第126話 M細胞
「はあ、こんなの見つかるわけあらへんのや」
ジャンは音をあげて、公園の芝生に身を投げ出した。
燦々と降り注ぐ太陽が、かえって心地よかった。
ここ数日のじめじめとした天気が、嘘のようである。
「困りました。手掛かりがまったくありません」
アナスタシアは、立ったままあたりを警戒していた。
まるで、そのへんに犯人が潜んでいるかのような緊張感だった。
しかし、現実はと言えば、カップルや老人、子どもたちが遊び回る、いたって平和な日常が繰り広げられていた。それとも錯覚なのだろうか。平和というものは、もろくて壊れやすい。ジャンは、七丈島での暮らしが一変したことを思い出し、不安になった。
「なんや……尾行でもされとるんか?」
ジャンは、おっかなびっくり尋ねた。
「いえ……」
「だったら、そないぴりぴりせんといてや。気が滅入るで」
「奇妙だと思いませんか?」
ジャンは、芝生から上半身を起こし、アナスタシアを直視した。
草のちくちくとした感触が、布越しに伝わってきた。
「なにがや?」
「尾行されていないことが、です」
ジャンはアナスタシアの言葉遣いに、違和感を覚えた。だんだんと、発言が曖昧になっているような気がした。人間らしいと言えば人間らしかったが、目の前にいるのは人工知能である。猿から進化した生命ではなかった。もっと冷たい喋り方をしていたはずであった。
彼女に初めて出会ったのは、いつのことだったろうか。確か、クレムリンの中で襲われたのが、ファーストコンタクトであった。あのときの機械じみたアナスタシアと、今の人間らしいアナスタシア……ジャンは、そのギャップに、うすら寒いものを感じた。
(このロボット、進化しとるんか……?)
進化。この言い方が正しいのかどうか、ジャンには、よく分からなかった。殺人マシーンとしての凄みは、彼女から消えていた。もしラスプーチンの目的が、大量殺戮兵器の開発にあったのなら、今のアナスタシアは、完全な失敗作である。もっとも、ラスプーチンの真意がどこにあったのかなど、ジャンには知るよしもなかった。
「普通、尾行なんかされへんやろ? それとも、隠れてそうなんか?」
「私のセキュリティをくぐり抜けて尾行するのは不可能です。アメリカの軍事衛星を使い、近辺をすべてフォローしていますから」
「ほな、なにがおかしいんや?」
「犯人は、私たちが捜査を始めたことに、気づいていないのでしょうか?」
アナスタシアの発言の意味が、ジャンには一瞬分からなかった。
遠くで子どもたちの歓声が聞こえ、鳩が空へと飛び立つのがみえた。
「なにが言いたいんや? はっきりしゃべってえな」
「ジャンさんは、犯人が人間だと思いますか?」
ジャンは視線を落とし、10秒ほど考えた。
「……その可能性は、低いんとちゃうか?」
イギリスの警察にも、アナスタシアにも証拠を残さない連続殺人犯。
その正体が一介の人間だとは、とても思えなかった。
「では、だれだと思いますか?」
「せやな……まず、ジャック兄さんの話が正しいと仮定して……」
「ジャンさんは、ジャックのことをなぜ『兄』と呼ぶのですか?」
質問を突然切り替えられて、ジャンは戸惑った。
「んー……なんでやろな……」
「普段から練習して、ボロが出ないようにするためですか?」
「……わい、兄貴か姉貴が欲しかったさかい、そのせいかもしれんな」
ジャンは、一人っ子である。
双性者5人組のなかに、兄弟姉妹を持つ者はいない。
お互いに親友だが、それは家族がいるのとは少しばかり違っていた。
「よく分かりません」
「アナスタシアはんは、もとから兄弟とかおらんやろうしな……まあ、それは置いといて、ジャック兄さんの言うことが正しいなら、犯人は、えーと、あれや、あれ」
「貴族団ですか?」
アナスタシアの返しに、ジャンはパチリと指を鳴らした。
「それや! ……どういうもんかは、知らんけどな」
「貴族団というのは、Commonwealth realmの国々を支配する悪の組織です」
「コモン……なんやて?」
「Commonwealth realmです。イギリス国王を戴く国々の総称です」
「イギリスの王様がおるんは、イギリスだけやろ?」
アナスタシアは、首を左右に振った。
「イギリス国王が国王として承認されている国は、全部で16あります。イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、アンティグア・バーブーダ、バハマ、バルバドス、ベリーズ、グレナダ、ジャマイカ、パプアニューギニア、セントルシア、ソロモン諸島、セントクリストファー・ネイビス、セントビンセント・グレナディーン、ツバル」
「なんでそんなにあるんや?」
「大英帝国が世界中に植民地を持っていたからです」
政治の時間にやったかかもしれないと、ジャンは記憶を掘り起こしてみた。
しかし、ほとんどの授業はさぼっていたので、うまく思い出せなかった。
ちなみに、ジャンが通っていた七丈島海浜自由学園では、履修が文字通り自由であった。ジャンが選択した科目には、世界史も日本史も含まれていなかったので、こういうことにはからっきしであった。
カオルがいればなあ、と、ジャンはあらためて悔やんだ。
「その貴族団っちゅーのは、世界中におるんやな?」
「とはいえ、ロンドンのメアリー邸が本拠地であることに、変わりはありません」
さて、なんの話をしていたのかと、ジャンは疑問に思った。
「えーと、話が逸れとるで。尾行についてやろ?」
「貴族団が張本人だとして、私たちの捜索がバレないと思いますか?」
「相手がマヌケなら、バレんと思うけどなあ」
「貴族団がそこまでマヌケなら、なぜメアリーの捜査網に引っかからないのです?」
アナスタシアの指摘に、ジャンははたと困った。
自分たちの捜索についてはうっかり見逃しているが、メアリーの捜査に対しては慎重に行動しているのだ、と答えられないこともない。しかしそれは、相手の能力を、自説に都合がよいように割りふっているに過ぎない。あまり説得的ではなかった。
「せやけど、わいらは見落とされやすいんとちゃうか? 部外者や」
「日頃からジャックのまわりをうろうろしているのに、ですか? 貴族団のだれかが真犯人だとすれば、目的はジャックが後継者になるのを阻止するためでしょう。彼の行動を監視しているはずです」
「ジャック兄さんには、ロンガはんがついてるやろ? ロンガはんは勘がええさかい、貴族団も監視できんのとちゃうか?」
「もし監視ができないなら、貴族団がジャックをハメること自体不可能です」
それもそうだと、ジャンは思った。ここまでの経緯をみる限り、ジャックの行動は、相手方に筒抜けになっている。ジャックがいつ単独行動しているのかは、四六時中監視していなければ、分からないことであった。
「んー、せやけど、なんか納得いかんな」
「人間の勘、というやつですか?」
「まあ、そういうことになるな……」
「人間の勘はバカにしていません……それどころか、私も胸騒ぎがします」
ジャンは、いぶかしげに眼を細めた。
「アナスタシアはんが胸騒ぎやて?」
「ロボットが胸騒ぎを起こしてはいけませんか?」
「そういうわけやないけど……」
なんだか、矛盾しているような気がする。ジャンは、そう言いかけた。
「アナスタシアはんなら、勘なんかに頼らずに、計算した方が早いやろ?」
「それは誤解です。あなたが言う計算とは、おそらく全探索なのでしょうが、そのような計算はCPUがいくらあっても足りません。例えば、オセロやチェスの指し手には、日常生活と比べれば遥かに少ないパターンしかありません。それでも、コンピューターで完全解析するには、膨大な時間がかかるのです」
「どのくらい大変なんや?」
「チェスのゲーム木は10^120、宇宙に存在する原子の数は10^80です」
もっと分かりやすく、と言いかけたところで、アナスタシアは先回りした。
「チェスを完全解析するより、宇宙の原子の数をすべて数える方が早いのです」
ジャンは、にわかに信じられなかった。
「ほんまか? たかがボードゲームやろ?」
「本当です……と、また話が逸れました。このように、【CPUのごり押しで全探索する】というのは、現実的な解決ではないのです。探索結果を記録する媒体も必要ですから、私のような人間型のコンピューターには、なおさら向いていません」
「そこで勘が大事っちゅーわけか」
「そういうことです……おや」
アナスタシアは、公園のほうを振り向いた。
ジャックもそちらに視線をむけたが、目立ったものはなにも見当たらなかった。
「……問題が解決しました」
「は?」
「公園の入り口に、巨大なエネルギー反応……どうやら、お出迎えのようです」
○
。
.
テーブルのうえに置かれた、書類の束。
そのそばには、険しい顔のジャックとロンガの姿があった。
古いランプの灯りが、天井で意味もなくゆらゆらと揺れていた。
【計画名】
Project for developing Heteroid-Soldiers MN-001
【日付】
15th June, 2028
【項目】
・貴族団によるヘテロイド自主開発研究の必要性。
・それにともなう競争的資金の獲得。
・ヘテロイドの軍事利用に関する長期的プラン。
【概要】
近時、欧州各国において、ヘテロイドと呼ばれる新型生物兵器の開発が盛んである。貴族団情報部の報告によれば、この流れはアメリカ、中東、アジア諸国へも波及している。軍事的な利用が見込まれているものと推測される。そこで、貴族団兵器開発部では、ヘテロイドの開発資金を申請し、この独自研究を行うことを決定した。3年以内にプロトタイプを、5年以内に量産型を製造する予定である。ハイリング主任博士によれば、予期せぬ副作用がない限り、ヘテロイド開発は短期間で終了する。その軍事的用途としては、オルレアンの魔女の牽制、吸血鬼一族の駆逐、各国へのスパイ活動など、様々なものが見込まれている。
ジャックは、次の頁をめくった。
その指は、かすかに震えていた。
【計画名】
Project for developing Heteroid-Soldiers MN-002
【日付】
23rd February, 2031
【項目】
・ヘテロイド開発の中断。
・サンプル紛失に関する処分。
【概要】
貴族団兵器開発部は、今年の3月をもって、ヘテロイド計画の永久凍結を決定した。コストパフォーマンスの絶望的な悪化が、主たる原因である。貴族団情報部の報告によれば、各国の研究開発も次々と中断しており、技術的劣後は生じないものと予測される。なお、研究中のサンプル、とりわけ■■■の紛失事件については、厳重な処分をくだすものとする。当該不祥事には、■■■■■が関与しているとの情報あり。目下、調査中。他方で、■■■の運搬先は■■という未確認情報も存在しており、情報部は混乱をきたしている。
最後の1枚をめくり終えたジャックは、もう一度念入りに黙読した。
「この四角で潰されている箇所は、なんだ?」
「検閲削除済みと思われます」
「だとすれば、1番目の四角はサンプル名か……」
ジャックは、そのことを不審に思った。なぜサンプル名を削除しなければならないのか。機密事項だから、とも言えようが、他の書類には、サンプル名がそのまま書かれていた。そもそも、伏せ字になっているのが、この最後の段落だけなのである。
「ここだけ再現できるか?」
ロンガは書類を受け取ると、ランプの光に透かした。
「……癒着インクが使われています」
癒着インクは、機密情報を隠蔽するための、特殊素材である。あとから塗ったインクが、さきに塗ったインクと完全に融合する性質を持つ。つまり、光学的にも化学的にも分離できなくなる。
「もちろん、原本であれば再現は簡単です。お任せください」
ロンガは褐色の指を、インクに添えた。
「戻し過ぎるなよ」
「ご心配なく」
ロンガが念を入れると、うっすら紙質が白くなった。それはまるで、紙が元通りになっているかのようであり……実際に元通りになっていた。これがロンガの能力《魔女の逆時計》であった。指先の範囲でだけ、物質を昔の状態に戻すことができる。サリカが持つ《真実の美爪術》ほど戦闘向きではなかったが、こういうときはもってこいの能力であった。
「……戻りました」
ロンガが指を離すと、検閲済みの箇所は、文字に置き換わっていた。
そこだけ印刷したばかりのような美しさだった。
ジャックはそこに眼を通した途端、眉間に皺を寄せた。
「ん、これは……」
なお、研究中のサンプル、とりわけM細胞の紛失事件については、厳重な処分をくだすものとする。当該不祥事には、ラスプーチンが関与しているとの情報あり。目下、調査中。他方で、M細胞の運搬先は日本という未確認情報も存在しており、情報部は混乱をきたしている。
「ぼっちゃま、M細胞とは?」
「……分からない」
ジャックは、素直に答えた。
「ぼっちゃまも、この計画に参加なさっていたのでは?」
ジャックは、黙ってうなずいた。
記憶を振り絞るように、額にこぶしを当てた。
「確かに、僕も研究プロジェクトの一員だった」
「この不祥事については、ご存じないのですか?」
「いや、まったく」
ジャックは自分の記憶力に、そこそこの自信を持っていた。
だからこそ、なおさら疑問に思った。
「サンプルというのは、どのようなものをお使いだったのですか?」
「ただの人間の細胞だよ。ヘテロイド計画のメリットは、『人間の細胞から簡単に怪物を量産できること』だったんだからね。でも、それは勘違いだった。実際に生産プロセスが明らかになった段階では、もう採算が合わなくなっていた。ヘテロイドを一体作るくらいなら、軍用ロボットを導入した方がマシなレベルだった」
「おかげで、私たちもまだ仕事があるわけですね」
それは杞憂だなと、ジャックは思った。
ヘテロイドだろうがロボットだろうが、時間を巻き戻せはしないからである。
「ひとつ思い出したのですが……私たちのサンプルもお取りになられたのでは?」
ジャックは、ふと顔を上げた。
「ああ、あれは実験には使われなかったよ。すべて廃棄され……」
そこで、ジャックは口を閉じた。
廃棄されたというのは、だれから聞いたのだろうか。
「……サリカだ」
「サリカが、どうかしたのですか?」
ジャックは答えずに、虚空を睨んだ。
あのとき、どういう経緯で、なにを説明されたのか。それを思い出す。
(プロジェクトの凍結が決まって……試験体は保存、未使用のサンプルは破棄。そう聞いた気がするな。あの時点で未使用だったのは、僕とロンガとサリカと……)
ジャックは、アッとなった。
震える手で、書類を確認する。
「M細胞……M……そんな、まさか……!」




