第55話 女子会
ベルギー、ブリュッセル──
ひとりの女が、にぎわいのある通りのカフェでコーヒーを飲んでいた。夏めいてきた日差しを避けるように、洒落た麦わら帽子をかぶっていた。女はファッション雑誌をめくりながら、右腕の時計を一瞥した。午後2時。約束の時間だ。女は顔をあげた。
女が周囲を見回すと、背丈の低い少女が目にとまった。母親のような妙齢の女につきそわれていた。気温は上がっているというのに、ふたりとも真冬のような格好をしていた。頭にはフードをかぶり、それがかえって周囲の視線を集めてしまっていた。しかし、少女がそれを気にする様子はなかった。つきそいの婦人も、それが当たり前のような顔をしていた。
少女は麦わら帽子の女──オルレアンの魔女のそばまで来た。
「お待たせ」
魔女はファッション雑誌を閉じた。
サングラスを外し、隣の席を勧めた。少女はためらいなく腰をおろした。
「お久しぶりね、ジャンヌ……ちょうど1世紀ぶりかしら」
少女は感慨深げにそうつぶやいた。
ところがジャンヌは片方の眉を上げ、
「あら、統一記念日に会ったと思うけど?」
と答えた。
「……そうだったかしら?」
少女が首をひねっていると、ウェイトレスが注文を取りに来た。
ジャンヌはこれをことわった。
「ごめん、まだもうひとり来るから」
ウェイトレスは少女の服装をいぶかしがりながらも、その場をすぐに離れた。
客足は増すばかり。店先は歓談でにぎわい始めていた。
少女はあきれて、
「メアリーはまた遅刻?」
と言った。
「べつに2時ぴったりじゃなくてもいいでしょ」
ジャンヌは不在の友人をかばった。
だが少女は首を左右にふって、不満顔だった。
「これだから時間にルーズな民族は嫌いなのよね……」
少女はそう言って、隣に控えていた付き添いの婦人を見上げた。
「シェンカ、あんたはそのへんでぶらぶらしててちょうだい」
「かしこまりました、エミリア様」
婦人はそう言い残すと、煙のように姿を消した。
隣で新聞を読んでいた老人は、びっくりして老眼鏡をかけなおした。
エミリアは人間の視線など気にも止めず、ジャンヌとの会話を続けた。
「で、今日の議題はなんなの? そうとう大きな話なんでしょうね?」
「用件ならもう分かってると思うけど? 最近物忘れが激しいのかしら?」
ジャンヌの皮肉に、エミリアは口の端をゆがめた。鋭い犬歯がちらりとのぞき、パラソルから漏れ入る太陽の光にかがやいた。
「あたしをからかう気? この場で決着をつけてやってもいいのよ? 会議を抜け出してブリュッセルに来てやったんだから、少しは手土産が必要だし」
いきどおる少女をよそに、ジャンヌは飄々とした笑みを浮かべた。
「そう怒らないでよ。ほんとに大事な……」
「待たせた」
しわがれた声。ジャンヌたちは後ろをふりかえった。腰まである長い髪を無造作に垂らした女が、車椅子に乗ってこちらを見つめていた。10代後半と思しき容貌にもかかわらず、女からは老婆のような雰囲気が漂っていた。
突然の障害者の登場に、幾人かが椅子を余分に引いた。メアリーはそのあいだを縫って、ジャンヌたちが座るパラソルの下へと車を進めた。
エミリアはあきれぎみに、
「遅いわよ、メアリー。2時に集合って約束でしょ」
と毒づいた。
「何時に来るかは、わらわが決めること。おまえたちではない」
「ふん、この中で一番打たれ弱いくせに」
「はいはい、喧嘩はナシ。久しぶりの再会なんだから、お互い楽しくいきましょう」
ジャンヌがふたりをなだめていると、ふたたびウェイトレスがやってきた。
メアリーはメニューも見ずに、
「わらわはダージリンでよい。もちろんミルクでな」
と注文した。おどろおどろしい声に、ウェイトレスは背筋を震わせた。
ウェイトレスは、おそるおそる少女に向かってたずねた。
「そちらのお客様は……」
「あたしはトマトジュース」
これまた意外な注文に、ウェイトレスは一瞬言葉に詰まった。
「か、かしこまりました」
ウェイトレスはメニューを下げ、逃げるように店内へと消えた。
しばらく沈黙が続いたあと、ジャンヌはコツンとテーブルの端をたたいた。
「さて、今日集まってもらったのは他でもないわ。緊急事態よ」
「メールにもそう書いてあったわい。もったいぶった文面にしよってからに」
メアリーは、ぶつぶつと不平をこぼした。エミリアもそれに続いた。
「あたしは会議で忙しいの。くだらない用件だったらぶっ飛ばすわよ」
ジャンヌは眉間にしわを寄せた。
「エミリアには話が行ってるはずなんだけど」
ジャンヌのあきれ顔に、エミリアは小首をかしげた。
「……なんのこと?」
「夢の国の使者が現れたって話、聞いてないの?」
ジャンヌの一言に、その場の空気が強ばった。
メアリーは車椅子から身を乗り出す。
「夢の国の使者だと……? まさかそんな……」
「それがね、どうやら本当みたいなの。エミリアのところのマーシャルが……って、なんで私が話さなきゃいけないのよ。マーシャルからなにも聞いてないの?」
ジャンヌの質問に、エミリアは両腕を組んで考え込んだ。
そのあいだに、紅茶のポットとトマトジュースのグラスが運ばれて来た。
「ご、ごゆっくりどうぞ……」
ウェイトレスはそう言い残し、足早に他の客へと移った。
エミリアはトマトジュースに手を伸ばし、それをストローですすった。
「……記憶にないわね」
ジャンヌは額に指を当てて、大きくタメ息をついた。
「ハァ……まあいいわ。とにかく一大事よ。世界中の悪を震撼させる大事件だわ」
「本当に夢の国の使者が現れたのなら、な」
メアリーは半信半疑の表情で、紅茶をカップに移し、ミルクを注いだ。
ジャンヌはもう一度タメ息をつき、コーヒーに口をつけた。
「あなたたちって、昔からほんとに疑り深いのね。ちょっとは人を信用しなさいよ。それとも、私が言ってるから信用できないってわけ?」
ジャンヌが拗ねたように横を向くと、メアリーはくちびるを動かした。
「おぬしだから疑っているわけではない。じゃがな、夢の国の使者が最後に現れたのは、今から2000年以上も前の話であろう。我々悪の幹部でも、実物を見たものはおらぬ。それがいきなり現れたと言われても、おいそれと信じるわけにはいくまい」
エミリアもうなずいた。
「そうよ、メアリーの言う通りだわ。夢の国の使者なんて、あたしのひいひいひい……とにかくすごい昔のおじいちゃんが見た切りで、今じゃ吸血鬼のお伽噺の中にしか出てこないもの」
ジャンヌはかたちのよいひとさしゆびを、ピンと立てた。
「ひとりだけいるでしょ。その使者を現に見た御方が」
ジャンヌの指摘に、メアリーとエミリアは顔を見合わせた。
そしてハッと息を呑んだ。
「ルシフェル様か?」
メアリーの確認に、ジャンヌはこくりとうなずきかえした。
エミリアの顔が青ざめた。
「ま、まさか、ルシフェル様を検分に引きずり出すつもり? そんなことしたら……」
「そうは言ってないわよ。ただ、報告はしたほうがいいと思うの」
「そのためには枢機卿の許可がいるぞえ?」
メアリーは銀のスプーンを脇へと退けた。
カップには口をつけず、冷えるに任せて先を続けた。
「枢機卿にはもう知らせたのかえ?」
「もう連絡が届いてるはずよ……ただ返事がないの」
メアリーはふんと鼻を鳴らし、カップの把っ手にその病人のような白い指を絡めた。
「世界中を飛び回っているおぬしに、返事が届くはずがなかろう」
「じゃあメアリーは貰ってるわけ?」
メアリーは言葉を返す代わりに、黙って紅茶を口にした。
ジャンヌはエミリアに視線を移した。彼女も首を左右にふった。
「参ったわね。メアリーが聞いてないとなると、大統領も知らないだろうし……」
「出所の怪しい情報に、枢機卿が動くとも思えんじゃろ」
あくまでも疑うメアリーに、ジャンヌは少しばかりムッとした表情を浮かべた。両腕を胸元で組み、目つきをするどくした。
「それは危険よ。使者は東京に現れたらしいし、そこからバチカンまではいくらでも移動方法があるでしょ。気付いてからじゃ遅いんだから」
ジャンヌは麦わら帽子をかぶりなおし、パラソル越しにブリュッセルの大空をあおいだ。
一台の旅客機が、遥か上空を鳥のように横切っていった。
「ねえジャンヌ、話はそれだけなの?」
エミリアの質問に、ジャンヌは視線をもどした。
「それだけって言い方はないでしょ?」
「でもあたしたちはルシファー様に謁見する資格がないし……それにさっきから言ってるけど、あたしは帝国議会で凄く忙しいの。バストラーが過労死する前に帰らないと」
これを聞いて、メアリーは笑みを浮かべた。
「民主主義などという馬鹿げた制度を採用するから、そのようなことになるのだ」
メアリーはそう吐き捨てると、だるそうに車椅子にもたれかかった。
フードの下で、エミリアの顔色がくもった。
「あんた、まだそんなこと言ってるわけ? ……考えが古いのよ。貴族制なんて今さら流行らないわ」
「流行る流行らないなどという下品な基準自体が好かん」
険悪になってきたふたりの間に、ジャンヌが割って入る。
「まあまあ、時代はもうすぐ無政府主義だし、どっちもどっちということで……」
エミリアとメアリーは攻撃の矛先を変えた。
「はあ? ……あんた寝ぼけてるの? なにが無政府主義よ」
「歴史上存在したことのないような政体を挙げられてものぉ」
ふたりの文句に、ジャンヌは肩をすくめてみせた。
「私みたいに自由な生き方ができないなんて、可哀想な人たちね」
「なにが自由よ。ただの世界市民気取りじゃない」
「あら、それのなにがダメなの? 世界に国境はないわ。お子様には分からないかな?」
お子様呼ばわりされたエミリアは、空になったグラスをテーブルに叩き付けた。何人かの客が驚いて、ジャンヌたちのテーブルを盗み見た。
「そんなこと言うなら、まずはそのフランス語を捨てなさいよ。いちいち鼻にかかっててムカつくのよね。エスペラントで喋れば?」
「あーら、世界一美しい言語がお気に召さないとは」
「なにが世界一美しい言語じゃ。今やわらわの国の言葉が世界共通語であろうが」
「チッチッチッ、植民地言語なんかと一緒にして欲しくないわね。だいたい、国際語なのはイギリス英語じゃなくてアメリカ英語でしょ」
「えーい、そのような言い方をするなッ! あれは別物じゃ!」
そのときだった。客席のひとつから、男の怒鳴り散らす声が聞こえてきた。
3人が口論を止めて振り返ると、平謝りするボーイの姿が見えた。
「何度言ったら分かるんだッ! ワシはこんなもん注文しておらんぞ!」
「す、すみません……ただお客様は間違いなくコーヒーを……」
「ワシのせいにするなッ! 代金は支払わんからなッ!」
男はそう言うと、ステッキを持って立ち上がり、店を出て行った。
周囲の客が、お互いに顔を見合わせた。
「あのおっさん、確かにコーヒー注文してたぞ。しかも飲んでたじゃねーか」
「たかりよ、たかり。ほんと迷惑な人だわ」
会話に聞き耳を立てていた3人は、意味ありげな視線をお互いに交わす。
「緊急動議。今の男は……」
ジャンヌが言い終わる前に、メアリーが人差し指を立てた。
「人間の品位を汚したことにつき、有罪」
続いてエミリアが指を立てた。
「共同体の調和を乱したことにつき、有罪」
ふたりの評決に、ジャンヌは眉を高く上げた。
「自由の濫用につき、有罪……誰がやる?」
ジャンヌの気軽な質問に、エミリアがこれを買って出た。
「騒ぎになるといけないし、ここはあたしが適任ね。ちょっと待って……」
エミリアはひたいに指をそえ、目を細めた。遠くを見つめるような眼差しで、じっとテーブルの一点を見つめ続ける。
「……これがいいわ。運命!」
吸血姫はそれだけ言うと、席を立った。
「あら、もう帰るの?」
残念そうな顔をするジャンヌ。エミリアはフードのずれを直した。
「さっきも言ったけど、あたしは忙しいの……トマトジュースはいくら?」
「ああ、それくらいなら私がおごるわよ。それじゃ、またね」
お互いに手を振り合い、エミリアは人混みへと消えた。
その直後、遠くで通行人の悲鳴が聞こえた。
カフェにいた人々が、一様に椅子から身を乗り出した。
「なんだ?」
「人身事故っぽいぞ」
ざわめく店先で、ジャンヌは悠々とコーヒーを口に運んだ。
「エミリア・フォン・ローゼンクロイツ。ちょっとボケてるみたいだけど、あいかわらず恐ろしい女……」




