第85話 結ばれた仇敵
「きよ……さ……」
心地よいまどろみの中で、だれかの声が聞こえてくる。
かつて体験したことのあるシチェーションに、清美はまぶたを開けた。
「……いづな?」
いづなは清美のそばで、寄り添うように声をかけていた。
「清美様、着きましたぞ」
「どこに?」
「北京です」
周囲を見回すと、そこはトラックの荷台。
幌の向こう側は、異様に静かであった。
清美といづなを除き、誰もいなかった。
「蘆屋くんたちは?」
「とっくに降りられましたぞ」
声くらい掛けてくれればいいのに。そう思いつつ、清美は腰を上げた。
その瞬間、あの少女がいないことに、清美は気が付いた。
「……圓さんは?」
「えん? ……どなたですか?」
「ボクの隣で寝てた女の子だよ」
「ああ……あの……知りませんな。先に降りたのでしょう」
清美は荷台を降りた。
外は夕暮れ。どれくらいの時間が経ったのかも、清美には判然としない。
最初に声をかけてきたのは、蘆屋だった。
「緑川殿、お目覚めですか」
清美は、口元に垂れた涎を、あわてて袖口でぬぐった。
「おはよ……ってわけでもないや。他のみんなは?」
「一向聴殿と一気通貫殿は、他のかたを連れて、どこかへ向かわれました。私たちは、自由行動でよいとのことです」
「自由行動?」
遠足でもあるまいし。清美は両手を腰にあて、周囲を一瞥した。木立に風が吹き、さやさやと葉音が聞こえてくる。西日の赤が、なんとも幻想的に思われた。
「で、ボクたちはどうするの?」
「それについてですが……別々に行動致しませんか?」
予期せぬ提案に、清美は戸惑った。
「な、なんで?」
「以前も申しましたように、私は私用がございます。緑川殿とは関係のない案件ですので、一旦お別れということにしたいのですが」
そんなバカな。
清美は動揺を隠せない。それでは、北京まで来た意味がないのだ。彼女自身には、これと言って用事などないのだから。
「ぼ、ボクはすることがないんだけど……」
「では、観光などなさっては?」
「ひとりで?」
「ふたりで、ですぞ」
会話に割り込んで来るいづな。
いづなは、蘆屋との別行動を、むしろ喜んでいるように見受けられた。
しかし、清美は引き下がらなかった。
「ダメだよ。ここまで来て、別行動だなんて……どうやって連絡を取り合うの?」
「それは簡単です」
蘆屋は懐から折り紙を取り出すと、それで小さなやっこを作り始めた。
わけの分からぬ行動に、清美は目を白黒させた。
「なにやってるの?」
蘆屋は黙って、やっこをふたつ作ると、それに息を吹きかけた。清美が同じ質問を繰り返そうとした矢先、ふたつのやっこはぴょんと跳ね、一本足でその場に直立した。
「こ、これは?」
「伝心の術です。このやっこにささやきかければ、相方のやっこに伝わり、それを音声で届けてくれるという仕組み。携帯電話のようなものです……どうぞ」
片方のやっこを、蘆屋は清美に手渡した。
黒地に金箔を施した、なんとも美しい品物であった。
「あ、ありがとう……」
礼を述べる清美。
これでは、蘆屋のペースである。
手の平で踊るやっこを眺めながら、清美は言葉をさがした。
「で、でも、お金がないし……ホテルも……」
「宿については、一向聴殿から、地図をいただきました」
蘆屋はふたたび懐に手を入れ、一枚の紙切れを取り出す。
差し出されたそれは、ネットの地図検索を印刷しただけの代物だった。
「この×印の建物が、隠れ家のようです」
「安全なの?」
「……さあ」
蘆屋は曖昧につぶやき、その視線を近くの茂みへと移した。北京警察による上海攻勢から、まだ数日と経っていない今、この街に安全な場所があるとは思えない。それが、清美の考えであった。
「ちょっとデタラメ過ぎるよ、行動が。もっと、まとまらないと……」
「もともと、緑川殿と私がここへ来るのは、彼女たちのあずかり知らぬところ。私たちを目的地へ運んだ以上、あとは勝手にせよという考えなのでしょう。一向聴殿も一気通貫殿も、お忙しいようですし、あまり邪魔立てせぬほうがよいかと思いますが」
「彼女たちの仕事ってなんなの? 不法入国の手伝い?」
「これは私の推測ですが……おそらくは、北京オリンピック関連の違法な建築事業を、裏で管理しているのではないでしょうか。王殿の組織は、もともとそういう分野が得意ですので」
清美は腕組みをし、考えを巡らせる。一向聴たちが違法な仕事に手を染めている以上、それを手伝うつもりはなかった。清美自身、人を殺めたのだから、今さら法律のひとつやふたつ、どうということもない。そんな事情があるとは言え、敵の本拠地で、それをする気にはなれなかったのである。身の安全を図るならば、おとなしくしておいたほうがいい。
けれどもそれでは、なんのために北京に来たのか、分からないわけで──
「蘆屋くんの用事ってなに?」
清美は声を落として、蘆屋に質問をぶつけた。
蘆屋は一瞬だけ間を置き、それから返事をした。
「私用です」
「だから、その私用ってなに?」
「……」
女か。
清美はそう怪しんだあと、直感的に否定した。国内で人間の友人を持たなかった蘆屋が、国外に女を囲っているとは思えない。自分をそう納得させる清美だが、どこかにわだかまりが残った。
「言えない理由があるの?」
「清美殿には、関係ないことですので」
「関係ないかどうかは、ボクが決めるよ……答えて」
にじり寄る清美。
蘆屋は動じずに、じっと清美の視線をとらえ返して来た。
清美は逆にたじろぎ、一歩後ろに下がった。
「ねえ……答え……」
「25年前、東京でオリンピックがひらかれたことを、覚えておいでですか?」
25年前……2020年だ。
清美はまだ生まれていなかったが、社会科の授業で、耳にしたことがあった。
「うん……知ってるよ……第2回東京オリンピックでしょ?」
「その第2回東京オリンピック開催前に、競技場で爆弾テロがあったことは?」
清美は、首を左右にふった。
そもそも、だれが金メダルを取ったのかすら、清美は知らなかった。
蘆屋の真意を問いただそうとした瞬間、ある疑念がよぎった。
「テロって……もしかして、蘆屋くんたちの……」
仕業──そう言おうとした清美の口を、蘆屋の扇子がおおった。
「いいえ、違います。その爆弾テロは……隠密課の仕業なのです」
清美は驚きの余り、扇子をふりはらった。
「隠密課……? そんなの、おかしいでしょ。日本のオリンピックで……」
「建築利権ですよ……まあ、お聞きになってください。東京オリンピックでは、ゼネコンに金を回すため、古い施設を再利用しない方針が採られたのです。しかしそれでは、古い施設を持つ地域の住民が、黙っていません。彼らには彼らで、観光利権があるのです。各省庁は調整に奔走しましたが、一ヶ所だけ、どうしても運動を抑えられない施設が残りました。そこで、隠密課の出番となったのです」
「出番って……爆弾テロが?」
「正確に言うと、テロに見せかけた施設の破壊です。爆発騒ぎのあと、その施設は『安全管理に問題がある』という理由で、会場から外されました」
蘆屋は説明を終えると、しばらくの間、口をつぐんだ。
清美が納得するのを、待っているようにも見えた。
「私の言を信じますか?」
「……それと、今回の北京旅行と、どういう関係があるの?」
清美は返答を紛らわし、質問を質問で返した。
「……どうやら、今回の北京オリンピックでも、同じことが起こりそうなのです」
「同じこと? ……自作自演のテロがあるってこと?」
「いえ、新たな施設の建築です。政府は近郊の土地を買収し、工事を開始しています」
「用事って、まさか、地元住民を守るとか……そういう……」
清美がしゃべり終える前に、蘆屋は言葉をついだ。
「いいえ、違います。人間同士の金のやり取りに、蘆屋一族は興味がありません。建築業界を優先させようが、地元住民を優先させようが、どちらでもよいこと。しかし……それが環境破壊に繋がるとなると……」
清美はその瞬間、かねてから疑問に思っていたことを、口にした。
「きみの組織って、いったいなにをしてるの?」
「月並みな言い方をすれば……環境保護です。もともと、私たち蘆屋一族は、日本に分布する重要な霊場を守護することにありました。霊場の多くは、自然の豊かな場所であり、現代へ移行するにつれて、一族の職務が、いわゆる環境保護と重なり始めたのです」
「だから、七王子自然公園でビラ配りなんかしてたの?」
蘆屋は、うなずきかえした。
しかし、その首の動かし方には、どこか曖昧なところがあった。
「ねえ……ほんとうは、なにをしてるの?」
清美は、恐る恐るたずねた。
「さきほども申しましたように、環境保護です」
「公園でビラを配ったり、プラカードを掲げたりするだけの?」
答えないで欲しい。清美は、そう願った。
けれども現実は、非情であった。
「ときには人を殺めたり……そのようなことも致します」
ふたりの間に、一抹の風が通り抜けた。
「それも……環境保護のため?」
「左様です。霊場を破壊する側が力づくで来た場合、私たちもまた力で応戦します。それが蘆屋一族の受け継ぐ、血の掟。諸外国にも、同じような考え方があります。『目には目を』というのは、そのひとつですが……」
清美は地面を踏み鳴らし、震えるくちびるを動かした。
「それじゃ、テロだよッ! エコロジカルなテロじゃないかッ!」
清美の気迫にもかかわらず、蘆屋は冷静に言葉を返した。
「それは言い得て妙。私たちは現に、エコロジカルなテロリストと言ったところでしょう。人命よりも自然を優先するというのは、私たち組織が掲げる、掟のひとつです。私利私欲で地形を変え、生き物を滅ぼす人間には、その命で償ってもらわねばなりません」
清美は言葉を失った。
蘆屋は悲し気な顔を浮かべ、目の前のライバルを見すえた。
「緑川殿、私たちは、悪の組織なのです……合法的な活動家ではありません」
それは自分も同じだ。清美は、心の中で叫んだ。自分の身を守るためとは言え、上海で多くの命を奪ってしまった清美には、蘆屋を非難する術がない。少なくとも清美は、彼女自身にその資格がないと感じていた。あれは、正当防衛などではない。警察の襲撃に対して正当防衛が成立する余地は、ないのである。
「私たちは、法の枠外で義を追及する者です。それに関しては、アメリカの大統領殿、中国の王殿、ドイツのエミリア殿、フランスのジャンヌ殿、ロシアのラスプーチン殿、イギリスのメアリー殿……みな同じです。昔……カントという哲学者は、法律に違反することは、それ自体で正義に反すると述べたと聞きます。私たちは、そのような哲学を持ちません。正義に反する法と秩序は無効。これが、私たち悪の組織に流れる、唯一の共通理念なのです」
「でもきみたちは、お互いに仲違いしてるじゃない? どうして?」
「それは、お互いに理想とするところが、異なるからです。したがって、ある意味では、力こそ正義とも言えましょう。こちらの方が、悪の組織には相応しいかもしれません」
奇妙な問答は終わりを告げ、清美たちは押し黙った。
隣では、いづながおろおろと、ふたりを見比べている。
「ここでお別れ……ですか」
蘆屋がぼそりと、消え入るような声で、そうつぶやいた。
清美は、ただ自分に鞭打つように、歯を食いしばっていた。彼女の中で芽生える、抗い難い衝動が、透明な決心へと移ろい、口をひらかせた。
「ついて行くよ」
それは、清美自身を驚かせるほどの、確固とした響きをはらんでいた。
「きみが全てを話してくれたから、ボクも話すよ。ボクが七王子できみに声を掛けたのは、きみに……きみに一目惚れしたからだよ……ごめん、黙って聞いて。あのとき、自然公園がどうとか、そんなのは、どうでもよかったんだ。ただ、きみのそばに……ボクは最低なんだよ」
涙が溢れてくる。
清美は半ば嗚咽しながら、先を続けた。
「それが……あんなことになるなんて……ごめん……本当にごめんよ……」
崩れかけた清美の体を、優しく受け止めるものがあった。
いづなかと錯覚した清美が顔を上げると、そこには蘆屋の瞳が映った。
「……気付いておりました」
蘆屋の言葉に、清美は耳を疑った。
「なにに……?」
「あなたの想いには、気付いておりました……いくら女に縁のない私とて、そこまで鈍くはございません……」
恋心を把握されていたことに、清美は全身が火照るのを感じた。
そして同時に、絶望が彼女を襲った。
「ということは、ノー……なんだね……」
片恋の終わりを覚悟した清美は、突然、くちびるを奪われた。
いづなの喫驚すら、風の中に、蘆屋の温もりの中に、溶けて消えていく。
「……」
くちびるを離したふたりは、お互いに見つめ合う。
一瞬の中にある永遠の時間。その時間の中で、清美は相手の心を知った。
「いいの……ボクで……?」
「あなたこそ、私でよろしいのですか? 二度と日常へは戻れないのですよ?」
なにを今さら。清美は蘆屋の胸元に頬を寄せ、過去を振り返った。
上海で血に手を染めたとき、普通の生活へ帰る道は、閉ざされてしまったのだ。そう思う清美の胸中に、ふと疑問が浮かぶ。たとえあの事件がなくても……あるいは……。
清美はあらためて、己の愛の深さに驚き、安堵した。
涙の雫に夕陽がかすむ、16年目の夏のことであった。




