第81話 北京オリンピック
【ここまでのあらすじ】
幹部会で離ればなれになってしまった5人。上海に残った緑川は、蘆屋道遥とともに、王傑紂のアジトに身を寄せていた。王の組織は北京政府と対立するため、いよいよ本格的に活動を始めようとしていた。緑川と蘆屋は、今後の進退を迫られることになった。
《昨夜、旧市街地の上海スタジアムで発生した崩落事故について、上海市防災課は『地下水の汲み上げによる地盤沈下が原因であり、テロの可能性はない』と発表、市民に混乱を避けるよう、呼びかけています。なお、警察の発表によれば、この事故による負傷者はいない模様です》
立体テレビの向こう側で、女性アナウンサーが配信映像を切り替えた。
それに合わせて、清美の視線も、自然とそちらへ移ろった。
《次のニュースです。2052年開催が決定した第二回北京オリンピックに向けて、中央政府の広報官は今朝、『世界的なスポーツと平和の祭典が、ふたたび北京で開かれることに感謝の意を表し、官民財一体になって、成功に導くことを誓いたい』と述べ、当面の政策目標を、次期オリンピックに注力すると発表しました。繰り返されるテロの懸念に対しては、北京警察の司馬総監よりコメントがおこなわれ……》
その瞬間、映像が途切れた。
清美が腰を浮かせる前に、背後で中性的な男の声がした。
「昼間からテレビとは……おヒマなことで」
ふりかえると、そこには王が立っていた。右手に小さなリモコンを持ち、冷ややかな目で清美を見下ろしていた。
少女はバツが悪そうにくちびるを結んだあと、それを動かした。
「だって、することがないから……」
「することがない? あなたのお連れは、午後の鍛錬のようですが?」
知らないよ。清美は、そう言いたかった。スタジアム崩落から一夜が開け、すべてが日常に戻ったかのような錯覚に、清美は囚われていた。あれは、悪い夢だったのではないだろうか。もしそれを反証するものがあるとすれば、目の前にいる王と、もうひとり、今はそばにいない蘆屋道遥くらいのものであろう。
彼女の心を占めているのは、別れ別れになったゲンキたちのことばかりだった。蘆屋の説明によれば、「この世で最も安全な場所」にいるらしい。もっともそれが意味しているのは、「悪の組織に拉致されている」ということであり、「幹部のそばにいれば安全だ」という、根拠のない慰めにも思われた。納得する理由があるとすれば、清美とトモエはこれまで安全だったという、経験則的なものでしかない。現に清美は、王や蘆屋から危害を加えられることもなく、穏やかな午後を過ごしていた。
清美は粗末なソファーに身を投げ出し、大きくタメ息をついた。
「王さんは、これからどうするの?」
リモコンを片付けた王は、ふりむきもせずに答えた。
「我々は仕事にもどります」
「仕事? ……なんの?」
大方、銀行強盗かなにかだろうと、清美は読んでいた。
今回の件で王の組織が壊滅的なダメージを受けたことは、明らかなのだ。とりあえず入り用なものは、再建資金である。清美は、そう推測した。
しかし、意外な答えが返ってきた。
「10億の民を食わせる仕事ですよ」
「10億の民……? なにそれ?」
清美の質問に、王は嘆息した。
「昨晩も説明したでしょう。我々の組織の目的は、共産党政権……いや、毛王朝と呼ぶ方が適切かもしれませんが、とにかく、現在の権力者を追放して、新たな王朝をひらくことなのです。その王朝の目標は、人民の安寧でなければなりません。それを『10億の民を食わせる仕事』と表現したまでですよ」
「ようするに、国家転覆でしょ?」
「国家とはなんでしょうか? nation、state……なんでもよいですが、それらは全て、西洋の概念です。我々が持っているのは、ただひとつ、『中華』、すなわちユーラシア大陸東部に住むあらゆる民族を統合する概念のみ。そしてその中華には、常に王朝、すなわち人民を徳によって統治できる者が必要なのです。それが儒の基本的な考え方です。国際社会で承認された主権国家が、国民に選ばれた統治者を通じて云々、などというフィクションを、我々は採りません」
王の高慢な態度に、清美もだんだんと腹が立ってきた。
「フィクション? フィクションは、そっちでしょ? 立派な王様がいて、それがうまく人間を支配できるなんて、そんなことは地球上で一度も起きたことがないんだよ? 今から起こる可能性だって、ゼロだと思うけど?」
「フィクションではありません……理想です」
清美は、内心軽く舌打ちした。
なにが違うと言うのか。そう反論したかったが、敢えて口をつぐんだ。
「で、その『10億の民を食わせる仕事』は、どうやって実現するわけ?」
できるわけないだろう。
そう考えての、イジワルな質問だった。
「手始めに、五輪で発生している混乱を収束させます」
2度目の意外な答えに、清美は一瞬押し黙った。
「……オリンピックが、どうかしたの?」
「中華圏で祭典が行われることは、我々としても歓迎しています。一向聴や一気通貫も、大変喜んでおります……ただ、あなたのお連れは、違うようですが」
連れ。この言い回しが、清美はあまり好きではなかった。
蘆屋は彼女にとって……なんと言えばよいのだろうか。少なくとも、蘆屋が彼女を連れ回したり、彼女が蘆屋を連れ回したりする関係では、ないのだ。それに、清美が今行きたいと思う場所へ、蘆屋は決して同行してはくれないだろう。あの、七丈島へ。
「ところで、ひとつお尋ねしたいのですが、日本へお帰りになられるのですか?」
きた。清美は直感的に、これが探りであることを察知した。
「蘆屋くんに訊けば?」
「……」
ほら、みろ。清美は内心、舌を出す。大方、蘆屋本人に訊いてもはぐらかされたので、自分に質問を振ってみたのだろう。清美は、心ばかりの仕返しができたことに、なんとなく嬉しい気持ちになった。
とはいえ、王の発した質問は、清美も前々から気にかかっていた。
「王さんは、なにか知らないの?」
「なにか、とは?」
「その……蘆屋くんの、プランとか……そういう……」
言葉をにごす清美に、王は右肩をすくめて見せる。
「知りません。知っていたら、あなたには尋ねません」
「……だよね」
清美がうなだれる中、王は先を続けた。
「あなたご自身が決めればよいことではありませんか? 21世紀前半の経済成長で、中国の航空機なら格安という時代ではなくなりましたが……ツアーに潜り込めば、数万円で九州まで運んでくれますよ。切符の手配なら、一向聴がやってくれるでしょう。なぜか彼女は、やたらとあなたを構いたがっていますので」
「……ひとりで?」
清美の言わんとするところを察したのか、王は肩をすくめた。
「それは、私の関知することではありません。ひとりで帰るか、ふたりで帰るかは、あなたの説得次第でしょう……違いますか?」
「……」
あまりの正論に、清美はなにも言い返すことができなかった。
いや、言い返すことができないというよりは、王の言う通り、完全にプライバシーの問題であった。彼に相談したこと自体が、誤りであるようにすら思われた。
「……蘆屋くんは、どこにいるの?」
「トレーニングルームです」
「第三倉庫ね」
「……そうとも言います」
清美が礼を述べる前に、王は部屋から出て行った。
少女はしばらく目を閉じ、それから決心したように席を立った。目指すは、第三倉庫。潜伏中の廃ビル地下にある、コンクリート打ちっぱなしの物置きであった。錆びた階段を下り、鉄の扉を引き開けると、目の前に裸電球の灯りが見えた。
そしてその真下に、彼女が恋い慕う少年が立っていた。少年は、額に汗を浮かべながら、右手を前に出し、目をつむって、なにやらくちびるを動かしていた。それが、まじないの詠唱であることは、清美も熟知していた。その証拠に、彼の右手の指は、複雑奇怪な印を結び、ちらちらと青白い炎を放っているではないか。
その横顔に見蕩れながら、清美はあらためて、自分がこの少年に惚れていることを自覚した。公園で出会ったときに感じた、稲妻のような恋心ではなく、静かに燃え立つ、ちょうどあのオーラのように青白い、静かな恋慕であった。
「……一切清漸ッ!」
パッと室内が白み、清美は思わず、両腕で顔をおおった。
その輝きはすぐに消え去り、同時にガラスの破裂した音がした。左を見やると、幾本も並べられた酒瓶が、鋭利な刃物で切断されたかのように割れ、あたりに散らばっていた。破裂音と思ったものは、瓶が倒れたときに生じたものだろう。そう推察できるほど、切れ口は美しく一様であった。
蘆屋道遥はしばらく姿勢を保ったまま、呼吸を整えた。
そして、まぶたを閉じたまま口をひらいた。
「清美殿、いかがなされましたか?」
「ご、ごめん……トレーニングの邪魔だったね」
「いえ、構いません。ちょうど終えたところですので……なにか?」
少年はようやく、その澄んだ瞳を見せた。
口実も考えずにここへ来たことを、清美はひどく後悔した。
トレーニングの途中ならば、自分も参加したいと言えば済むところだが、こうなっては余りにも間が悪かった。
「その……どうしてるかな、と思って……」
「……そうですか」
会話にならぬ会話。
清美は、なんとももどかしくなった。
一方、蘆屋はそばに用意されたタオルで額をふくと、彼女から視線を逸らした。
「王殿が、なにかおっしゃられていませんでしたか?」
清美は、自分がスパイ要員程度にしか思われていないのではないかと、心が痛んだ。
「……日本に帰るのかって訊かれた」
「私が、ですか? それとも、あなたが?」
ふたりで、と言いたい気持ちを、清美はぐっとこらえた。
「……よく分かんない。どっちにせよ、自分には関係ないって言ってたよ」
「なるほど……王殿らしい」
「王とは、長い付き合いなの?」
清美の問いに、蘆屋は首をふった。
「いえ……1ヶ月ほど前、七丈島でお会いしたばかりです」
「七丈島で?」
清美は、クレムリンが七丈島に出没したときのことを思い出した。
もしかするとあのとき、蘆屋も王も島を訪れていたのかもしれない。だとすれば、彼女と蘆屋の付き合いは、王と比べても数日程度の差しかないことになる。
その仮定がなぜか、清美には好ましく思われた。
「そもそも、私が家督を継いだのは、今年に入ってからなのです。それまで蘆屋家は、当主不在の状態が続いておりましたので。老亀の後見のもと、私が元服するのを待たねばなりませんでした。しかし、予定よりも2年ほど遅くなってしまい……」
「当主不在? ……どうして?」
「あなたのお父上と私の父が、16年前に相討ちで亡くなったからです」
「……え?」
蘆屋の口から漏れ出た情報に、清美は絶句した。
頭の中が真っ白になるのを感じながら、清美は小刻みに震えた。
「そ、そんな……嘘だよね?」
「嘘ではありません……そのとき、母は私を既に身ごもっていましたので、血筋が途絶えることを免れただけです。安倍清明のほうも、日本政府が先代の精子を保存していなければ、それきりということになったはずですが……私とあなたがこうして顔を突き合わせているのも、紙一重の縁ということですね」
清美が押し黙る中、蘆屋はタオルを片付け、彼女に向きなおった。
その目は、どこかしら警戒心をいだいているように見えた。
「仇討ちをお考えですか?」
沈黙。清美は気持ちの整理もつかぬまま、首を左右にふった。
「そうですか……私も、今さら仇討ちがどうこうという気はありません」
「でも、きみとボクの家は、ずっと殺し合ってたんでしょ?」
なぜそのようなことを尋ねてしまったのか、清美にも分からなかった。
清美が言い訳を考えるよりも先に、蘆屋は言葉を継いだ。
「ええ、これまでは……いえ、なんでもありません。今の話は、忘れてください」
そんな無責任な。清美はそう叫びたくなったが、舌が動かなかった。
そして、全く別のことを口走った。
「ねえ……このあと、街に出てみない?」
「街にですか? 王殿がなんと言うか……」
「許可がいるの?」
「……いえ。ただ、北京警察が引き上げたかどうかも分かりませんし、昨晩のスタジアム崩壊で、警備が厳重になっている可能性も……」
「大丈夫だよ。ニュースだと、北京警察のボスは帰ったみたいだし、テロの心配はないって断言しちゃってるから。オリンピックの準備で、みんな忙しいみたい」
それが本当に理由になっているのか、清美自身、いぶかしく思った。
ところが蘆屋は、清美の思わぬところに反応を示した。
「北京オリンピックですか……」
蘆屋の顔が、それまでとは異なる険しいものへと変わった。
「オリンピックが、どうかしたの?」
「……いえ、なんでもありません」
嘘だ。清美は、直感的にそう思った。
しかし、その疑念を、彼女は胸に仕舞った。
「では、シャワーを浴びて来ますので、しばらくお待ちを」
清美は一瞬、蘆屋の裸を想像し、それを懸命に振り払った。
そのような妄想で汚してはいけないという気持ちが、どこかに芽生えたのだ。
蘆屋は、そんな清美の苦闘など露知らず、部屋の隅へと向かった。
「そっちは出口じゃないよ?」
「散らかった瓶を片付けねばなりません」
それから数分の間、ふたりは協力して、部屋の片付けにいそしんだ。
それすらも幸せに感じる、16歳の、夏の午後であった。




