合を確認してるんだよ、きっと」

 と説明を加えた。

 蘆屋は先を続けた。

「その……メンテの作業員は、どこに?」

「知らん……俺がシフトに入ったときは……もう……いなかった……」

 男の無責任な回答に、清美たちは顔を見合わせた。

「清美さん、その……メンテというのは、短時間で終わるのですか?」

「わ、分かんない」

 工事現場の監督など、一度も関わったことがない。

 清美には、見当がつきかねた。

 蘆屋は険しい顔をして、

「まずいな……本当に罠かもしれない……」

 とつぶやいてから、質問を続けた。

「警備状況は?」

「いつも……通り……」

「いつも通り? 昼間よりも、遥かに少ないではないか?」

「夜は……内部の警備を……重点的に……」

「それならば、内部はいつも通りなのだな?」

「別の警備会社だから……知らん……」

 なんと言うことだ。

 清美はタメ息をつき、夜空をあおいだ。

 蘆屋も相手の知識のなさに気付き、男を芝生の上へと寝かせた。

 清美は、

「どうする?」

 とたずねた。今夜は様子見で帰宅を──その部分は飲み込んだ。

 蘆屋はじっと俯いたままだった。

 考えを巡らせているのだろう。清美は、相手の反応を待った。

「……少しだけ、のぞいてみよう」

「破壊は?」

「それは危険だ……もしこれが罠でないなら、チャンスはまたある。次のメンテの時期を待てばよいだけのこと。逆に罠ならば、深入りは禁物」

 なるほど、合理的だ。

 要するに、本当に定期メンテなるものが存在するのか、それを調べればいい。そのためには、スタジアムの最奥まで潜り込む必要はなかった。中をちらりと偵察すれば、それで十分である。

「じゃあ、そのへんの裏口から入ろ」

 清美たちは茂みを出ると、左右を確認し、手近な非常口へと足を向けた。

 

  ○

   。

    .


「おい、蘆屋(あしや)道遥(みちはる)は、まだ現れないのか?」

「見りゃ分かるアル」

 一向聴(いーしゃんてん)は腕枕をし、鉄骨に寝そべったまま、そう答えた。

 下で待機している一気通貫(いっきつうかん)は、獣のうなり声を漏らした。

「もう3時間以上待ってるぞ」

「時間制じゃないヨ。安倍清明たちが現れるまで、待つのが仕事アル」

 正直なところ、一向聴も疲れていた。待つことだけにではない。相手が蘆屋の長者という大物ぶりに、神経がやられそうなのだ。プレッシャーが凄まじい。スポーツなら、負けてもいいやという気分になれるが、今回は違う。命が懸かっているのだから。

 逃げ出したい気持ちをこらえる一向聴とは対照的に、一気通貫は意気揚々であった。

「ワッハッハ、蘆屋を倒せば、一躍有名人だぞ」

「おまえとは今日で、お別れな気がしてくるネ……」

「ん? なんか言ったか?」

「なにも言ってないアル……」

 ホラー映画で最初に死ぬのは、陽気なキャラと相場が決まっている。

 一向聴は、割と本気で、一気通貫のことが心配になってきた。

「ところで、作戦をまだ立ててないが、どうするんだ?」

「それはさっき言ったヨ。ちょっかい出したあと、逃げ回るアル」

「そんなの作戦とは言わんだろ。もっと詳しく話せ」

「蘆屋相手に綿密な作戦を立てたって、術一発でおじゃんネ。意味ないアル」

 10分だ。10分足止めすればいい。

 王にそう命令されたのだから、賭けに出る必要などない。一向聴が選んだのは、がむしゃらに逃げ回り、その間に王が安倍(あべ)清明(せいめい)を誘拐するという、至極単純なプランであった。

「もう、来ないんじゃないのか?」

「それなら、天和(てんほー)から連絡が入ってるはずアル。千里眼で監視して……」

 そのときだった。遠くのほうで、なにか金属のぶつかる音がした。

 ふたりは会話を止め、臨戦態勢に入った。一向聴は曲芸的に飛び起きて、鉄骨の上でバランスを取った。一気通貫は、あらかじめ用意しておいた荷物の山に隠れた。

「一気通貫、目が光ってるアル」

「生理現象だ」

「なんとかするヨ」

 少しきつめに言ったのが功を奏したのか、一気通貫の眼光は消えた。

 両目を手でおおったとか、その程度のトリックだろう。

 一向聴の意識はすぐに、通路の奥へと向けられた。コンクリート打ちっぱなしの廊下が、闇の奥へと、どこまでも続いていた。天井の豆電球だけが、ぽつぽつと魚の背骨のように、小さく輝いていた。

 ふたりは息を殺し、耳をそばだてた。

「……」

「……」

 聞こえる。かすかな足音が、こちらに近付いて来ていた。

 数は……ひとつ。蘆屋道遥か、安倍清明か。いずれにせよ、単独行動なのは、一向聴たちにとって幸いであった。ふたりそろっている場合は、まず引き離さないといけないからだ。

「……」

 口がカラカラになる。生唾を飲み込もうとしても、出ない有様であった。

 それほどの場の緊張感が、若い男の声によってやぶられた。

「うぅ……トイレは済ませてくるべきだったか……」

 蘆屋だ。一向聴は身をかがめ、小さな体をますます小さくした。

 本命が来たという安堵と同時に、手足が震え始めた。

 一向聴は、見えるか見えないかギリギリの位置で、通路を見すえた。すると、ようやく闇の向こう側から、白地のワイシャツと黒いズボンを履いた少年が現れた。

 少年は辺りを見回す。なにかを探しているようだ。

「ここでよいか……」

 なんだ。いきなりスタジアムを破壊しようとしているのか。

 一向聴は焦りつつも、じっとこらえた。ここは、スタジアムの中央部ではない。ダイナマイトを仕掛けられたところで、崩落はしないだろう。

 ほとんど呼吸を止めた一向聴の前で、蘆屋は壁際によると、ズボンをまさぐり始めた。

 自分の眼を疑う一向聴。じょろじょろと、小水の音が聞こえてくる。

 一瞬混乱した彼女だが、このチャンスを見逃さなかった。

「一気通貫ッ! 今ヨ!」

「ワオーンッ!」

 不要な咆哮を上げて、一気通貫が荷物の山を崩し、襲いかかった。

 一向聴もそれに続き、蘆屋の背中に膝蹴りを入れた。

 勝てるんじゃないか。そう思った一向聴の視界に、ボンと白い煙が舞った。

「わ、罠アルかッ!?」

「蘆屋ッ! おとなしくしろッ! この一気通貫様が、こてんぱんに……」

 どたばたと、格闘し合う音。ようやく煙が晴れ、一向聴は自分の生死を確認した。

 命は……あるようだ。毒ガスの類いではなかったらしい。

 ホッとした彼女が顔を上げると、そこには──

「い、いづなッ!」

 ふさふさとしたしっぽを一気通貫につかまれ、宙づりになった狐女の姿があった。

 いづなは犬歯を剥き出しにして、ばたばたと手足を動かしていた。

「放せッ! マヌケ狼ッ!」

 一方、一気通貫は、ぼかんと口を開け、獲物を見つめていた。

「な、なんでバカ狐がここに……」

「バカ狐ではないッ! 狐火のいづなだッ!」

 睨みつけるいづなを無視して、一気通貫は、同僚へと向きなおった。

「おいッ! 一向聴ッ! これはどういうことだッ!」

「こ、こっちが聞きたいアル……」

「放せッ! いづなの高貴な尾にさわるなッ!」

「ワオーンッ! 狐の汚い小便が、手についてしまったぞッ!」

 怒声と罵声が響き合う中、突然、軽快なメロディが鳴った。

 それが自分の携帯であることに気付いた一向聴は、ポケットに手を伸ばした。

 マナーモードにし忘れたことを後悔しつつ、通話ボタンを押した。

「も、もしもし、一向聴アル」

《もしもし、天和です。さきほど、蘆屋たちがスタジアムに入りました。そちらではなく、選手控え室の方へ移動しています。至急、対応してください。では》

 用件だけ伝えて、電話は切れてしまった。

 上海からのナビゲーション情報。一向聴は、一気通貫に声をかけた。

「本物が現れたネッ! E1方面へ移動中ヨ!」

「E1ってどこだ?」

 見取り図くらい覚えておけ。

 一向聴は半ば怒りながら、いづなをゆびさした。

「とにかく、そいつをふん縛るネ!」

「縛らんでもいいだろ。顔面に一発お見舞いして、気絶させれば……熱ッ!?」

 一気通貫は絶叫して、右手をはなした。

 いづなはサッと地面に着地し、ぴょんぴょんとその場を離れた。

 だが、逃げ出す気はないらしい。数メートル先で振り返ると、両腕をかまえた。

「な、なんで逃がすアルかッ!?」

「手を……火傷したぞ……」

 うめく一気通貫に、一向聴は視線を向けた。

 手の平から、煙が立っている。

 どういうことだ。一向聴が混乱していると、視界が急に明るくなり始めた。

「なッ!?」

 いづなを中心に、青白い炎の群れが広がり始めていた。

「は、発火能力持ちアルかッ!?」

 聞いていない。一向聴は、そう叫びたくなった。

「清美様のご命令で、今まで我慢してやったが、今日という今日は許さんッ! 乙女の恥ずかしい姿を見た罪、百倍返しにしてくれようぞッ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=454038494&size=88
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ