第65話 恋のアドバイス
汗ばんだ肌と肌が、寄りそうように触れ合っていた。愛する人の吐息を感じながら、清美は指先に神経を集中した。
「もう少し呼吸をととのえてください」
少年の指導を受け、清美は目を閉じた。この動悸は、激しい訓練のためだけではない。蘆屋道遥がそばにいる。その事実が、彼女の鼓動を速めていた。本来ならば、宿命のライバルとして生を受けたはずのふたり。そのふたりが、こうしてお互いに陰陽術の鍛錬にはげんでいることが、彼女にはとても不思議に思われた。
「気を指先に集めてください……全身の血液を一点に集約するような調子で……」
清美は、歯をくいしばり、疲れ切った肉体に鞭を打った。指示された通り、全身の気をひとさしゆびの先に集中させた。爪の周囲がほのかに温かくなり、清美はたしかな感触をえた。
「それを弓のように引き絞ってください」
蘆屋に言われた通り、清美は気の塊をいったん収縮させる。それに反比例して、あらがいがたい放出の衝動がほとばしった。ここで緩めてはいけない。清美は、眉間にしわを寄せた。
「今です」
目を見開き、清美は気弾を放った。淡い光が指先から飛び出し、正面の的に命中した。木盤が八方に飛び散り、ぱらぱらと破片が床で音を立てた。
清美は大きく息をつき、肩を落とした。崩れそうになる膝を支えるので精一杯だった。
「ここ数日で、ずいぶんと上達しましたね」
蘆屋はそう言うと、清美から体を離した。もっと触れていたいという想いと、今は休ませて欲しいという願いが、少女の中で交錯した。どちらかと言えば、後者がまさっていた。それに蘆屋の賛辞は、どこかお世辞めいていた。清美が1分ほどかかる練気を、蘆屋はほんの数秒で完了できるのだ。上達と言っても、その差はあまりにも大きかった。
清美は額の汗をぬぐう。暑くてたまらない。この施設には冷房装置もないのかと、彼女は内心落胆した。王傑紂の隠しアジトに案内されて、早1週間。最初は北京へ移動するという話だったのだが、まったく動く気配がなかった。
清美の横で、蘆屋は涼しい顔をしていた。陰陽師ともなれば、体温の調節くらいは簡単にできるのだろう。清美は、汗まみれになっている自分が、妙に恥ずかしくなった。
「ねえ……ボクたちはこれからどうなるの?」
清美の問い掛けに、蘆屋は無言でミネラルウォーターをさしだした。
「あ、ありがとう……」
清美がキャップを開け、口をつけた途端、蘆屋はさきほどの答えを返した。
「とりあえず、緊急事態だと聞いています」
清美は飲み口からくちびるをはなし、眉をひそめた。
「緊急事態?」
「王の組織も、我々と同様、壊滅寸前だとか。北京へ移動しないのも、そのためでしょう」
「ってことは、ここも安全じゃないの?」
そうたずねた清美だが、すぐさま愚問であることに気がついた。蘆屋道遥から見れば、安全な場所など、どこにもないのである。彼は常に、警察組織と戦い続けてきた。今さら身の回りの危険に、心を取り乱すような人生を送ってはいなかった。
しかし、それは彼に当てはまることではあっても、清美には当てはまらなかった。清美はつい最近まで、ただの女子高生だったのである。性別を変えれば、ただの男子高生。なんの変哲もない人生だった。性別転換できることだけが、唯一の特異点だった。
そんな彼女がどういうわけからか、日本を代表する悪と、行動をともにしている。そして、その悪の首領を愛してしまっていた。心から。
清美の心の琴線など露知らず、蘆屋は言葉を継いだ。
「王は、私に会いに来るはずです。この状況はもはや、日中合策でしか乗り越えられませんので……おたがいに不本意なことですが……」
不本意。清美はその言い回しに、蘆屋と王のプライドを感じた。東京の事変ですら、蘆屋は他の悪の組織に援助を求めなかったのだ。エミリアの部下と微妙な駆け引きがあったとはいえ、あれも一方的な援軍である。少なくとも、清美にはそう思われた。
重苦しい雰囲気。清美が話題を変えようとした瞬間、部屋の扉がひらいた。
「アイヤ、ここにいたネ」
中華服をまとった背の低い少女が、ひょっこりと顔をのぞかせた。
一向聴だ。彼女はにやにやしながら、清美に手を振った。
「お邪魔だったアルかー?」
清美は頬を赤らめ、そっと視線を逸らした。
こういうとき、同性の勘というものは恐ろしい。清美の片想いは、このアルアル少女にだけは、なぜか筒抜けになっていた。白状したわけでもないのに。
一向聴は、いらだつ少女を無視して、蘆屋のほうえ振り向いた。さすがに上下関係を意識しているのか、彼女の顔も、にわかに真剣味を帯びた。
「もうすぐ、ワン様がいらっしゃるヨ。できれば、お会いしていただきたいネ」
清美はハッとなり、蘆屋の横顔を見た。均衡が取れ過ぎて、かえって妖しさすら漂わせている少年の美貌に、清美はますます体が火照るのを感じた。
しかし、その気持ちは到底伝わらない。
「喜んで……そのようにお伝えください」
「それなら、控え室へいらして欲しいネ」
「……分かりました」
蘆屋は部屋を後にした。去りぎわ、清美を軽くまなざした。
「緑川さん、あなたが我々に協力するかどうかは、あなたの意志にゆだねます。無理強いしたところで、精神に負荷をかけるだけでしょう。そうなれば、戦力にはなりませんので」
「うん……考えとく……」
蘆屋は扉の向こうに姿を消した。
それを見送った清美は、がっくりと首をたれ、溢れそうになる涙をこらえた。それを見かねた一向聴は、気ぜわしく彼女に忍びよった。
「どうしたアルか? 気分でも悪いネ?」
清美は首を振った。目尻を指でぬぐう。
一向聴も理由を察しているのか、なだめるように言葉をかけた。
「大丈夫アル。恋は長丁場ネ。あせっちゃダメよ」
「それは分かってるけど……」
清美は思った。恋の成就は、アタックしている期間ではない、と。一目惚れとまではいかなくても、1年後、2年後、突然好きになるという話は、あまり聞かない。ほとんどの場合は、第一印象である。清美自身、そうだったのだから。蘆屋のことが好きなのは、彼と長年付き合ってきたからではないのだ。
以心伝心。一向聴はさらにつけくわえた。
「蘆屋は鈍感タイプね。他の女の子に興味があるわけじゃないから、がんがん攻めれば、そのうち押し倒せるヨ」
「べつに、押し倒したいわけじゃないんだけど……」
一向聴は、おどけたように肩をすくめてみせた。
「たとえ話アル。殺し合いをしたのに恨まれてないから、大丈夫ヨ。普通なら、とっくに破綻してるアル」
それもそうだ。蘆屋に傷を負わせたのも、組織を壊滅状態に追い込んだのも、もとはと言えば、七王子市民公園での死闘が原因である。蘆屋からすれば、殺しても飽き足らない存在に違いない。にもかかわらず、蘆屋は自分と一緒にいることを選択してくれていた。
それとも、内心は殺すチャンスをうかがっているのだろうか。清美は、不安になった。
「ところで、さっきの話はどうするアルか?」
「さっきの話……?」
「あたしたちに協力するかどうかヨ」
現実的な問題に引きもどされた清美は、難しい顔をする。本当に難しい問題なのだ。
蘆屋には協力したい。しかし、だからと言って、公権力に逆らう気も起きなかった。勝ち目のある勝負なのか、それすらもおぼつかない状況である。伝聞でしか情報を入手できていないものの、全体的な印象にもとづく限り、蘆屋と王のがわが不利なように思われた。
「……まだ決めてない」
清美の正直な答えに、一向聴は首をひねった。
「好きな人を見捨てるアルか? それでも女の子ネ?」
「いや、見捨てないよ……というか、彼と一緒に逃げたい……」
マズいことを言ってしまったか。清美は口をつぐんだ。
一向聴はあきれたように、両腕を後頭部で組んだ。
「薄々思ってたアルが、清美はほんとに打算的ネ」
打算的。そのこと自体は、清美も認めざるをえなかった。ゲンキたちからも、時々冗談半分でそう言われることがあった。
それにしてもなぜ、「清美」と呼び捨てになっているのか、そちらの方が謎であった。一向聴とも、七丈島では生死を賭けて2度も戦っている。しかも1回は、清美の策略でノックダウンさせられているのだから、もっと険悪な仲であってもよいはずだ。
被害者が蒸し返さないならば、放置しておこう。清美はここでも、打算的な選択肢に飛びついた。そこへ一向聴が、意外な言葉をかけた。
「蘆屋はそういうのが、あんまり好みじゃないと思うアル」
「……好みじゃない? ボクが、彼の好きなタイプじゃないってこと?」
「腹黒い女は嫌いだと思うネ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「蘆屋一族は、もともと堅物の家系アル。でなきゃ、環境保護のために日本政府と戦ったりしないヨ。もっと他のことに能力を使えばいいだけネ。お金も一杯儲けられるアル」
清美はショックを受けた。泣きそうになりながら、二度目のタメ息をついた。
「……まあ、そう落ち込まなくてもいいアル。ただ、逃げ出すとしても、今は勘弁して欲しいネ。こっちは、全然戦力が足りてないヨ」
「ボクは戦力になってないと思うけどね……」
清美の謙遜を、一向聴は否定した。
「そんなことないアル。魔法少女のときなんか、けっこう強かったアルよ」
自分が負けたせいか、一向聴は魔法少女の能力を過大評価しているようだった。実際には魔法弾の連射もできなければ、超人的な身体能力もないのである。
だが、くよくよしていても仕方がない。それに、ここから逃げ出すとすれば、それは蘆屋との駆け落ちしかないのだから、望みは薄いように思われた。
清美が3度目のタメ息をつきかけたとき、室内で男の声がした。
「逃げ出すなら、俺も連れて行ってもらわないとな」
ふたりはサッと振り返った。
長い髪をむすんだムサシが、木刀を肩にして、入り口のそばに立っていた。
「ム、ムサシ、いたの?」
「いや、今来たばかりだ。盗み聞きの趣味はない」
清美はムサシを信頼した。自分たち5人の中では、一番嘘が苦手な人物である。そもそも、嘘を吐きたがらない。そのあたりが、清美とは対照的であった。ムサシの女バージョンであるトモエも同様で、ふたりとも校内では人気が高かった。
ムサシはトレーニングルームに入ると、一向聴を見下ろした。
「さっき蘆屋とすれ違ったが、なにかあったのか?」
一向聴は真剣にうなずきかえした。
「いよいよ、最終決戦アル」
「中国政府と、のか?」
一向聴は、力強く首肯した。
ムサシは視線を上げ、手近な壁を見つめた。
「……勝ち目はあるのか?」
猜疑心に満ちた調子で、ムサシはたずねた。どうやらムサシには、王の組織がどのような状態にあるのか、薄々察しがついているらしかった。そのあたりは、常日頃から武人を心がけている彼の勘が為せる技だろう。清美は、そう思う。
一向聴は両手に拳をにぎり、いきり立った。
「勝つ勝たないじゃないアル。絶対勝つアル」
「戦は、精神論じゃ勝てないぞ」
ムサシはそう言うと、ポンと一向聴の頭を叩いた。身長差があるせいか、大人が子供の頭をなでているように見える。一向聴は、ムッと口元をゆがめた。
「四風仙はまだ残ってるし、こっちには策があるヨ」
四風仙の名を聞いても、清美はあまり心強くなれなかった。一向聴がそのひとりなのだから、他の面子もたかが知れてるだろう。そう評価したのである。もうひとりの十三不塔にしても、あまり強そうには見えなかった。
「策ってのは?」
ムサシが、あまり期待していない調子でたずねた。
「そ、それは……天和が知ってるアル」
口ごもる一向聴。あきれる清美とは対照的に、ムサシは逆に関心を示した。
「てんほー? 誰だ、それは?」
「あたしたち四風仙の筆頭ね。今、大逆転の方法を考え中アル」
ムサシは、木刀の柄で肩を叩いた。首を鳴らし、それからくちびるを動かす。
「ま、悪くはない。諦めが悪いのは、な」
それを最後に、沈黙がおとずれた。
気まずいというよりは、しんみりとした空気が流れ始めた。
その空気を破ったのは、やはりムサシだった。
「ところで、日本のほうはどうなってるんだ? 蘆屋一族は滅亡したのか?」
「め、滅亡はしてないはずアル……そういうニュースは入ってきていないネ」
「牛鬼の話だと、全員京都に逃げたらしいが……」
清美も、成田空港での会話を思い出した。機内食のボックスへ隠れるとき、マーシャルと牛鬼が、そう打ち合わせていたのを覚えていた。マーシャルも上海へ飛んだが、牛鬼は京都へ向かうと言っていた。
しかし、それは国内逃亡に過ぎないわけで──
「日本国内じゃ、そのうち見つかるだろう。敵の戦力分散に期待するしかない」
ムサシは、事態を冷静に分析した。
そこへ、さらに別の少年の声が入った。
「戦力分散はしないと思うよ」
3人は、あたりを見回す。誰もいなかった。
だが耳を澄ますと、かすかな羽音が聞こえてきた。一匹の蠅だった。蠅は一向聴の頭に止まると、ぽんと煙を立てて、小さな男の子の姿に変じた。いきなり重量を掛けられたにもかかわらず、一向聴は絶妙のバランス感覚で、男の子を肩車した。
「十三不塔! そういう登場の仕方はダメね!」
「まあまあ、いつものことじゃん」
おどける十三不塔をよそに、ムサシは話をもどした。
「戦力分散しないってのは、どういうことだ?」
十三不塔は、一向聴の頭のお団子を手綱のように握り、それから答えを返す。
「日本の支部から特報が入ったんだよ。どうやら隠密課は、北京警察と合流する作戦に出た模様、ってね」
その情報に、3人は軽く青ざめた。一向聴は、大げさに地団駄を踏んだ。
「それじゃ絶対に勝てないアル!」
ムサシはあきれて、
「おいおい、さっきは勝つって言ってただろ……」
とつぶやいた。
十三不塔は相方を放置して、説明を続けた。
「蘆屋一族の残党には、隠密課を釘付けにしてもらいたかったんだけど……こうなると厳しいよね。柳生影勝も、こっちへ向かってるらしいし」
十三不塔の口から漏れた名前に、ムサシは眉をひそめた。
この中で彼のことを知らないのは、ムサシひとりである。
「柳生? 日本人か?」
「隠密課の課長さ。表向きは、柳生コンサルタント代表取締役だけどね。七王子自然公園の開発も、柳生コンサルタントが元締め。ようするに、官民癒着のパイプ役ってこと」
詳細な情報に、清美も感心した。一向聴と違って、十三不塔はそこそこ頼りになる。
「代表取締役? なんでそんな奴が、隠密課の課長なんだ? ただの悪徳商人だろう?」
「違うね。柳生一族は、徳川の時代から、権力者の懐刀だったんだよ。コンサルト会社の経営は、そのことに対する報酬。本業はあくまでも、日本政府のお守りさ」
「ってことは、強いのか?」
「悪の組織なら、幹部クラスかな。マーシャルさんに傷を負わせたのも、彼だし」
清美は、蘆屋邸で見たマーシャルの怪我を思い出す。流れ弾に当たったのかと思ったが、まさか人間に負わされたものだったとは。吸血鬼と互角に渡り合える人材がいることに、清美は驚嘆した。
「ところで十三不塔は、なんの用アルか? 遊びに来たなら、いい加減に降りるアル」
一向聴が苦情を述べるや否や、十三不塔は思い出したようにポンと手を叩いた。
「そうそう、ワン様から伝言。この場にいる全員、会議室へ来いってさ」




