第77話 一目娘を
深まり続ける闇の中で、ムサシは息をひそめていた。
影勝の手を逃れてから1時間。慣れない上海の地理に苦戦しつつも、ムサシは小さな廃工場の片隅に逃げ込んでいた。
(ここまで来れば、大丈夫か?)
ムサシは、手近なドラム缶を背に、腰を下ろした。ヒーロースーツを着ているとはいえ、限界は近い。スーツ自体のエネルギーが、底を突きかけているのだろう。ムサシは、そう推測した。
だが、変身を解くことはできなかった。いつ襲われるか、分からないからだ。敵は影勝だけではない。北京警察に見つかる可能性もあり、忍が上海に来ていないという影勝の言も、あまり信用できるものではなかった。
「一向聴たちは、どこにいるんだ?」
やや苛立った調子で、ムサシは辺りを見回した。物陰に、人の気配はなかった。天井がところどころ破れて、ビニール紐やケーブルが、すだれのようにぶら下がっていた。
見捨てられたのだろうか? その不安は、ビルを脱出するときもうっすらと感じていた。しかし、ムサシが影勝に捕まるかどうかは、一向聴たちにとっても死活問題のはずである。そのことを踏まえれば、はぐれたのではないかという推測のほうが、説得的であった。
あるいは、自分がそう願いたいだけなのかもしれない。ムサシは、自嘲気味に笑った。
ムサシは刀をかかえたまま、もう一度周囲を確認した……静か過ぎる。まるで、戦闘自体が終結してしまったような雰囲気だ。遠くから銃声が聞こえるわけでもなかった。
「負けたのか……?」
もしや、決着がついたのだろうか。
影勝の登場、行方不明の一向聴、上海の夜の静寂。
王サイド敗北の懸念が、ちらりとムサシの脳裏をよぎった。
……いや、負けてはいないはずだ。ムサシはしばらく考えて、そう結論付けた。もし王が敗北しているなら、あるいは圧倒的に劣勢であったならば、影勝はそれを説得の材料に使ったに違いない。戦況に言及しなかったということは、影勝視点から見て、勝敗はまだついていないとしか考えられなかった。
ムサシは、自分の推論に胸をなでおろし、それから大きく息をついた。目を閉じ、聴覚に神経を集中させる。天井から落ちる水滴の音や、工場の中をうろちょろするネズミの足音が聞こえてきた。
精子の提供者になったのは、この私だよ
ふと、耳の奥に、影勝の声が木霊した。
ムサシは一瞬だけ眉をひそめ、自分を落ち着かせるように、こうつぶやいた。
「だからどうしたんだ……」
強がりではなかった。半分は、本気だった。幼い頃から自分を育ててくれたのは、七丈島の生物教師だった御湯ノ水ただひとりであり、今日になって姿を現した、得体の知れない諜報機関の長ではない。
本当に血の繋がりがあるとしても、それは遺伝的な話だ。ムサシは、そう考えることに決めた。
「……ともえには変身できないな」
ムサシは、ぼそりとそう付け加えた。ともえはムサシよりも、感情の起伏が激しかった。仮にあそこで魔法少女に変身していたならば、心理戦に負けていたかもしれない。今から性別転換するのも、同じ理由ではばかられた。
ともえでは、実父を殺せないかもしれない。そう思った瞬間、乾いた金属音が鳴った。
「!?」
ムサシは飛び上がると、刀をかまえ、四方を一瞥した。
空き缶の転がるような音が、左手の方から聞こえてくる。ネズミか風が、いたずらでもしたのだろうか。ムサシは肩の筋肉をゆるめ、それと同時に視線を右へと移した。
「逆かッ!?」
ムサシは寸でのところで、右手から襲い掛かる殺気に気付いた。反射的に向きを変え、漏れ入る月光にきらめめいた刀身をよけた。
大きくジャンプしたつもりが、なぜか1メートルも満たない場所に着地してしまう。ムサシは気の動顛をおさえ、すぐさま闇を凝視した。
「……追いつかれちまったか」
目の前に立っているのは、紛れもなく影勝本人だった。例の怪し気な刀を上段にかまえ、静かな笑みを漏らしていた。
「よく見つけたな……発信機でも仕込んだのか?」
ムサシは左手のリストウォッチに、若干の重みを感じた。
おそらく、これが発覚のタネだろう。そもそも、数多あるビルの中から、ムサシの居場所を突き止められた時点で、そう考えなければならなかったのだ。ムサシは、自分の洞察力のなさに、後悔の念をおぼえた。
「考慮時間は十分に与えたつもりだ……降参するかね?」
「……あんた、この状況が分かってて言ってるのか? ふたりきりなんだぞ?」
「親子ふたりきり……かね?」
ムサシは眉間にしわを寄せ、くちびるをむすんだ。
「生身の人間と双性者がふたりきり……だ。まさか、あんたまで双性者やアンドロイドだったりするわけじゃないだろう? 動きは常人離れしてるが、一向聴たちと比べれば、遅い……ヒーローモードの俺には勝てないぞ」
勝利宣言を受けた影勝は、かるく笑った。
「……なにがおかしい?」
「とりあえず、頬の血をぬぐったらどうだ?」
「血……?」
そのとき初めて、ムサシの右頬に痛みが走った。
ツーっと、温かいものが流れる。その正体は確かめずとも明らかであった。
「ヘルメットが……壊れた……?」
ムサシは、ヘルメットの一部が切り取られていることに気付いた。位置的に見えるわけではないのだが、そこだけ外気を感じた。
「そんな……七丈島の戦いでも壊れなかったのに……」
「これでも、まだ勝つ気があるのかね? ……最後通告だ。投降したまえ」
ムサシは混乱していた。物理的にありえない。牛鬼との戦いで、凄まじい圧力をかけられても壊れなかったヘルメットが、おもちゃのように削られているのだ。
「チッ……これが、蘆屋退治の秘密ってわけか……」
しかし、正体が分からない。刀に細工がほどこされているのか、それとも影勝自身の能力なのか。常人であるという影勝の言を信じるならば、前者である。けれども、それを鵜呑みにするわけにもいかなかった。それ自体が、罠かもしれない。
無言になるムサシの前で、影勝はうつむき加減になり、首を左右にふった。
「投降せず、か……愚かな……」
ムサシが口をひらく間もなく、影勝は踏み込んだ。瞬時の判断で、ムサシは後ろに下がろうとした。ところが、間合いを見損なったわけでもないのに、引いた距離が足りなかった。胸元に振り下ろされた刀身を、ムサシはぎりぎりのところで受け止めた。
鋭い金属音が、廃工場の中にひびきわたった。
「勝てないと言っているだろう」
「ぐッ……」
おかしい。なにかがおかしい。足下が、いつも通りにしか動かない。ヒーロースーツで増幅されているはずの脚力が、今は感じられなかった。さらに、目下のつば迫り合いでも、ムサシのほうが若干押され気味だった。歯を食いしばって、なんとかその場に踏ん張るムサシ。これでは、普段の稽古と変わらない。刀を合わせれば合わせるほど、腕から力が抜けていくような感覚におちいった。
エネルギーを吸い取られている。そう気付いた瞬間、影勝は太刀筋を変えた。
一閃。闇の中に火花が散った。ムサシは自分の力だけを頼りに、体を動かした。右脚を軸にして、倒れ込むように身を引きつつ、左脚を杖代わりにして転倒をふせいだ。
「ッ!」
胸元に痛みが走った。斬られたことを自覚しつつも、ムサシは視線を相手に固定した。
影勝の顔から、余裕の笑みが消えた。
「今の動き……役立たずなヒーロースーツに頼るのは、止めたようだな……」
ムサシは剣を構えなおし、頬と胸の痛みを忘れて、神経を研ぎ澄ませた。
「ヒーロースーツがなければ、剣道が上手いただの高校生だ。私には勝てない。先ほどは最後通告だと言ったが、撤回しよう……いつでも降参していいぞ」
「……」
投了するか。ムサシの中で、もうひとりの自分がささやいた。
勝てない。その通りだ。ヒーロースーツが無効化されてしまえば、純粋な実力勝負。百戦錬磨の真剣師、影勝と、実力があるとは言え一介の競技者に過ぎないムサシとでは、差があり過ぎる。
一瞬、刀を捨てようかと思った。けれどもすぐに、清美の顔が浮かんだ。
蘆屋が負けても、清美は投降しなかった。ならば、自分もまた──
「どうした? 負けを認めないのか?」
「……認めない」
影勝は、嘲りの笑みを浮かべる代わりに、残念そうな雰囲気をただよわせた。息子をおもんばかってのことなのか、それとも隠密課として双性者を回収できないことを悔やんでいるのかまでは、ムサシにも分からなかった。
いずれにせよ、賽は投げられた。ムサシは束をにぎりしめ、第二撃に備えた。
影勝とのあいだで、間合いの見極めが始まった。
「……」
「……」
俊撃。きらめく切っ先が、ムサシの視界に飛び込んだ。
ムサシはそれを受け流したものの、踏み込みの強さに押され、バランスを崩した。
「死ねッ!」
ムサシは、敢えて崩れるに任せた。その動きを予期していなかったのか、影勝の刀は、ムサシの喉元寸前で空を切った。無理に体勢をもどせば、喉笛をかっ切られていただろう。自分の僥倖に感謝しつつ、ムサシは足払いをはなった。
「くッ!」
影勝も俊敏に反応し、2、3歩後ろへと飛びのいた。
その隙を利用して、ムサシも膝を上げた。立ち上がる間もなく、頭上を影勝の剣が襲った。
ムサシは右手を刃にそえ、刀身を盾にしてその一撃を防いだ。そえた手の平に衝撃が走り、肘が痺れた。殺しに来ている。今さらながらに、ムサシは相手の本気を察した。
「守るだけで精一杯か?」
ムサシは歯を食いしばり、影勝の押さえ込みにあらがった。
押し切れないと見たのか、影勝は刀をもどした。その瞬間、ムサシは反撃に出た。抵抗していた力をそのまま利用し、大きく一閃を決めた。影勝は顔をしかめ、後ろに飛びのいた。
……影勝の衣服が切れている。ムサシは、手応えを感じた。
「どうやら、あんたが粋がってるほど差はないようだな」
ムサシは立ち上がり、呼吸をととのえた。
冷静になるにつれて、ムサシはあることに気付き始めた。ヒーロースーツの力は奪われているのだが、その奪い方が完璧ではない。その証拠に、これだけ動いた後も、練習後に感じるような息切れは起きていなかった。
しかしだからと言って、有利になったわけでもなかった。影勝の攻撃に対して、ムサシは防戦を強いられている。攻めに出ようにも、隙がなさ過ぎるのだ。
「埒が開かんな……」
影勝は、わずかにかすれた声で、そうつぶやいた。やや疲れが見えている。
守り切れる。わずかな希望が見えたところで、影勝が動いた。
一直線に振り下ろされる刀を目がけて、ムサシは剣をふるった。
「攻めが単純なんだ……よッ!?」
金属のぶつかる音と同時に、影勝の刀が宙を高く舞った。
はじいたのか? そう思った瞬間、右頬に強烈な痛みが走った。破損したヘルメットの露出部分に、影勝の拳が食い込んだ。
罠だ。肉弾戦を想定していなかったムサシは、そのまま後ろに倒れ込んだ。
ムサシの視界に、跳躍する影勝の姿が映った。
「得物を捨てるのも手よッ!」
影勝の手が、重力に引かれて落下を始めた刀の束へと伸びた。
ムサシは起き上がろうとしたが、それでは回避になっていなかった。
万事休す。ムサシが目を閉じかけたそのとき、物陰からネズミが飛び出した。
「錯和!」
「!?」
刀が、闇の中にぶら下がっていたケーブルにぶつかった。その拍子に天地が逆転し、鋭利な剣先が影勝の胸へと襲い掛かった。
「なッ!」
空中で姿勢を制御できない影勝は、身をよじったものの、そのまま刃に突っ込んだ。
ストンという、肉切り包丁のような音がし、影勝の体が硬直した。
ムサシは、目の前の出来事を把握できないまま、口を開けてその光景を眺めていた。
影勝の肉体はそのまま落下し、土ぼこりを立てて地面に衝突した。
「ムサシ! 大丈夫アルか!?」
ネズミはその姿を変え、ひとりの少女へと転じた。
「一向聴……おまえ……」
もう一匹のネズミが、からっぽの缶詰から顔をのぞかせた。
「やれやれ、間に合って良かったよ。一か八かの賭けだったけど、大当たりだ」
その声にも、ムサシは聞き覚えがあった。案の定、ネズミは十三不塔へと変じて、汚れた手の平をはたいた。
ふたりはムサシを抱き起こすと、頬の傷をのぞきこんだ。
「……出血してるけど、大したことないかな」
「ばい菌が入ったら大変ネ。早くアジトにもどるアル」
「うぅ……」
苦し気なうめき声。3人は、影勝へと向きなおった。
……生きている。刀は胸を貫いているが、即死は免れたらしい。だが、Yシャツを染める血の量は、それが致命傷であることを物語っていた。
ムサシは顔をそむけ、一向聴に礼を述べた。
「助かった……感謝する……」
「かまわないアル。こっちこそ、遅れて悪かったネ。村正に変な能力があるから、刀を手放すのを待ってたアル。でなきゃ、あたしの錯和も効か……」
「ムサ……シ……」
影勝の呼びかけに、ムサシはハッとなった。
意を決したように、影勝のそばへと近寄った。
「危ないヨ! 油断しちゃ駄目ネ!」
一向聴の制止を無視して、ムサシは影勝の横に腰をかがめた。
くちびるから血を流す影勝は、うつろな目でムサシを見つめ返した。
「……あんた、ほんとに俺の父親なのか?」
ムサシの問いに、影勝は微妙な笑みを浮かべた。そして、小さくうなずいた。
「御湯ノ水博士は、このことを?」
うなずき返す影勝。ムサシは視線を泳がせた。
「そうか……知ってたのか……」
「もし……こういう形でなければ……おまえを柳生家の跡継ぎに……」
「俺を? ……ほかに子供はいないのか?」
影勝は目を閉じ、さみしげに笑った。
「おまえ……だけだ……」
ムサシは、戦いのときよりも速まる鼓動をおさえ、影勝の話に耳をかたむけた。
「おまえは……責任が取れるのか……蘆屋と王に加担した……?」
「……取れないだろうな」
ムサシは、本音を漏らした。
それから幾ばくか逡巡し、言葉を継いだ。
「だが、俺は清美との約束を果たす。それが今の俺にできる、唯一のことだ」
「友人のために……社会を……犠牲にする……か……」
「……清美との約束は、俺に残された最後の拠り所だ。根無し草にはなれない」
ムサシの決然とした答えに、影勝は口元をほころばせた。
まるで、息子の奔放さにあきれたような、父親の笑みだった。
「世の中は……理想のみで生きられるほど……甘く……ない……ぞ……」
「……そうかもな」
ムサシの返答に、影勝はもう一度まぶたを上げた。
命の光が、消えつつある。それは、医者でないムサシにも、はっきりと分かった。
「あんた……いや、親父。トモエの姿も見たいか? ……親父の一人娘だ」
息子の提案に、影勝は目を細めた。首を縦に振る。
ムサシはその場で、性別転換を遂げた。髪が流れ、シャツが肩からずれる。
美しい少女に変身したムサシは、父親にその顔を見せた。
「奇麗だ……」
影勝はそう言い残して、目を閉じた。トモエはハッとなり、手を伸ばした。
その腕を、だれかがつかんだ。ふりかえると、同情するような一向聴の顔が見えた。その表情が物語るところを、トモエは瞬時に察した。
「……死んだアル」
父親の死を宣告されたトモエは、堰を切ったように、涙があふれるのを感じた。
ムサシのままであれば、胸の内に仕舞い込めたであろう悲しみが、爆発する。
トモエは影勝の遺体にすがりつくと、血に濡れるのもいとわず、むせび泣いた。




