第88話 立小便
深夜。月明かりの中で、清美はしげみから顔をのぞかせた。
「だれもいないよ」
さすがに観光客が出歩く時間ではなかった。
けれども、となりにいた蘆屋は、闇の中で怪訝そうな顔をした。
「警備員も?」
「警備員は……」
清美は首を伸ばし、ぎりぎりの角度で、3つの人影を認めた。
「いるね。門の前にひとりと……巡回がふたり」
「昼間見たときは、もっと多かったように思いますが……」
蘆屋の独り言をよそに、清美はしげみの中へと引っ込んだ。
夜の公園にふたりきりというシチェーションが、ひどく扇情的に思えてくる。
七丈島なら、間違いなく補導される時間帯だ。いくら規律が緩いとは言え、門限はあった。時計は、2時を回ろうとしていた。
「どうする? あの3人をなんとかすれば、壊せちゃうんじゃない?」
楽観視する清美だが、蘆屋はその端正な顔付きを崩さなかった。
「表にいるのが3人、というだけのこと。それに、工事が突然中断されているのは、合点がいかない……罠なのでは……」
罠。その言葉に、清美もゆるんでいた表情を引き締めた。
「罠? だれの?」
「北京警察か、それとも王殿が勘付いたのか……」
「ありうるなら、警察じゃない? 王さんが気付いたら、先に忠告がくるでしょ?」
「王殿は、そのような甘い人ではない」
なんだそれは。清美は、目を白黒させた。
いきなり実力行使に出るタイプなのだろうか。
清美が疑問に思う中、蘆屋はひざを上げた。
「私が様子を見て来る」
「ダメだよ」
清美も芝生から腰を上げ、蘆屋のそでを引いた。
「ボクも行くよ」
「清美さんは、ここで待機して欲しい。なにかあった場合は……」
「ダメだって。そういうのは死亡フラグだから」
「しぼうふらぐ……?」
なるほど、日常的に使われている単語でもダメなのか。
清美は言いなおした。
「単独行動は危険って意味だよ。だいたい、ボクがここで待機してても、意味ないでしょ」
「伝心の術で、連絡は取り合える。私から緊急信号が入ったときは、すぐ……」
「その段階じゃ、もう手遅れでしょ?」
清美は怒ったように、両手を腰にあてて、蘆屋をにらんだ。
蘆屋は軽く視線を逸らし、スタジアムへとそれを伸ばした。
「私は……清美さんを巻き込みたくない」
「まだそんなこと言ってるの? いい加減に、腹をくくりなよ」
蘆屋の優しさが、疎ましいわけではなかった。むしろ、本当に自分を道具ではなく、ひとりの伴侶としてみてくれていることに、悦びすら感じた。
しかし、必要以上の気遣いは、かえって迷惑であった。蘆屋が清美を想っているように、いや、それ以上に、清美は蘆屋のことを想っていた。蘆屋だけが身の危険を引き受けるのは、納得がいかなかった。
清美の勢いに押されたのか、蘆屋も小さくうなずき返した。
「分かった……危険な真似は、しないで欲しい」
「それは、こっちの台詞だよ」
ふたりはお互いの瞳を見つめ合い、それから口づけをした。
これが最後のキスにならないよう、清美は心の底から願った。
「で、今から壊すの?」
「できれば……ただ、破壊するポイントがつかめていない。それに、内部の警備がゼロとも思えぬ。まずは、その連中を追い出さねば……」
あくまでも、犠牲者は出さないつもりらしい。
だがそれは、スタジアムの破壊を、非常に困難なものにしていた。
清美は、
「とりあえず、警備員のひとりを締め上げて、罠かどうか調べない?」
と提案した。
「……そうするか」
ふたりは茂みの中を移動し、スタジアムに最も近いベンチの背後へと回った。
そこで息を殺していると、巡回の警備員がひとり、前を通りかかった。
蘆屋はわざと音を立て、警備員の気を引いた。
「おい、そこに誰かいるのか?」
警備員は腰の銃に手をかけ、茂みに向かって問うた。
ふたりは打ち合わせ通り、両手を挙げて立ち上がった。
相手が少年少女であることに気付いた警備員は、眉をひそめ、それから苦笑した。
「ここはラブホじゃねぇんだ。ヤルなら、おうちに帰ってから……うッ」
蘆屋と目を合わせた警備員の男は、額を押さえ、その場に崩れた。
男が地面に突っ伏す前に、しげみから飛び出した清美が、その上半身をかかえた。
「どうするの?」
「しげみの中へ」
清美と蘆屋は協力して、男をしげみの後ろへと引きずり込んだ。
男は酒にでも酔ったような顔で、ぼんやりと虚空を見つめていた。
清美は、
「なにかしたの?」
とたずねた。
「簡単な幻術です……では、私の質問に答えてもらいましょうか」
蘆屋が問うと、男はこくりと、首を縦にふった。
「スタジアムに従業員がいない理由は?」
「定期……メンテ……」
「めんて?」
清美は、
「工事の出来具合を確認してるんだよ、きっと」
と説明を加えた。
蘆屋は先を続けた。
「その……メンテの作業員は、どこに?」
「知らん……俺がシフトに入ったときは……もう……いなかった……」
男の無責任な回答に、清美たちは顔を見合わせた。
「清美さん、その……メンテというのは、短時間で終わるのですか?」
「わ、分かんない」
工事現場の監督など、一度も関わったことがない。
清美には、見当がつきかねた。
蘆屋は険しい顔をして、
「まずいな……本当に罠かもしれない……」
とつぶやいてから、質問を続けた。
「警備状況は?」
「いつも……通り……」
「いつも通り? 昼間よりも、遥かに少ないではないか?」
「夜は……内部の警備を……重点的に……」
「それならば、内部はいつも通りなのだな?」
「別の警備会社だから……知らん……」
なんと言うことだ。
清美はタメ息をつき、夜空をあおいだ。
蘆屋も相手の知識のなさに気付き、男を芝生の上へと寝かせた。
清美は、
「どうする?」
とたずねた。今夜は様子見で帰宅を──その部分は飲み込んだ。
蘆屋はじっと俯いたままだった。
考えを巡らせているのだろう。清美は、相手の反応を待った。
「……少しだけ、のぞいてみよう」
「破壊は?」
「それは危険だ……もしこれが罠でないなら、チャンスはまたある。次のメンテの時期を待てばよいだけのこと。逆に罠ならば、深入りは禁物」
なるほど、合理的だ。
要するに、本当に定期メンテなるものが存在するのか、それを調べればいい。そのためには、スタジアムの最奥まで潜り込む必要はなかった。中をちらりと偵察すれば、それで十分である。
「じゃあ、そのへんの裏口から入ろ」
清美たちは茂みを出ると、左右を確認し、手近な非常口へと足を向けた。
○
。
.
「おい、蘆屋道遥は、まだ現れないのか?」
「見りゃ分かるアル」
一向聴は腕枕をし、鉄骨に寝そべったまま、そう答えた。
下で待機している一気通貫は、獣のうなり声を漏らした。
「もう3時間以上待ってるぞ」
「時間制じゃないヨ。安倍清明たちが現れるまで、待つのが仕事アル」
正直なところ、一向聴も疲れていた。待つことだけにではない。相手が蘆屋の長者という大物ぶりに、神経がやられそうなのだ。プレッシャーが凄まじい。スポーツなら、負けてもいいやという気分になれるが、今回は違う。命が懸かっているのだから。
逃げ出したい気持ちをこらえる一向聴とは対照的に、一気通貫は意気揚々であった。
「ワッハッハ、蘆屋を倒せば、一躍有名人だぞ」
「おまえとは今日で、お別れな気がしてくるネ……」
「ん? なんか言ったか?」
「なにも言ってないアル……」
ホラー映画で最初に死ぬのは、陽気なキャラと相場が決まっている。
一向聴は、割と本気で、一気通貫のことが心配になってきた。
「ところで、作戦をまだ立ててないが、どうするんだ?」
「それはさっき言ったヨ。ちょっかい出したあと、逃げ回るアル」
「そんなの作戦とは言わんだろ。もっと詳しく話せ」
「蘆屋相手に綿密な作戦を立てたって、術一発でおじゃんネ。意味ないアル」
10分だ。10分足止めすればいい。
王にそう命令されたのだから、賭けに出る必要などない。一向聴が選んだのは、がむしゃらに逃げ回り、その間に王が安倍清明を誘拐するという、至極単純なプランであった。
「もう、来ないんじゃないのか?」
「それなら、天和から連絡が入ってるはずアル。千里眼で監視して……」
そのときだった。遠くのほうで、なにか金属のぶつかる音がした。
ふたりは会話を止め、臨戦態勢に入った。一向聴は曲芸的に飛び起きて、鉄骨の上でバランスを取った。一気通貫は、あらかじめ用意しておいた荷物の山に隠れた。
「一気通貫、目が光ってるアル」
「生理現象だ」
「なんとかするヨ」
少しきつめに言ったのが功を奏したのか、一気通貫の眼光は消えた。
両目を手でおおったとか、その程度のトリックだろう。
一向聴の意識はすぐに、通路の奥へと向けられた。コンクリート打ちっぱなしの廊下が、闇の奥へと、どこまでも続いていた。天井の豆電球だけが、ぽつぽつと魚の背骨のように、小さく輝いていた。
ふたりは息を殺し、耳をそばだてた。
「……」
「……」
聞こえる。かすかな足音が、こちらに近付いて来ていた。
数は……ひとつ。蘆屋道遥か、安倍清明か。いずれにせよ、単独行動なのは、一向聴たちにとって幸いであった。ふたりそろっている場合は、まず引き離さないといけないからだ。
「……」
口がカラカラになる。生唾を飲み込もうとしても、出ない有様であった。
それほどの場の緊張感が、若い男の声によってやぶられた。
「うぅ……トイレは済ませてくるべきだったか……」
蘆屋だ。一向聴は身をかがめ、小さな体をますます小さくした。
本命が来たという安堵と同時に、手足が震え始めた。
一向聴は、見えるか見えないかギリギリの位置で、通路を見すえた。すると、ようやく闇の向こう側から、白地のワイシャツと黒いズボンを履いた少年が現れた。
少年は辺りを見回す。なにかを探しているようだ。
「ここでよいか……」
なんだ。いきなりスタジアムを破壊しようとしているのか。
一向聴は焦りつつも、じっとこらえた。ここは、スタジアムの中央部ではない。ダイナマイトを仕掛けられたところで、崩落はしないだろう。
ほとんど呼吸を止めた一向聴の前で、蘆屋は壁際によると、ズボンをまさぐり始めた。
自分の眼を疑う一向聴。じょろじょろと、小水の音が聞こえてくる。
一瞬混乱した彼女だが、このチャンスを見逃さなかった。
「一気通貫ッ! 今ヨ!」
「ワオーンッ!」
不要な咆哮を上げて、一気通貫が荷物の山を崩し、襲いかかった。
一向聴もそれに続き、蘆屋の背中に膝蹴りを入れた。
勝てるんじゃないか。そう思った一向聴の視界に、ボンと白い煙が舞った。
「わ、罠アルかッ!?」
「蘆屋ッ! おとなしくしろッ! この一気通貫様が、こてんぱんに……」
どたばたと、格闘し合う音。ようやく煙が晴れ、一向聴は自分の生死を確認した。
命は……あるようだ。毒ガスの類いではなかったらしい。
ホッとした彼女が顔を上げると、そこには──
「い、いづなッ!」
ふさふさとしたしっぽを一気通貫につかまれ、宙づりになった狐女の姿があった。
いづなは犬歯を剥き出しにして、ばたばたと手足を動かしていた。
「放せッ! マヌケ狼ッ!」
一方、一気通貫は、ぼかんと口を開け、獲物を見つめていた。
「な、なんでバカ狐がここに……」
「バカ狐ではないッ! 狐火のいづなだッ!」
睨みつけるいづなを無視して、一気通貫は、同僚へと向きなおった。
「おいッ! 一向聴ッ! これはどういうことだッ!」
「こ、こっちが聞きたいアル……」
「放せッ! いづなの高貴な尾にさわるなッ!」
「ワオーンッ! 狐の汚い小便が、手についてしまったぞッ!」
怒声と罵声が響き合う中、突然、軽快なメロディが鳴った。
それが自分の携帯であることに気付いた一向聴は、ポケットに手を伸ばした。
マナーモードにし忘れたことを後悔しつつ、通話ボタンを押した。
「も、もしもし、一向聴アル」
《もしもし、天和です。さきほど、蘆屋たちがスタジアムに入りました。そちらではなく、選手控え室の方へ移動しています。至急、対応してください。では》
用件だけ伝えて、電話は切れてしまった。
上海からのナビゲーション情報。一向聴は、一気通貫に声をかけた。
「本物が現れたネッ! E1方面へ移動中ヨ!」
「E1ってどこだ?」
見取り図くらい覚えておけ。
一向聴は半ば怒りながら、いづなをゆびさした。
「とにかく、そいつをふん縛るネ!」
「縛らんでもいいだろ。顔面に一発お見舞いして、気絶させれば……熱ッ!?」
一気通貫は絶叫して、右手をはなした。
いづなはサッと地面に着地し、ぴょんぴょんとその場を離れた。
だが、逃げ出す気はないらしい。数メートル先で振り返ると、両腕をかまえた。
「な、なんで逃がすアルかッ!?」
「手を……火傷したぞ……」
うめく一気通貫に、一向聴は視線を向けた。
手の平から、煙が立っている。
どういうことだ。一向聴が混乱していると、視界が急に明るくなり始めた。
「なッ!?」
いづなを中心に、青白い炎の群れが広がり始めていた。
「は、発火能力持ちアルかッ!?」
聞いていない。一向聴は、そう叫びたくなった。
「清美様のご命令で、今まで我慢してやったが、今日という今日は許さんッ! 乙女の恥ずかしい姿を見た罪、百倍返しにしてくれようぞッ!」




