第86話 公共事業
一向聴に教えられた宿で、清美は一夜を過ごした。翌日は蘆屋とともに、北京市内を散策することに決めた。観光旅行というわけではないが、清美には、ほとんど同義である。蘆屋と両想いであることが分かった今では、ハネムーンのような心地さえになってくる。
しかし、油断は禁物。ここでへらへらしていては、また嫌われかねない。清美が愛しているほどに、蘆屋も愛してくれているという保証は、どこにもないのであった。
「どこへ行くの?」
自転車の群れを横目に見ながら、清美は蘆屋にたずねた。
「郊外に建築中の、第三国家体育場があります。そこが目的地です」
「国家体育場? スタジアムってこと? そこを破壊……」
清美はあわてて口をつぐみ、辺りを見回した。
だれも聞いていないようだ。清美は冷や汗をかきつつ、蘆屋へむきなおった。
「そこを見物するわけ?」
「日本で得た情報が本当かどうか、ひとまず調査しなければなりません。第三スタジアムは、北京最大の気脈に接しています。もしその流れをふさぐような代物ならば……」
破壊する。最後の動詞は、清美にも容易に察しがついた。
あまり口を滑らせないよう、ふたりは無言の道中を歩んだ。ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗り込み、あちこちで観光案内に目を通しながら、第三スタジアムへと向かった。清美たちが辿り着いた頃には、すでに正午が訪れようとしていた。
「うわぁ、おっきいね」
清美はひたいに手をかざし、二枚貝を模した第三スタジアムを見上げた。まだ半分も完成していないらしく、北側はほとんど鉄骨ばかりであった。
「世界一大きいんじゃない?」
「そうでしょうか? この規模のものは、他国にもあるかと……」
そうなのか。清美は、自分が世間知らずであることを痛感した。物心ついた頃から暮らしていた七丈島には、ろくなスポーツ施設がなかった。一番大きいのが高校の運動場で、あとはフィットネスクラブなど、社会人向けのものが散在しているだけだった。それに清美自身、あまりスポーツに熱心ではなかった。テレビやネットでサッカー観戦をしていたのは、ゲンキとジャンくらいのものである。
「どんな感じ? やばそう?」
気の早い清美をよそに、蘆屋は探るような目付きで、周囲を観察した。
「……さすがは、中国北部最大の霊場。すさまじい気を感じます」
「で、どうなの? この建物は?」
「少々、お待ちを……」
蘆屋は目を閉じると、呼吸を和らげ、瞑想を始めた。
清美は相手の邪魔をしないように、一歩離れた。腕組みをして、スタジアムを見上げた。これだけの規模ならば、何万人という観客を収容できるだろう。壊したときの爽快感と罪悪感も、相当なものに違いない。
スタジアムの壁には、何百人という建築作業員が、蟻のように張り付いていた。足場を頼りにして上下左右、火花を散らし、騒音を立てながら、仕事に勤しんでいた。さすがに重労働とあってか、大半は壮年の男性に思われた。ちらほらと女性の作業員も見えるが、皆、屈強な体付きをしていた。清美は自分の手足と比べて、その違いに驚いた。
「……分かりました」
清美はふりかえった。
「どうだった?」
相手の表情から、答えは明らかであった。
「気脈を切断する形で建築されています」
「ってことは……」
清美はその先を言わず、スタジアムをもう一度見上げた。
「なんか、もったいない気がするね」
「建築後、100年、200年と使える代物ではありません」
そういう問題なのだろうか。清美は、疑問に思った。
「で、方法は?」
まさか、火薬で噴き飛ばすわけでもあるまい。
もう少し、スマートなやり方がありそうだ。
「建物のみで良いのです。問題は、工事が昼夜継続なので、従業員を……」
「おまえたち、ここでなにしてるアルか?」
突然現れた人影に、清美はぎくりとなった。
しかしその声音には、はっきりと聞き覚えがあった。
「一向聴!」
清美の大声に、一向聴は「しーッ」というポーズをとった。
「声がデカいアル……まあ、あたしは現場監督だから、安全ネ」
「現場監督? ……ここで働いてるの?」
「あたしが働いてるんじゃないアル。働いてる人の監督をしてるアル」
同じことだろう。労働は労働だ。清美は内心突っ込みつつ、先を続けた。
「なんで現場監督なんかしてるの?」
「そんなの単純アル。移民に仕事を斡旋するのも、あたしたちの役目ヨ」
清美は、上海を出るときの会話を思い出した。一向聴がここへ派遣されたのは、不法移民を管理するためなのだ。だとすれば、北京へ連れて来て、はい解散、というわけにもいかないのだろう。誰かが逮捕されて、侵入ルートがバレては、一大事である。
事情を把握した清美は、話題を変えた。
「一気通貫は?」
「あいつは裏方アル。あんな狼女がうろついてたら、すぐ通報されちゃうヨ」
それもそうだ。
実は同じ理由で、いづなも留守番をしているのだった。もっとも、それは半分口実で、蘆屋とふたりきりでデートというのが、清美の目論見だった。いづなには申し訳なかったが、主従関係を通じて男女関係に割り込まれることに、、清美はどうしても納得がいかなかった。
蘆屋は気をとりなおして、
「一向聴殿におうかがいしますが……王殿は、どちらへ?」
とたずねた。
一向聴は視線を逸らした。
これは嘘をつく準備だ。清美は、そう直感した。
「王様は、北京で観光中アル」
「何十年も住んでいる都市を、今さら観光ですか……」
蘆屋の物言いに、一向聴はあわてて表現を変えた。
「か、観光って言うか、休養アル」
最初から、そう言えばいいものを。清美は苦笑した。
とはいえ、この慌てぶりが、いったいなにを意味するのか、清美には判然としなかった。悪の組織の親玉が、バカンスで本拠地にもどるなど、考えられない。だから嘘のはずなのだが──王の目的がどこにあるのかまでは、推理できなかった。
「おまえたちこそ、なにやってるアルか?」
話題が自分たちにおよび、今度は清美があわてる番になった。
しかしそこは、百戦錬磨の女子高生、あっさりと嘘をついた。
「ボクたちも観光だよ。北京オリンピックの会場巡りをしてるの」
清美がそう答えると、一向聴は誇らし気に胸を張った。
「いい心がけネ。第2回北京オリンピックは、前回よりも、もっと立派なものになるアル。この一向聴様が、確約してもいいヨ」
まるで見て来たようなもの言いに、清美は言葉をついだ。
「前回も観戦したの?」
「当たり前アル。この一向聴様、とうに還暦を過ぎてるアル」
そうなのか。清美は初めて、一向聴が見かけと違う年齢であることに気付いた。いや、もとから疑ってはいたのだが、一向聴の言動があまりにも幼いので、本当に見かけ相応なのではないかと、判断がつきかねたのである。
「再来年には、組織で招待してあげるヨ。楽しみにするアル」
資金は大丈夫なのか。清美は、他人の懐を心配してしまった。
「そうネ。ハネムーンにどうアルか? 中国一周なんて、お洒落ヨ」
一向聴はイジワルな笑みを浮かべて、ふたりの顔を見つめた。昨日、自分が蘆屋と結ばれたことが、筒抜けになっているのだろうか。そうではあるまい。一向聴はことあるごとに、清美の恋心をからかうのが趣味だった。今回も、からかっているだけに違いなかった。
清美は顔が赤くなるのを感じながらも、ごまかしを入れた。
「ハネムーンは……ヨーロッパがいいかな。あるいは、アメリカとか……」
清美がそう言うと、一向聴はわざとらしくタメ息をついた。
「欧米なんて、別に行っても楽しくないアル。きらきらの建物に、きらきらの衣装なんて、少女漫画の世界だけヨ。ご飯もおいしくないし、絶対に中国のほうがいいアル」
一向聴の愛郷精神に対して、清美は反論しないことに決めた。
「考えとくよ」
「そのときは、うちの組織に相談するアル。コンテナ便なら、お安くするネ」
コンテナで移動する新婚旅行があるか。
清美は呆れ返ってしまった。
「じゃ、あたしは現場にもどるネ。再会」
一向聴は手を振って、その場を去って行った。
彼女の背中を見送りつつ、清美は、蘆屋の横顔を盗み見た。
「ねえ……この計画……王さんの許可は出てるの?」
「いえ」
「まだ取ってないってこと?」
「王殿に相談したところで、許可は下りません。私たちだけでやります」
蘆屋の回答に、清美は顎を落とした。
しどろもどろになりながら、蘆屋に詰め寄った。
「ま、まずいよ、それはッ!」
「お静かに……誰に見られているやも知れませんので……」
清美は左右を見回し、一向聴の姿が消えていることを確認した。
しかし、だれが彼女の手下か分からない。清美は、できるだけ声を落とした。
「王さんの許可がないのに、壊したりしたら……」
「繰り返しになりますが、許可はおりません。私がこの地域で活動すること自体、お認めにならないと思います」
「だったら、なおさら……」
困惑する清美に、蘆屋は真剣なまなざしを返した。
「ここは、北京最大の霊場なのです。過干渉なのは承知でも、やらざるをえません。気脈は東に伸びており、わずかですが、日本へも影響があるはず」
なるほど、公害の問題と一緒だ。清美は、そう思った。2010年代には、中国からの化学物質が日本に飛来し、そこそこ問題になったと、学校で習ったのだ。ということは、自衛の意味もあるのだろう。
「それを説明すれば、王さんも納得してくれない?」
「王殿の組織は、環境保護には無頓着なのです。人民を養うということが、彼らの至上命題なのですから。現世中心主義と蘆屋一族の思想は、決して相容れません」
ややこしい。清美はなんだか、頭が痛くなってきた。主義主張を優先させる方法は、世渡り上手な清美にとって、どうしても些末に見えてしまうのだった。
「その気脈の影響って、どのくらい先に出るの?」
「スタジアムが完成してから……5、60年でしょうか」
気の長い話だ。自分が生きているかどうかも、危うかった。
清美はしばらく考えを巡らせて、それからくちびるを動かした。
「それなら、別の誰かが解決してくれるかもしれないし、止めにしない?」
蘆屋の瞳がぎろりと、清美を睨みつけた。
「そのような考えが、未来を悪化させるのです。問題の先送りは……」
「ご、ご、ご、ごめん」
好きな人を怒らしてしまった清美は、パニックになってしまった。
ごにょごにょと舌を動かしつつ、しょんぼりと肩を落とした。
これが惚れた弱みか。いつもなら、論破しようと意気込むのだが。
清美がしょげくれたのを見かねてか、蘆屋も表情を和らげた。
「失礼致しました……少々、感情的になり過ぎたようです。いずれにせよ、すぐに行動を起こすわけには、参りません。作業員のいない時間帯が存在しないという、その点をなんとかしなければ」
どうやら、人を巻き込む気はないらしい。
さすがの清美も、「100人くらい死んでもいい」と言われたら、全力で止めただろう。上海で人を殺めたのとは、わけが違う。ここで働いている人々は、無関係なのだから。
「でも、これだけの人数じゃ、どうしようも……」
「それについては、あとで考えましょう。ここで作戦会議は危険です」
それもそうだ。清美は納得すると同時に、安堵した。
物騒な話が、ようやく終わったからだ。
「下見は終わったし、これからどうするの?」
「もう少し、中の様子を見たいのですが……」
そう言って蘆屋は、スタジアムの奥をにらんだ。
「……昼間では、無理なようですね。また夜、出直しましょう」
「じゃ、デートの続きしよ」
清美の一言に、蘆屋は頬を染めた。
「な、なにをおっしゃっているのですか?」
「なにって、昨日お互いに告白したんだから、次はデートでしょ?」
どこか問題でも? そう言いたげな眼差しで、清美は蘆屋を見つめ返した。
蘆屋の顔は、茹でダコのように真っ赤になっていた。
「もしかして、私とじゃ嫌?」
清美は少し、いじわるな質問をする。
「み、緑川殿とお付き合いできるのは、大変嬉しく思いますが、しかし……」
「その『緑川殿』って言うの、止めてくれない? なんで他人行儀なの?」
「では……なんと……?」
「清美でいいんだよ、清美で。清美ちゃんでもいいよ」
蘆屋はグッと口元を結び、それから一言。
「せめて……清美さんで、お願い致します……」
「いいけど、その『ですます調』は止めて」
「……善処します」
「ほら、またなってる」
清美の叱責に、蘆屋はいいなおした。
「善処する」
分かった、と言えばいいのに。でもそれもかわいいな、と清美は思った。
清美は蘆屋の腕に抱きつき、ぐいぐいとバス停の方へ引っ張った。
「あ、あの……」
「もうここに用はないから、市内に戻ろ。食事、食事」
足取りのおぼつかない彼氏を引きずりながら、清美は昼食のメニューを考える。
一向聴に、美味しいお店を訊いとけばよかったな。そんなことを考えながら、清美は午後の楽しい時間に、胸を膨らませた。
○
。
.
「牛鬼よ、なにを考えておる」
ふいに声を掛けられた牛鬼は、左隣に座る老人を見やった。
背中に亀の甲羅を乗せ、長い髭を生やした老亀は、じっと庭先を見つめていた。
「少し、蘆屋様のことをな」
「ふむ……」
老亀はあご髭をなでながら、眉毛の下で目をしょぼしょぼさせた。
老眼が進んでいるのかもしれない。式神とて、寿命は永遠ではないのだ。
「ワシも、お館様のことは、気にかけておる……便りもないしの……」
上海行きの飛行機を見送った牛鬼は、ここ京都にある、旧邸に身を潜めていた。
隠密課の追撃に備えてのことだが、襲われる気配はなかった。
なにか、あったのだろうか。牛鬼は、一抹の不安を覚えた。
右隣に座っていたメイド服の女、大蝙蝠は、
「先日の上海スタジアムの崩落……怪しいと思うんですが……」
とつぶやいた。
牛鬼は、
「おまえの主人からは、なにも連絡がないのか?」
とたずねた。大蝙蝠は悲し気な表情を浮かべた。
「はい……忘れられているのかも……」
「どうだろうな……連絡する暇がないのか、それとも盗聴を気にしてるのか……」
両方だろう。慰め抜きに、牛鬼はそう判断していた。
とにかく、安否の情報がまったく入って来ないのは、奇妙であった。
「なあ、老亀、ひとつオレが中国まで行って、様子を見るというのは?」
思いつきではなかった。飛行機を見送ったときから、練っていた計画である。
「しかしのぉ……ここで隠密課に動かれると、おぬし抜きでは……」
「なぁに、蛇姫もすっかり元気になって、戦力は足りているさ」
「ふむ……安倍清明が同伴しているのも、心もとない。お館様に、危害を加えかねん」
「それを確かめるためにも、オレが行く……いいな?」
老亀はしばらくの間、庭先の花々を眺めていた。
牛鬼は辛抱強く、許可を待った。
一匹の蝶が舞い込んで来たところで、老亀は深くタメ息をついた。
「仕方がない。おぬしが行って、様子を見て来てくれ」
「あい、分かった」
牛鬼は鼻息荒く、縁側から腰を上げた。
指の骨をぽきぽきと鳴らし、空間移動の準備をする。
「わ、私も連れて行ってください」
大蝙蝠が立ち上がり、すがりつくように牛鬼に身を寄せた。
「おまえも来るのか?」
「来るというか、そろそろ中国に帰りたいので」
こいつも故郷が恋しいか。牛鬼は黙って、首を縦にふった。
「九州から貨物船に乗るぞ。オレの能力でも、さすがに海は渡れんからな」
「飛行機はダメなのですか?」
大蝙蝠の質問に、牛鬼はその太い首を鳴らす。
「出国審査が通るわけないだろ」




