第43話 悪の理念
博士からもらったリストウォッチと、ニッキーからもらったステッキ。大事なふたつの品を受け取ったともえは、腰を90度に曲げ、深々と頭を下げた。
「かたじけない」
長大な歩行者用通路。清潔なカーペット。窓越しに聞こえる飛行機のエンジン音。
ここは成田空港。ともえはジャンヌの別荘から、直接リムジンでやってきたのだ。強制的に連れて来られたわけではなかった。彼女自身の意志だった。蘆屋一族の敗北という報が入った今、ともえはしばらく考慮時間をもらうため、ジャンヌの付き添いを願い出たのである。
そのジャンヌは執事のセバスチャンと並んで、ともえの前に立っていた。腰に手を当てた気取ったポーズで、にっこりと笑い返した。
「いいわよ、これくらい。セバスチャンがいれば、荷物にならないしね」
ともえは顔を上げ、今度はセバスチャンの方に向きなおった。リストウォッチとステッキは、この老人が持っていたのだ。正確に言うと、なにやら不思議な術でどこかに隠していたらしい。セバスチャン本人は異次元がどうのと言っていたが、ともえは深く考えないことに決めた。
ド○え○んの四次元ポケットのようなものだろう。彼女はそれで話を済ませた。
「セバスチャン殿にも感謝致す」
再び頭を下げるともえ。セバスチャンは穏やかに言葉を返した。
「いえいえ、わたくしはなにもしておりませんので」
善悪の邂逅。とてもそうは見えない光景だった。
ともえ自身、なんだか不思議な心地がしてきた。
本当に目の前の女は、蘆屋一族や王傑紂らと肩を並べるお尋ね者なのだろうか。ともえには信じられなかった。
「ところで、パリへは来ないの?」
ジャンヌはそう言って、窓ガラス越しに見えるジェット機をゆびさした。
それが彼女の自家用機であることは、説明されなくても分かっていた。搭乗案内もなければ他に乗客もいないのだ。
時折そばを通り過ぎる人々が、3人に好奇のまなざしを向けてきた。
せっかくの誘いだが、ともえは申し訳なさそうにそれを断った。
「拙者、まだ海外旅行をしたことがないゆえ、ぜひお供したいところだが……今は火急の事態であるから、遠慮致す」
「ふーん、それは残念ね……火急の事態ってなに?」
興味を示すジャンヌ。ともえは一瞬迷ったが、正直に話すことに決めた。
「拙者は蘆屋一族とひと太刀交えている。友人たちもいるゆえ、加勢せねばならぬ」
ともえの理由付けに、ジャンヌはその青い目を見開いた。
「え? ……どうしても倒す気なの? アシヤも可哀想そうね」
可哀想。あまり似つかわしくない表現だ。ともえはふと浮かんだ疑問を口にした。
「蘆屋一族は、この国でなにをしているだ? 犯罪組織と聞いているが……」
「あら、相手がどんな組織かも知らずに戦ってるの?」
ジャンヌは大げさに眉毛を上げ、口元に不敵な笑みを漏らした。
正論だ。ともえはまごついて、もごもごと言い訳をした。
「拙者たちは、参加してから日が浅いのだ。説明もろくに受けておらず……」
「そうねえ……アシヤたちなら殺人、放火、傷害……なんでもやるわね」
どれも重犯罪だ。ともえはそのことに、なぜか安堵を覚えた。もしも敵が大した悪事を働いていないとなれば、それは彼女の自尊心に関わった。
それに、清美が隠密課に裏切られた可能性すらあるのだ。ともえ自身はまだそれを信じたわけではなかった。けれども命の恩人であるジャンヌがそう言っているのだから、流言とばっさり切り捨てることもできなかった。現場で見たいくつかの出来事も、疑念を深めていた。
「……となると、ずいぶんと危険な組織なのだな」
納得顔でそうつぶやいたともえに、ジャンヌは但し書きをつけた。
「まあ、相手は環境破壊をしてる企業とかに限られるけど」
ともえはステッキを持ったまま、ジャンヌを見つめた。
「それはどういう……」
ジャンヌは視線を返した。
「どうもなにも、そのままの意味よ。アシヤ一族はちょっと変わってて、人類の発展には興味がないの。自然を守るためなら、なんでもやる連中よ。要するに、エコロジカルなテロよね」
エコロジカルなテロ。一見形容矛盾に見えるが、そうではない。詰まるところ、自然が人間に優位するという考え方だ。ある意味で日本的とも言える。日本には、キリスト教のような人間至上主義は広まっていないからだ。
ともえはジャンヌの説明に、動揺しかけた。
「……あら、どうしたの? ぼんやりしちゃって?」
「ひ、ひとつうかがいたい……貴殿らは、本当に悪なのか……?」
いい質問だ。そう言いたげな笑顔で、ジャンヌは答えを返した。
「もちろん悪よ」
それは、あまりにも単刀直入な回答だった。
ともえが期待していたものとは違っていた。てっきり、善悪の相対性だのなんだの、哲学的な議論に巻き込まれるものと思っていたのだ。
ともえはなぜか、ジャンヌの言葉を否定しにかかった。
「し、しかし……ジャンヌ殿は自由ため、蘆屋一族は環境保護のために活動しているのではないのか……?」
「ええ、そうよ」
ジャンヌは、あっけらかんと言い切った。
ともえは一歩前に出て、さらに質問をぶつけた。
「ほ、他の組織はどうなのだ? ラスプーチンは?」
「あいつは単純よ。共産主義者だから。平等、平等、平等。こればっかりね」
「きゅ、吸血鬼は?」
「それはもう教えたでしょ? ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために……小難しく言えば、直接民主制の擁護ね。あいつらに言わせたら、選挙なんて権力者が多数決を口実にしてうまい汁を吸ってるだけなんだってさ」
自由、平等、民主主義、エコ。
どれもこれも、学校で教わったものだ。ともえはますます混乱してしまう。
「あら、頭がごちゃごちゃになっちゃった?」
ともえは返事をする代わりに、激しくかぶりを振った。
ジャンヌは彼女の動揺を無視して、ひとり先を続ける。
「どう、私たちのこと、悪だと思う?」
分からない。ともえは率直にそう思った。
彼女の中でひっくり返りそうになる善悪の天秤を、ジャンヌは支えなおした。
「もちろん悪よ」
なにを言っているのだろうか。いや、言っていることはともえにも分かった。彼女にとって分からないのは、なぜジャンヌがそこまで『悪』にこだわるのかということだ。
ともえがその真意を尋ねる前に、ジャンヌは答えを返した。
「だってそうでしょ。私たちがしていることは、全部反社会的行為だもの。世の中には自由がないから、自由のために戦うの。人間から自由を奪っているのは、人間自身よ。だから私の敵は、ある意味で人類ね。私が悪であるのは、その人類に負けていないって証拠。アイデンティティみたいなものだわ」
「しかし……人間の考えは、時代とともに変わる……もしジャンヌ殿が理想とする世界が到来すれば、そのときは……」
「そのときは、私が悪から引退することになるわね」
本心なのだろうか。ともえは疑問に思った。果たしてジャンヌは、全ての人間が真に自由であるような世界が到来すると信じているのだろうか。ともえには、それが絵空事のように思われてならなかった。
「そのためにジャンヌ殿は……犯罪に手を染めると言うのか……?」
「ええ、もちろんよ。私だけじゃないわ。アシヤたちもみんなそう。私たちは容赦なく人を殺すわ。慈悲なんか無いわよ。もちろん動機はバラバラね。だから私たち、お互いに仲が悪いんだけど」
ともえは衝撃を覚えた。今さらながらに、自分が対峙している相手の正体を思った。
「ジャンヌ殿は……人を殺したことがおありか……?」
ともえの震える声に、ジャンヌは自慢げに答えた。
「ええ、もちろん……千はくだらないわ」
ともえは一歩ひいた。体の震えが止まらなかった。
恐ろしい相手だ。能力とか、そういうことではない。考えが危険過ぎる。正義を主張する者同士の争いなら、まだ説得の余地があろう。それぞれに正当性の根拠があり、その真偽を検証することができるのだから。けれども目の前の女は、自分を悪と位置づけ、それで十分に満足している。もはや議論の余地はなかった。
ともえがそんなことを考えていると、ジャンヌはうんと背伸びをした。
「それじゃ、ともえちゃんはもう帰りたいみたいだし、そろそろ……」
ジャンヌは終わりまで言わず、ふと口をつぐんだ。
ともえはその無言が、なにか空恐ろしいもののように感じられた。機嫌を損ねれば、この場で殺されかねないのだ。ライオンの檻に入れられて、獣の態度に一喜一憂しているような、そんな気分になってきた。
まさか気が変わって、飛行機に乗れと言い出すのではないか。ともえはいつでも変身できるように、そっとステッキの準備をした。勝てる気はしなかった。蘆屋との直接対決でも、全く歯が立たなかった。しかし、生身でいるよりはマシだ。ともえは息を呑んだ。
そんなともえをよそに、ジャンヌはにやりと笑った。
「ふーん、面白いことになってるじゃない……」
面白い。ともえは無意識のうちに、ジャンヌの視線を追った。けれどもそこには、無人のカウンターがあるだけ。それが指示対象でないことは明らかだ。
ともえは探るように声をかけた。
「な、なにかあったのか……?」
突然ジャンヌはその場で一回転し、踊るようにある方向をゆびさした。
そして顔をともえに向け、あの無邪気な笑みをこぼした。
「もうちょっとだけ付き合わない……? あなたが探してる人、ここに来てるわよ」
○
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成田空港、第四貨物庫──鬼牛は、怒りのこもった声でたずねた。
「これはどういうつもりだ?」
あたりにはコンテナが立ち並び、ひかえめな電灯がそれを照らしていた。
十三不塔の答えは、
「どういうつもりと言われてもね……今話した通り、上海へ行くのさ」
だった。
答えというよりは、あらかじめ考えておいた作戦と言った方がよいか。彼の後ろに控えている吸血鬼のマーシャルは、ふたりのやり取りをじっと見守っていた。
「上海だと……? ふざけたことを抜かすな。俺たちは関空へ飛びに来たんだ。そういう話だから、わざわざ京都とは逆方向に来てやったんだぞ」
「それについては謝るよ。でもね、マーシャルと僕とで話し合った結果、上海で王様と合流するのが、一番いいという結論になったんだ。だから……」
牛鬼はその場で足を踏み鳴らし、十三不塔を黙らせた。
衝撃で周囲の貨物が揺れ、驚いた一向聴は脇へとよけた。
「おまえたちの話し合いなど知らん! 勝手に人の進退を決めるな!」
そう怒鳴ってから、牛鬼は一向聴を睨みつけた。
「貴様、さてはグルだな……」
あらぬ疑いを掛けられた一向聴は、両手を闇雲にふって否定した。
「ち、違うアル! あたしはなにも知らないネ!」
あせる一向聴を、牛鬼はその真っ赤な目で見つめた。
それから大きく鼻息を吹き上げた。
「……ふん、おまえにそこまで知恵があるとも思えんからな」
侮辱とも受け取れる言葉だが、一向聴はとりあえず胸をなでおろした。
見かねたマーシャルが、一歩前に進み出た。
その場にいる誰もが、彼のほうへと視線を集めた。
「エミリア様の侍従武官として申し上げます。エミリア様と連絡を取った結果、今回の脱出については了承を得ました。吸血鬼一族はこれ以上、日本にとどまりません」
「なら勝手に帰ればいいだろう」
牛鬼の苦情を無視して、マーシャルは先を続けた。
「冷静に話し合いましょう……現状を鑑みるに、日本政府はあなたたちの逃亡先が京都であることを察知しています。このまま国内に留まっても、全滅を待つのみ。それならば、さきほどシーサンプーター殿が説明されたように、中国大陸で王様の組織と合流するのが得策です。我ら吸血鬼一族も加勢する所存。なにとぞご理解を……」
「俺たちはまだ負けたわけじゃない。もうすぐ蘆屋様は、目をお覚ましになる。そうなればこちらのものだ。安倍清明も協力してくれるかもしれんしな」
そう言って牛鬼は、ちらりといづなを盗み見た。
清美をおぶっている彼女は、なんとも言えない表情で視線を逸らした。
蘆屋道遥が目を覚ます。十三不塔のときと同じ論点になりつつあった。そのことに気付いたマーシャルは、慎重に話を進めた。
「アシヤ様がお残りでも、式神は相当数減っています。もしそれでも日本にとどまるとおっしゃるのでしたら、我々は、そのような無謀な作戦には参加できません。このまま撤収させていただきます。反対にもし王様との共闘を選択なさるなら、他の吸血鬼の部隊はこのまま囮として日本に残します」
十三不塔も、マーシャルの脅しに便乗した。
「僕たちも、この便で中国に帰るからね」
少年の宣言に、一向聴が後ろからこっそりと顔をのぞかせた。
「あたしも帰れるアルか?」
「……当たり前でしょ。むしろ縛ってでも連れて返るよ」
「で、でも大蝙蝠が行方不明アル……」
「僕が大蝙蝠の様子を見に行ったときは、もう部屋にいなかったよ。多分、他の誰かが連れ出したんだろう。とにかく僕らは、中国に帰らないと……」
話が逸れ始めたところで、ふたたび牛鬼が前に出た。
「ようするに見捨てるというわけだな」
マーシャルが答える。
「見捨てるわけではありません。こちらの協力体制にも限度があります。負け戦は遠慮させていただくだけです」
交渉は一旦そこで止まった。自分たちの撤退を匂わせて、牛鬼たちから譲歩を引き出す作戦。これは十三不塔の考案だった。けれどもマーシャルは、それがあまりうまく行っていないような印象を受ける。式神たちが、思っていたよりも頑固なのだ。
牛鬼はいづなと顔を合わせ、無言のうちに自分たちの立ち位置を模索していた。
「……俺たちは式神だ。主人の意向なしで物事は決められん」
「それは存じております。しかし時間がありません。搭乗時間が近付いているのです」
「出発時刻を遅らせることはできんのか?」
牛鬼はマーシャルから十三不塔へと視線を相手を移した。
十三不塔は残念そうに、首を左右に振った。
「無理だね……発着は管制塔がやってるわけで、そこはうちの管轄じゃないから」
牛鬼は軽くうなり声を上げ、肩に乗せた蘆屋の横顔を見た。
マーシャルの位置からはよく分からないが、意識不明なのは確かだ。
それにしても、ボスが倒れただけでこうも意思統一に支障が出るとは、マーシャルも呆れざるを得なかった。吸血鬼が主催する帝国議会のぐだぐだっぷりもなかなかのものだが、組織がカリスマひとりで回っているのも相当問題があるらしい。マーシャルはそんなことを思った。
十三不塔はいづなに話し掛けた。
「そっちはどうなの? 来る? 来ない?」
いづなも牛鬼と同じ答えを返した。
「わたくしは、清美様の指示に従います。まずはお目覚めを待って……」
予想通りの返事に、十三不塔はわざとらしくタメ息をついた。
両腕を後頭部で組み、反り返ってマーシャルの顔をのぞきこむ。
「これはもう仕方がないね……」
仕方がない。その通りだ。この事態は、ふたりとも最初から予測済みである。説得できる可能性は低いと考えていた。マーシャルはゆっくりと、腰に手を伸ばした。
「そのようですね……説得は諦めるとしましょう」
次の瞬間、鞘からきらめく刃が抜かれ、牛鬼たちに襲いかかった。




