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第84話 出稼ぎ少女

 九龍クーロンと呼ばれる居酒屋には、髭を生やした中年男性がいた。

 そして彼の最初のひとことは、

「ああ、どうも」

 という、たったそれだけだった。

 呆気に取られた清美(きよみ)たちをよそに、居酒屋の奥から出て来た若者たちが、少女を運び去った。清美はなにをしてよいのかも分からぬまま、その場に立ち尽くしていた。

「ありがとうございました」

「え……あの……」

 男は入り口の扉を開けると、やや慇懃な形で、ふたりに出て行くよう指示した。

 これが、怪我人を運んだ相手への返礼なのだろうか。清美は怒りをあらわにした。

「ちょっと、これってどういう……」

 蘆屋あしやは清美を引き留めた。

「お邪魔致しました」

 清美は口をつぐんだ。

 少年の横顔を睨みつけながら、歯を食いしばった。

「ねえ、これはどういう……」

「私たちは、お呼びでないということですよ……では」

 蘆屋は男に別れを告げ、そそくさと店を出て行った。

 清美はわざとらしく床を踏み鳴らし、肩を怒らせてその後につづいた。

 清美が敷居をまたぐのとほぼ同時に、扉の閉まる音が聞こえた。

「なに、この態度ッ!」

 地面に転がっていたいびつな小石を、清美は蹴り上げた。

 小石は近くの壁にぶつかり、外で留守番をしていたいづながそれを避ける。

「はわわ、どうなさったのですか?」

 清美は、古びた居酒屋の扉をふりかえる。

「べーッ!」

 無意味なあっかんべーをする清美。

 そんな彼女の肩を、蘆屋は優しく引いた。

「頭に血を昇らせても、せんなきこと。私たちは部外者です。警察の手の者かもしれないのですから、警戒されるのも当然かと」

 蘆屋の分析的な態度にもかかわらず、清美は溜飲を下ろすことができなかった。

 せっかくの人助けの結果がこれでは──そんな思いが、彼女の中に渦巻いた。

「襲われなかっただけでも、良しとしましょう……そろそろ帰りますか?」

「……だね」

 清美はもう一度、居酒屋の扉を見やった。

 腹の虫は収まっていなかった。しかし、少女の安否も、依然として気になっていた。こんな場所で、まともな治療が受けられるのだろうか。感染症などの危険性を考えると、無理にでも病院へ連れ込んだほうが良かったのではないか。そんな気すらしてくる。

緑川(みどりかわ)殿、どうなされましたか?」

 蘆屋が、ふりかえって声を掛けた。

 清美は最後に小石を蹴ると、逃げるようにそこから立ち去った。

 

  ○

   。

    .


「清美、どこ行ってたアルか?」

 アジトに帰った清美たちを待ち受けていたのは、一向聴(いーしゃんてん)だった。

 いつもは陽気な彼女も、今度ばかりは、とがめるような目付きをしていた。

「ちょ、ちょっと散歩に……」

「昨日あんなことがあったのに、外をうろつくのは、良くないアル」

「ご、ごめん……」

 相手が年上ということで、清美は素直に謝った。

 そこへ、いづなが割り込んで来た。

「清美様に命令とは、どういう了見だッ!」

「ハァ……この狐は、そんなことも分からないアルか……アホあるネ」

「アホとはなんだッ! アホとはッ! アホなのはおまえのところの狼女だろうッ!」

「じゃあ、ふたりとも同じくらいアホでいいアル」

 勝ち誇ったように胸を張る一向聴。

 一度大喧嘩して、清美にきつく叱られたのが、トラウマになっているのだろう。いづなは拳を握り、犬歯を剥き出しにしながらも、じっとこらえていた。

「うーん……一向聴ちゃんにイキがってもらうためにしつけたんじゃないんだけど……」

 少しくらい、喧嘩させてもいいか。

 清美がそんなことを思った瞬間、一向聴の体が、宙に浮いた。

 一向聴は両手をバタバタさせながら、襟首えりくびをつかんだ手の正体をさぐった。

「……一気通貫(いっきつうかん)ッ!?」

「一向聴……さっき、私の名前を呼ばなかったか?」

「よ、呼んでないアル」

「『ふたりとも同じくらいアホでいい』と聞こえたが……」

 ああ……これは……清美は右手で、顔をおおった。

「私がアホなら、おまえもアホだろッ!」

 地面に叩き付けられそうになった一向聴は、うまく手をすり抜け、ひらりと着地した。

 さすがの動体視力に、清美も賛嘆さんたんを隠せなかった。

 思わず、

「すごいね……そういうところだけは」

 と言ってしまった。

「『だけ』は余計アル」

 一方、一気通貫は機嫌を損ねたままで、

「とにかく、アホだと言ったことを撤回しろッ!」

 と怒鳴った。

 いづなもうんうんとうなずいた。

「一気通貫殿に同意致すッ!」

 普段は仲の悪いいづなと一気通貫も、このときばかりは共闘に転じた。いつもなら、「狐と狼のどちらが偉いか」という、清美にとってあまりにもどうでもいい口論が繰り広げられるところである。

 清美はこの状況を、なんとなく微笑ましく思った。

 そしてこの漫才をやめさせるかのように、十三不塔(しーさんぷーたー)が現れた。玄関の奥、2階へと続く錆びた階段から降りてきたのだ。

「はいはい、そこまで。みんな仲良くしようね」

 一向聴たちは口論を止め、同僚のほうへ顔を向けた。

「どうしたアルか?」

「そろそろ支度してもらわないと、困るんだよね」

 清美には、なんのことかわからなかった。

 それに対して、一向聴はパンと手を叩いた。

「ついに北京アルかッ!?」

「そういうこと。(わん)様から指示が出たよ」

「あたしは連れてってくれるネ?」

「一向聴お姉ちゃんは、同行」

「わ、私はッ!?」

「一気通貫お姉ちゃんも同行。留守番は天和(てんほー)ね」

 北京行きを許可されたふたりは、その場で輪になって踊り始めた。

 さきほどまでのいさかいはどこへやら。清美は苦笑した。

 十三不塔は小声で、

「お姉ちゃんたちに留守番させると、心配だし」

 と、ふたりに聞こえない程度の音量で、そうつぶやいた。

 清美は、

「ボクたちも留守番だよね?」

 と確認を入れた。十三不塔は肩をすくめてみせた。

「さあ……それについては『勝手にしろ』だってさ」

 言葉通りではないのだろうが、いかにも王らしいメッセージだった。

 清美は蘆屋と顔を見合わせ、お互いに探りを入れた。

 先に口をひらいたのは、蘆屋だった。

「清美殿は、ここに残られるのでしょう?」

「ボク『は』? ……きみは違うような言い方だね」

「私は北京へ参ります」

 唐突な宣言に、清美は目を白黒させた。

「ぺ、北京へ? なんのために?」

「その説明は……またの機会に」

 質問をはぐらかされた清美は、あまりいい顔をしなかった。

 しかし、プライベートな用事の可能性を考慮して、敢えて追及をやめた。

 蘆屋は十三不塔のほうへ顔を向け、

「いつ出発なさるのですか?」

 とたずねた。十三不塔は即答した。

「明日の朝だよ」

「ずいぶんと、急な……」

「移動手段が限られてるからね。スケジュールを組むのが大変なんだ」

 十三不塔はそれだけ言うと、階段をふたたび昇って行った。

「それじゃ、行く人は準備しといてね」

 

  ○

   。

    .


 翌朝、清美たちは、上海市の港に集まっていた。

 並び立つ倉庫の片隅で、十三不塔たちとぼんやり、6時を待つ。

 高校生活を送っていたときよりも早い起床に、清美は何度も目をこすった。

「船で行くの?」

 十三不塔は、

「トラック」

 と答えた。

 清美は、

「上海から北京までトラック? 危なくない?」

 と言った。

「この国じゃ、飛行機で移動するよりも、そっちのほうが安全なのさ」

 悪の組織にとっては、だろう。清美は、そう突っ込みを入れた。

 倉庫の反対側には、見知らぬひとびとがたむろしていた。若者から老人、男女を問わない構成は、まるで観光客のようだ。ただひとつ違う点と言えば、着ているものが見窄らしく、とても旅行者には見えないことだろう。

 清美は声を落として、

「あそこにいる人たちは?」

 とたずねた。

 十三不塔は、

「あれは、同乗者だよ」

 と答えた。

「同乗者? ……組織の仲間ってこと?」

「ちがうちがう。不法移民だよ。北京オリンピックの特需で、あちこちから勝手に入り込んでいるのさ。上海港はその拠点のひとつ。うちの組織の管轄だよ」

 やっぱり犯罪の手助けをしているではないか。

 清美はそう言いかけて、あわてて口をつぐんだ。

 それから1分ほどして、一向聴が眠たそうに背伸びをした。

「まだ来ないアルか? もうすぐ6時アル」

 清美は、

「定刻に来るとは、限らないんじゃないの」

 と言った。密入国のスケジュール管理など、でたらめだと思ったのだ。

 ところが、十三不塔はこの推理を否定した。

「いや、定刻通りに来るはずだよ。こういう密入国者の移動は、そこらへんの団体旅行なんかより、よっぽど時間厳守さ……っと、どうやら、ご到着みたいだね」

 清美は耳を澄ませた。

 遠くから、タイヤのきしむ音が聞こえてきた。

 他の人々もそれに気付いたのか、地面から腰を上げ、出口にたむろし始めた。

「じゃ、僕は交通整理があるんで、あとは自分たちでよろしく」

 十三不塔はそう言って、シャッターに向かった。

 一向聴と一気通貫も、別れを告げた。

「あたしたちも、そろそろ移動するネ」

 一向聴が先頭に立ち、清美たちも出口へと歩を進めた。割り込まれると思ったのか、数人の移民に、行く手をはばまれてしまった。十三不塔は急いでもどって来て、その場をしずめた。

「はいはい、そこ喧嘩しないで、並んでね」

 身内も部外者もないと言った感じで、清美たちは最後尾に並ばされてしまった。トラブルを避けているのだろう。清美はそう考えて、自分を納得させた。

 蘆屋は、

「乗車を急いだところで、北京に早く着けるわけでもありません」

 と、もっともなことを言っていた。

 いよいよシャッターが半開きになり、トラックの白い車体が見えた。

 夏日ということで、外はすでに明るい。

「順番にね。物音を立てちゃダメだよ」

 十三不塔はてきぱきと、人の流れを整理していく。

 一台に十数人乗せては、出発するトラック。あれではぎゅうぎゅう詰めに違いない。清美は、少しばかり嫌な気持ちになった。

「船のほうが、いいんじゃないかな?」

「船底に隠れるのは、キツいヨ。試してみるアルか?」

「……遠慮しとく」

 清美がげんなりしているところへ、十三不塔が戻って来た。

「はい、お姉ちゃんたちの番ね。急いで」

 十三不塔に背中を押され、清美たちは順番にトラックへと乗り込んだ。ほろのかかった、いかにもオンボロな車は、人が乗り込む度に、大きく沈んでは揺れた。

「これ、車検通ってないんじゃない?」

「いいから、早く乗るアル」

 一向聴に手伝ってもらい、清美は荷台に乗り上げた。

 中を見ると、先の乗っていた移民が何人か、体育座りで落ち着かなそうにしていた。清美たちの存在を不審に思っているのか、それとも自分たちの未来を気遣っているのか、清美には、なんとも判断がつきかねた。

「次で最後だよ」

 十三不塔の声に合わせて、小柄な少女がひとり、シートをくぐってきた。

 その顔を見た瞬間、清美は喫驚を上げた。

「き、きみはッ!」

「あ、おまえッ!」

「しゃべっちゃダメだよ。早く乗って」

 十三不塔の叱責に、ふたりは押し黙った。

 少女はいそいそと荷台に乗り込み、自分の位置を占めた。最終車両ということで、満員にはならず、かえって快適だ。

 最初から、そういう配慮だったのかもしれない。清美は、十三不塔に感謝した。

「じゃ、気をつけてね」

 十三不塔の台詞を最後に、トラックはなんの前触れも無く、アクセルを入れた。

 突然の加速度運動に、車内の人々がつんのめる。

 清美は、隣に座った少女に、思わずぶつかってしまった。

「いてぇな」

「ご、ごめん……って、なんできみがここに?」

 清美の隣に座った少女。それは、昨日助けたあの女の子であった。

「おまえこそ、なんでここにいるんだよ?」

「質問を質問で返さないで」

 ややきつめな清美の物言いに、さすがの少女もひるんだらしい。不機嫌そうに口をすぼめ、それからくちびるを動かした。

「なんでって……北京へ行くに決まってんじゃん。あんたたちは?」

「ぼ、ボクたちも北京へ」

 行き先の決まった列車の中で、お互いの行き先をたずねている滑稽感。

 清美が話題を転じる前に、少女のほうから先を続けた。

「あたいは(えん)って言うんだ。あんたは?」

「ぼ、ボクは……清美」

「男? 女? それともX?」

「……女」

「ふぅん……あんた、けっこうおしゃれだね」

 今朝の清美の服装は、空色のポロシャツに、白のデニムだった。あまりいいものを着ないようにと、十三不塔に注意されたのだが、蘆屋と会うときは、どうしても気を遣いたかった。しかしこうなってみると、自分の服装だけやたら浮いているのは事実だった。

 しかも、蘆屋が着て来たのは、ぼろぼろの人民服。これなら事前に相談すればよかったとさえ思った。清美だけ、観光客のような雰囲気なのだ。

「あんた、どこの民族出身? 漢人?」

「かんじん? ……日本人だよ」

 清美が素直に答えると、圓は目を見開いた。

「日本人? 日本人が、こんなところでなにしてんの?」

「えーと……それはね……」

 清美は、はたと困ってしまった。

 適当な言い訳が思い浮かばない。

「オリンピック関連……だよ」

「嘘だね。肉体労働者には見えないけど?」

 圓の言う通りだった。

 清美は、工事現場で働いたことなどない。ただの高校生である。

「まあ、いろいろとね……」

「いろいろね……」

 圓はそう言って、ふいにこの話題を打ち切った。

 お互いに事情をたずねるのは、タブーなのかもしれない。清美も話題を変えた。

「足は大丈夫なの? 銃弾が貫通したんじゃ……」

「それなら、もう平気だよ」

 少女はぶっきらぼうに答えた。

 その裏に強がりが隠れしていることを、清美は見逃さなかった。

「でも、さすがに働けないでしょ? 安静にしとかないと……」

「安静って、どこで安静にするんだ? どこにいても、金がかかるんだぞ?」

「それはそうだけど……」

 うまい反論が思いつかなかったので、清美はこの話も打ち切ることに決めた。

 トラックに揺られながら、ぼんやり荷台を観察する。一番奥にいるのは、屈強な体をした20代くらいの男で、清美たちには目もくれず、寝息を立てていた。よく眠れるものだと感心しつつ、清美は手前に視線を移した。しわの深い、それでいて手足は頑丈そうな老人が、膝をかかえてぼんやりと床を見つけていた。

 一向聴と一気通貫はその隣で、トランプに興じていた。ふたりでやる遊びなど限られているはずなのだが、えらく盛況なようだ。蘆屋は、一向聴たちから少し離れたところで、瞑想に沈んでいた。

「さっきあいつと並んでたよな? あんたの旦那さん?」

 清美は一瞬、少女の質問の意味が分からなかった。

 しかし、その意図を悟った途端、顔を赤くしてうつむいた。

「ち、違うよ……友だち……」

 清美がもじもじしていると、圓はしたり顔で歯を見せる。

「ははーん……片想いってやつだね……」

 清美はなぜか、否定する気持ちが起こらなかった。

 こくりとうなずき、ますます顔を赤くした。

「けっこうなことで」

「きみは、ひとり?」

 清美は、マズいことを訊いてしまったのではないかと、冷や汗をかいた。

 その予感は、的中してしまった。

「あたいはベトナム出身なんだけどね……両親が死んじまって、金がないんだよ」

「きみ、ベトナム人なの? ……東アジア系に見えるけど」

「じいちゃんは四川の出身。地震があって家がぶっ壊れたから、親戚のツテでハノイに移住したんだと……ま、詳しくは知らないんだけどね」

「なんで中国に戻って来たの?」

「そりゃ、あたいが中国人だからだよ」

 少女の思考についていけない清美は、適当にあいづちを打った。

 なにかを踏み上げたのか、トラックの荷台が激しく揺れた。

 その拍子に、圓は顔をゆがめた。

「ねえ……やっぱり痛いんじゃない?」

「ちょっと響いただけさ……あたいは寝させてもらうよ」

 圓はそう言って、床にごろりとなった。

 乗車人数が少ないからこそできる技だ。

 別の車両に乗っていたら、さぞかし窮屈な思いをしたに違いない。

 清美は、ほろの隙き間から漏れ入る朝日に目をほそめ、ゲンキたちのことを想った。

 その光は七丈島の思い出と変わらず──むしろリアルですらあった。

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