第74話 秘されていた作戦
カオルは、いらだっていた。人質という立場に、ではない。自分がなにもできないということに対してだ。その無力感を増幅させるのは、天和とアナスタシアの会話だった。アナスタシアは軍事衛星を使って、天和は千里眼を使って、戦場の様子を逐一報告し合っていた。そのことが、カオルには酷くもどかしかった。
「今、どっちが勝ってるんだ?」
カオルは椅子に座り、前のめりになりながら、ふたりの顔を交互に見比べた。天和は扇で頬をあおぎ、アナスタシアは黙って天井を見上げていた。
無視されたか。カオルは、少しきつめに言いなおした。
「おい、どっちが勝ってる?」
やはり返事がない。あるいは、眼中にないということなのだろうか。
カオルはわざと聞こえるように舌打ちし、それから頭をかいた。神経を逆なでされることばかりだが、ここは冷静にならねば。そう思ったのである。
人質がおとなしくなったからなのか、それとも、計算がようやく終わったからなのか、アナスタシアがくちびるを動かした。
「全体的に押され気味です」
カオルは顔を上げ、天和に確認を求めた。
天和は静かに扇を下ろし、軽くタメ息をついた。
「そのようですね」
カオルは椅子を引き、一歩前に出た。金属パイプが、リノリウムの床とすれあった。
「おまえの立てた計画だ。他人事じゃないだろ?」
「確かに、これはわたくしの計画です……まあ、そう焦らないでください」
「焦っちゃいないさ。別にあんたたちが負けても、俺には関係ないからな」
カオルは、本音を告げた。嘘ではない。王傑紂の組織が壊滅したからと言って、それがどうしたというのか。問題があるとすれば、自分たちがふたたび隠密課に追われること、それくらいだ。ここで人質になっているのと、大きな違いがあるとは思えなかった。
カオルの思考を読んだのか、天和はややしぶい顔をした。
「ええ……あなたがたにとって、勝敗はどうでもよいのかもしれません」
「だったら、もうちょっと真面目にやるんだな」
説教じみてきた会話に、カオルは自分でも首をかしげげた。
あまり深入りしないほうがいい。そう思って、口をつぐんだ。
すると今度は、アナスタシアが会話に割り込んできた。
「私が出撃しますか?」
アナスタシアの提案に、天和はすぐさま首を振った。
「それが相手の狙いです。敵の動きからして、あなたの所在地が確認できなかったので、おびき出す方針に変更したのでしょう。手当たり次第、攻撃しては退却を繰り返しています。おかげで、この場所にはまだ踏み込まれていませんが……」
「しかし、このままではジリ貧です。それに暇なのです」
「あなたは、ここにいるだけで意味があるのです。前線に立たれては、計画が狂います」
「あなたの計画には、必ずしも従う必要はありません。不合理と判断します」
アナスタシアはそう言って、椅子から立ち上がろうとした。テスラもそれに続いた。
だが、天和はそれを許さなかった。
「あなたも気が早い。まだ始まったばかりではありませんか」
「私は、コンピューターが指示する最善の解に従うだけです。北部方面は、謎の生命体が特異点となって、予定より深く侵入されています。また、南部方面は、安倍清明が、あまり戦力になっていません。これは、あなたの誤算です」
ミスを咎められたにもかかわらず、天和は静かに笑い返した。
「いえいえ、誤算ではありません。あなたは、上海の情勢しか見ていないので、そのように判断なさっているだけですよ。なるほど、上海を箱庭のように眺めれば、わたくしたちの劣勢は明らかです。しかし、他にも様々な要因が絡み合っていることを、お忘れなく」
「……では、他にどのようなファクターがあるのか、答えてください。適切な回答がない場合は、私の独断で出撃させてもらいます」
アナスタシアは鋭い目付きで、天和を睨みつけた。それは、カオルがシベリアの奥地で見た眼差しよりも、ずっと人間的になっていた。彼女の中で、感情の回路が、さらに進化しているということなのだろうか。瞳孔が、怒りを帯びているようにすら見えた。議論に対して感情的になる人工知能。そのことを、カオルは危ぶんだ。
「そうですね……あなたには教えてもよいのですが……」
天和は、ちらりとテスラを盗み見、それからカオルにもそうした。
そして、アナスタシアを手招きした。
「……なんですか? この場で答えてください」
「少々、物騒な話ですので……」
内密に、ということか。カオルは、同じく蚊帳の外に置かれたテスラに、目配せした。その視線に気づいたテスラは、半分ふざけた調子で、肩をすくめてみせた。興味がない。そう言っているようだ。それとも、仕方がないと言っているのだろうか。いずれにせよ、天和を説得する道は、あきらめているように思われた。カオルも、テスラの判断に合わせた。
アナスタシアは立ち上がると、地面のコードに気をつけながら、天和に歩み寄った。そしてその形のよい耳を、天和のそばに近付けた。
天和は扇で慎重にくちびるを隠すと、アナスタシアに耳打ちした。
「実は……」
○
。
.
燃え上がる男が、断末魔を挙げながら、清美の前を通過した。
清美は耳を塞ごうとするが、それよりも先に銃声が聞こえた。息つく暇も無いとは、このことだ。心の整理がつかないままに、清美は右手を上げ、第二弾を放つ。青白い光が、倉庫の隅に隠れていた一団を襲った。弾け飛ぶドラム缶と悲鳴。命中したのか、それとも外れて敵が四散しただけなのか。
清美はそのことを確認せずに、背後の蘆屋に声をかけた。
「そっちは?」
息が上がっている。大声を出したつもりが、かすれ声になっていた。
「こちらもなんとか……」
蘆屋の返事も、同じように疲労の色を帯びていた。
銃声がいったん止んだことを確かめ、清美はさらに言葉を継いだ。
「王は? どこ行ったの?」
「ここにいますよ」
天井からの声。ふたりが上を振り向いた瞬間、鉄骨の上に複数の人影が見えた。
しまった。上に展開されていた。そのことに気付くが早いか、蘆屋は清美に飛びつき、地面に突っ伏す。コンマ零秒の遅れで、火薬の燃える光と、発砲音。2、3発が頬をかすめ、清美は生きた心地がしない。
だが彼女の目は、天井を鳥のように飛翔する、王の舞に向けられていた。舞というのは、比喩である。しかし、本当にそう思えるほど美しい動きで、王は右から左へ、左から斜線を引いて後方へ、鉄骨の上の兵士を蹴散らしていった。自分たちとは違い、一抹の疲労も垣間見せないその姿に、清美は驚嘆と恐怖をいだいた。
王は5人目の兵士の喉元を蹴り上げ、鉄骨から突き落とすと、そのまま地面に降りた。なにかが折れたような嫌な音と、すとんという靴音が、倉庫の中に聞こえた。前者の正体について、清美はなるべく考えを巡らさないようにした。
「大丈夫ですか?」
清美はふと、自分が蘆屋にのしかかられていることに気付いた。
頬を染め、必要以上に何度もうなずきかえす。
「大丈夫……大丈夫だよ」
「そうですか……」
蘆屋の声に変調が起こったのを、清美は見逃さなかった。
なにかあったのではないかと、蘆屋を優しく押しのけながら、相手の身体を気遣った。
すると、肩の布地が赤く染まっていた。
「う、撃たれたの?」
清美は、衣服に触れようとしてしまった。高校での看護経験のなさが、如実に露呈した。その腕をつかんだのは、負傷していた蘆屋本人ではなく、王だった。
「怪我人に触れてはなりません」
「ご、ごめん……」
王の手は血塗れだった。清美の二の腕に、鳥肌が立った。
けれどもそれは、他人事ではなかった。彼女の手もまた、血で汚れていた。清美は友人たちとの再会を思い、身震いした。彼らは自分の手をふたたび取ってくれるだろうか、それとも、今の清美が王にしたのと同じ、拒絶の反応を示すのか──
分からない。なにもかもが、分からなくなり始めていた。
「戦えますか?」
王は、蘆屋が清美にしたのと同じ質問を、蘆屋自身に向けた。
蘆屋は、静かにうなずいた。
「大丈夫です……傷口は、気で塞ぎましたので……」
「それなら結構です……やはり、体調が万全ではないようですね」
王の指摘に、蘆屋は視線を一瞬地面に落とした。七王子公園で相見えたときの覇気が、少年からは消えていた。そのことは、清美も薄々気付いていた。
言い出せなかったのは、蘆屋を負傷させた張本人が、清美自身だったからである。蘆屋と相打ちしては蘆屋一族を壊滅させ、隠密課を裏切っては忍たちを不利にし、今はこうして、足手まといなポジションに収まっている。自分は貧乏神なのではないかと、そんな気さえしてきた。
王だけは淡々として、言葉を続けた。
「とりあえず、敵の第二波はあらかた……」
王は瞬時に振り向き、倉庫の片隅に向かって、赤い気弾を放った。それは、蘆屋道遥からコピーした、陰陽師の能力だった。気弾は穀物の袋にぶつかって爆発し、煙の中から数発の銃声が聞こえた。清美は慌てて頭を下げたが、銃弾はあらぬ方向に飛んだようで、そばをかすめる気配すらなかった。
男の悲鳴と同時に、王は清美たちに向きなおった。
「今ので最後かと。さて、どう致しましょうか?」
王は清美たちに、今後の作戦をたずねてきた。
清美はそのことに、違和感をおぼえた。
「それは……天和って人が考えるんじゃないの……?」
王は難しい顔をして、爪先を45度ひらいた。
「天和からは、散開戦術を指示されています。中央にアナスタシアを配置し、あの人工知能を囮に、北京警察を翻弄する作戦です」
「え?」
それは、自分が聞いた話と違う。そう言いかけた清美だが、先に蘆屋が口をひらいた。
「味方にも情報を伏していたということですか……」
「……悪く思わないでください。これも計略のひとつです」
「敵はアナスタシアを追っていると、そうお考えなのですか?」
王は、首を縦に振らなかった。だが、横に振りもしなかった。
表情は変わらず、清美からはどちらとも判断がつきかねた。ただ、王の統率力と、天和の情報収集能力からして、答えはイエスな気がした。
そう考えた清美は、
「アナスタシアを追ってるなら、彼女を上海の外に逃がしちゃえばいいんじゃない?」
と、思いついたことを適当に口走った。
王は、しぶい顔をした。
「どのように決着するのか、それは天和に見えているはずです」
清美はあらためて、組織の信頼関係に驚いた。
だがさすがに蘆屋も信じられなかったらしく、
「見えているとは、どういう意味ですか? 勝敗も分かっていると?」
とたずねた。
王は、深いタメ息をつくと、わずかに上半身を動かした。襟を正し、服装の乱れを気にしながら、自分の四肢を眺めた。
答えをはぐらかされたようだ。清美たちは、それ以上の深入りを断念した。
王は話題を変えた。
「第三波が来るかどうか、それが当面の問題です。どう対処するおつもりで?」
それはこっちの質問だ。清美は、そう叫びかけた。
蘆屋は肩で息をしながら、
「開戦から2時間が経過しています。敵方も、そろそろ戦術を変更してくる頃かと」
とだけ言って、倉庫の中に斃れ伏す男たちを一瞥した。
ある者は血の海に沈み、ある者はその面影が残らないまでに焼け焦げていた。清美が手をかけた兵士も、その中にはいた。
清美は、思わず目を逸らした。
王はうなずいた。
「そうですね……どうも様子がおかしい。蘆屋殿は、どうお考えで?」
「私が北京警察ならば、前線を突っ切って、中央に殺到する策を用います」
蘆屋の助言に、王は興味深そうな眼差しを向けた。
紅を引いたくちびるから、うっすらと笑みが漏れた。
「ほお……どのような意図か、お聞かせください」
「あの人工知能が前線に出ていないことは、敵方も気付いたはず。ならば、彼女が匿われていそうな場所……つまり、円形になった前線の中心点に当たりをつけ、そこを数の差で圧倒する……これが最も目的に適った作戦かと思います。アナスタシアの回収と我々の殺害のどちらかを、敵があきらめると仮定しての話ですが……」
王は首を縦にふった。倉庫の入り口へと視線を向ける。清美もそれを追った。
嵐の前の静けさとは、このことだろうか。不気味な静寂が広がっていた。夜光灯とそれに集まる虫の群れだけが、闇の中ではっきりと見分けられる唯一の対象だった。
「蘆屋殿のおっしゃることは、ごもっとも。二兎追う者は一兎も得ず。敵がそれを嫌うならば、目標をひとつに絞ってくるはず……だとすれば、アナスタシアのほうですか。ここまでは天和の読み通りとして、手駒の私たちがどう動くか……」
自分のことを手駒と評した王は、その場で2、3歩、虎のように闊歩した。
背中に手を回し、胸を張って、やや斜め上を見つめていた。
「……調虎離山。こちらにおびき出すとしますか」




