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第117話 ビリヤードとメイド

 館の警備も整い、遊戯室に案内されたジャンは、ジャックとビリヤードに興じていた。生まれて初めてする遊戯だったが、もともと運動神経のよいジャンにとっては、そこまで難しいゲームではない。ときどきルールミスを犯しつつも、ぽんぽんと穴に放り込んでいた。

「ジャン、うまいな。本当に今日が初めてなのかい?」

「ああ、初めてやで……似たような遊びは、したことがあるけどな」

 ジャンはそこまで言って、ふと口をつぐんだ。箒の柄で、ピンポン球を転がす自分の姿が、脳裏にフラッシュバックした。しかし、それがいつどこの出来事なのか、思い出せなかった。

 ジャンはビリヤード台に覆い被さったまま、しばらく思案に耽った。

「どうしたんだ? 5で9に当てて入れれば、ジャンの勝ちだよ」

 ふたりが遊んでいるのは、ナインボールというゲームだった。1〜9まで書かれたボールを、数の小さい順に落として行って、9を落とした方が勝ちなのだ。9を穴に放り込む方法は、3つ。最初のブレークで落とすか、8まで全部落として、9に取りかかるか、あるいは途中で、他の玉を9に当て、その反動で落とすかである。今回の試合は、ジャンのブレークから始まって、2と7が穴に落ち、1→3→4と連続で成功していた。

 そして今、5が9のそばにある。穴の位置も良かった。

 ジャンは気を取り直して、キューの照準をボールに合わせた。

「……」

 カツンと、乾いた音が響く。

 5の玉に逆回転が掛かり、9にぶつかる前に減速してしまった。

 当たったものの、飛距離が足らず、ふたつともテーブルの上に残った。

 ジャンは上半身を起こし、溜め息を吐いた。

「あかんなあ、ミスったわ」

 入れ替わりにジャックがキューを持ち、そのまま狙いを定めた。

 なかなか様になっていると、ジャンは思う。

 しなやかに指が動くと、5の玉はサイドに当たって跳ね返り、9を落として自分も穴に滑り込んだ。ジャンの負けだ。

「また兄貴の勝ちやな。これで4−0や」

「始めたばかりなら、しかたがないよ。おまえは筋がいい」

「ほな、もう一本……」

 ジャックがキューを構え直したところで、扉がノックされた。

 ノブが降り、ロンガが入って来た。あいかわらずのスーツ姿だった。

「お茶の時間でございます」

 銀色のお盆に、ティーポットと2つのカップ、ビスケット皿を乗せたロンガは、軽く会釈してから、ビリヤード台のそばにあるテーブルへと歩み寄った。

「ジャン、少し休憩にしようか。もう3時だ」

「おやつの時間やな」

 ふたりはキューを壁に戻して、めいめい席についた。

 ロンガが紅茶をカップに移す間、ジャンは今日の出来事を、兄に話していた。

「でな、サリカさんが助けてくれたんやけど、間一髪やったで」

 ジャンの話を、ジャックは黙って聞いていた。

「せやから、もうちょい警備を厳重にした方がええんやないか?」

「サリカに任せておけば、大丈夫だよ……それより、お茶にしよう」

 軽くいなされたジャンは、少しばかり不愉快に思った。自分の身が危なかったのに、あまり興味を持ってもらえなかったからだ。メアリーも、部屋から出て来ない。間者が潜り込んだというのに、声のひとつくらいかけてくれても良さそうであった。

「どうぞ」

 ロンガにカップを手渡されたジャンは、一口啜って息をついた。

 ビリヤードというものは、体を動かさないわりに、神経を使うゲームだと感じた。

 ビスケットを齧りながら、ジャンは少しばかり休息を取る。

 ジャックもお茶を静かに飲んでいた。なにか考え事をしているように見えた。

「兄貴は、ロンガさんみたいな付き人がおって、ええな。わいも欲しいで」

 ジャンは、ロンガの顔を見上げた。きりりと引き締まった頬に、切れ長の眼が印象的な、美しい女性だった。動きのひとつひとつに品があり、それでいて、ボディガードのような頼もしさがある。ときどき殺気立っていることだけが、玉に傷だと思われた。

「人手不足だからね」

 ジャックは、どこか弁解がましいことを言った。

「世の中、不景気なんやな……」

 道理で館の大きさに比して使用人の数が少ないはずだと、ジャンは納得した。

「おまえの面倒は、サリカが見てくれるよ」

「サリカさんは、おふくろの付き人やろ?」

「彼女なら、ふたり分の仕事くらい、わけなくこなすよ。それより……」

 そのとき、遊戯室の扉がノックされた。

 3人は動きを止め、首だけでそちらを振り返った。

 すると、カチューシャをつけたメイドがひとり、許可も得ずに室内へと顔を覗かせた。

 ブロンドの長髪が、蛍光灯の明かりに映える。

「ジャック様がご在室です。掃除ならば、またあとで」

 ロンガの厳しい口調にもかかわらず、女は部屋の中に入って来た。

 後ろ手に扉を閉め、そっとロンガを手招きする。

「なんですか?」

「お耳にいれたいことが……」

 ロンガはジャックに会釈をして、テーブルを離れた。

 ジャンは、ジャックに耳打ちする。

「なんや、警備の話でもあったんかな?」

「さあ……」

 その瞬間、入り口の方で軽い呻き声がした。

 振り返ると、腹部を押さえたロンガが、うしろによろめいている。

「ロンガ、どうしたッ!?」

 ジャックはカップを放り、大声を出した。

 ロンガを襲った女は、こぶしを握ったまま、ジャックに向き直った。

「あなたが、ジャックですか?」

 女の話し方は、どこか無機質なところがあった。

 表情にも、緊張感が見られない。

「何者だ?」

「あなたに用件が……ッ!?」

 女の足が払われて、床に転倒した。

 いや、転倒するはずだった。ロンガの足払いは見事に決まったものの、女は尻餅をつく前に体勢を整え、両手で床を弾いて跳躍した。数歩離れたところに着地し、再び立ち上がる。

 ロンガは屹然とした面持ちで、女に向かってファイティングポーズを取った。

「貴様、何奴だ?」

「敵ではありません。ジャックと話がしたいのです」

「ぼっちゃまを呼び捨てにするとは、いい度胸だな……」

「繰り返します。ジャックに用件があります。騒がないでください」

 女が言い終える前に、ロンガは右脚で絨毯を蹴り、強い踏み込みに移った。

 目にも留まらぬ速さで、女の胸を打ち抜く。

 女は防御する間もなく吹き飛ばされ、壁に激突した。

 掛けられていた絵画が落ち、花瓶が割れた。

「……なぜ防御しない?」

 打ち勝ったにもかかわらず、ロンガの表情は厳しかった。

 女が手抜いたのだということが、そばで見ていたジャンにも伝わってくる。

 壁にめり込んだ女は、ゆらりと上体を起こした。

「さきほど言ったように、ジャックに話があります。攻撃を中止してください」

「先に手を出したのは貴様だ」

「あなたに殺意が感じられたので、事前に手を打っただけです」

「減らず口が」

 ロンガがもう一度踏み込もうとした瞬間、ジャックは口を開いた。

「待て」

 ロンガの動きが止まる。

「女、なにが望みだ?」

 ジャックの問いに、他の三者は三様の反応を見せた。

「ジャック様、ここはわたくしに任せ、お逃げください」

 ロンガの進言を、ジャックは容れなかった。

「女、どうやってここに入った? 厳戒態勢のはずだが」

 ジャンが襲われてから、館には使用人が増員されていた。

 どれも召使いというよりは、警備兵という様相で、館の中をうろつき回っていた。

 1度目の襲撃から、まだ数時間しか経っていない。確かに、妙なことであった。

 姿勢を正した女は、じっとジャックの眼を見つめた。

「兵の配置と巡回の周期を分析したところ、10分だけ、この部屋に隙ができるという結果が得られました。そこを狙っただけです」

「分析した……? どうやって?」

 女は、自分のこめかみに指を立てた。

「自分で計算したというのか? コンピューターも使わずに?」

 ジャックは、女が嘘を吐いているのだと思った。

 しかし、その瞳の奥に、人間とは異なる輝きを見出した。

「ま、まさか……ッ!」

「自己紹介が遅れました……私がアナスタシアです」


  ○

   。

    .


 メアリーは、血に濡れた包帯を外してもらいながら、外の雨を眺めていた。

 打ちつける雨粒が、窓ガラスに沿っては消えて行った。

 包帯を外すサリカの動きだけが、唯一の室音を形作っていた。

「……サリカ」

「なんでございましょう」

「どうも胸騒ぎがする……館の警備は、万全なのだろうな?」

 メアリーの耳には、隠密課襲撃の報が届けられていた。

「はい、その点では不手際があり、大変申し訳ございませんでした」

「なに、もう謝らなくてもよい……人手も足りぬしな……」

 彼女は、この事態を忌々しく思うと同時に、仕方がないとも感じた。彼女の組織は、民主主義という嵐が吹き荒れた前世紀には、とっくに弱体化を始め、今では格式と伝統から、他の組織と肩を並べ合っているだけであった。もっとも、その格式と伝統というものが、容易には侮れない地盤になることも、十分に理解していた。彼女は、その組織の没落にもかかわらず、一目置かれる存在感を保っていた。

「大統領からは、まだなんの連絡もないのかえ?」

「なにもございません」

「あやつ、双性者(ヘテロイド)を分割するだけ分割しておいて、音沙汰なしとは……感心せぬな」

「催促致しましょうか?」

 メアリーは、肌の露出した左手を振り、否定の意思表示をした。

「放っておけ。あやつも、わらわには頭があがらぬ。そのうち連絡をよこすじゃろう」

 強がりではなかった。

 なるほど、悪の組織において、すべての幹部は対等である。ところが、メアリーと大統領との間にだけ、【個人的な】上下関係があった。もっとも、それを上下関係だと思っているのは、メアリーの方だけだったかもしれない。そのあたりには、彼女もあまり頓着していなかった。

 右手の包帯も剥がし終えたサリカは、それを箱に収め、新しいものと取り替え始めた。メアリーの肌からは、既に血のにじみがぽつりぽつりと、汗のように吹き出し始めていた。それを見る度に彼女は、息子のジャックに病が遺伝しなかったことを、感謝するのだった。

「……サリカよ、ひとつ話しておきたいことがある」

「なんでございましょう」

「ジャックのことについてじゃ」

 微かに、サリカの指先が乱れた。

「家督を譲るという話ではない。わらわは、まだ現役じゃ」

「仰る通りにございます」

「本心かの……まあ、よい。おぬしには……いや、これは他の誰にも話していないことじゃが……わらわが大統領よりも格上なのは、ふたりの間の個人的な事情に過ぎぬ。わらわが引退したおりには、その関係も潰えるであろう。ゆえに……」

 メアリーは、そこで言葉を切った。

 言葉の選択が、メアリーの脳内でせめぎあった。

「……ゆえに、ジャックには後見人が必要じゃ」

「お言葉ですが、メアリー様、ジャック様は、後見を必要とされるようなお方ではございません。おひとりでも、総代を務められる方かと存じます」

「無論、あれはわらわの子、その程度の力がなくては困る。じゃが、あれは少しばかり優柔不断なところがある。おぬしらが支えてやらねば、覚束ぬであろう」

 サリカは、もはや口答えしなかった。

 静かな笑みを浮かべて、粛々と包帯を巻き直し、最後にテープで止めた。

「きつくございませんでしょうか?」

「苦しゅうない」

 サリカは道具を救急箱に納め、出口の扉へと向かった。

 去り際に、メアリーは声を掛けた。

「サリカ……なぜ大統領がわらわに服しているか、そのわけを知りたいか?」

 主人に向き直ったサリカは、慎ましげに眼を閉じた。

「召使いの身として、出過ぎたことでございます」

「総代使用人頭のおまえは、ジャックの次に身分が高いであろう」

「使用人は使用人でございます。それ以上でも、それ以下でもございません」

 ふむ、と、メアリーは息を吐いた。

 血の滲み始めた両腕を眺めながら、サリカに退室の合図を送る。

「その話は、また今度する。下がれ」

「では、失礼致しました」

 扉が閉まった。

 メアリーは、ナイトテーブルに立てられた、古い写真を見やった。それは白黒で、気の遠くなるほど昔に撮られたものだった。

 一組の母子が、カメラに向かって笑い掛けていた。


  ○

   。

    .


「ここなら、邪魔は入らない」

 ジャックがアナスタシアを案内したのは、彼の書斎だった。

 左右に広がる書架の高さに、ジャンは舌を巻く。

「こりゃ凄いな」

 背表紙に見蕩れるジャンをよそに、ジャックはアナスタシアに席を勧めた。

 だが、アナスタシアはそれを拒み、入り口そばの壁にもたれかかった。

「……警戒してるのかい?」

「多少は」

 アナスタシアはそう言って、ロンガに視線を向けた。

 ロンガは、ふんと鼻を鳴らす。

「ぼっちゃまになにかあったら、生きては返さん」

「別に殺そうというわけではありません。お願いがあるのです」

 ジャックは机に座り、両肘をそこへ乗せた。

 目の前にアナスタシアがいるという興奮を、彼はできるだけ抑えたかった。

「で、その用件というのは?」

 アナスタシアは、自分の右腕を指し示す。

「まず、これを修理してもらいたいのが一点……」

「貴様、ぼっちゃまを修理屋扱いする気かッ!?」

 ロンガの怒声に、ジャックは人差し指を立てた。

 ロンガは不愉快そうに顔を背ける。

「ちょっと、見せてもらっていいかな?」

「どうぞ」

 ジャックは席を立ち、アナスタシアに歩み寄った。

 ロンガはなにか言いたげだったが、ジャックはそれを目で制した。

 歪みの見える腕を取り、ジャックは眼を細める。

「開閉式のロケットランチャーか……これなら、僕でも直せる」

「さすがは、テスラ博士の弟子ですね」

「僕たちの関係を知っているのか?」

 アナスタシアは、自分の耳を指し示す。

「盗聴ですよ」

 ジャックは、彼女の性能に感嘆した。

「素晴らしい……テスラ博士の最高傑作だ……」

「装填までできますか?」

「兵器の調達なら、お易い御用さ……で、他には?」

 一点と言ったからには、二点目もあるのだろう。

 ジャックは、そう読んだ。

 案の定、アナスタシアは後ろを向き、衣服をまくり上げた。

「破廉恥な真似をするな」

 ロンガの叱責に、アナスタシアは取り合わなかった。

 見れば、白い肌の中央、腰のあたりに、2本のプラグが覗いていた。

「これは……充電用のコンセントか?」

「はい、家庭用電源を使っています」

「家庭用やて? 掃除機みたいにコンセント挿すんか?」

 ジャンが突っ込みをいれた。

 一方、ジャックは別の反応を見せた。

「専用の充電器が要らないなんて、凄いや。どうなってるんだい?」

「あとで設計図を渡します」

 ジャックの眼が、好奇心に光った。

「本当にいいのかな……機密だろう?」

「あなたなら信用できるというのが、私の分析結果です。そのために、わざわざベルリンを抜け出して来たのですから」

「吸血姫のところを、かい?」

 アナスタシアは、黙って頷いた。

「クレムリンに戻らなかったのは、ラスプーチンを信用しなかったから?」

「それもありますが、時間的な理由もあります」

 ジャックはそこで、アナスタシアの依頼が分かったような気がした。

「バッテリーの不具合?」

「違います」

「っと、外れか」

「かすってはいます……新しい電源装置に改良して欲しいのです。現在搭載のものは、テスラ博士の作なのですが、継続稼働時間が24時間しかありません」

 ジャックにも、だんだんと話が見えてきた。

「つまり、最新のものに交換して欲しい、と?」

「最新のものではありません……私が設計したものです」

 同じことだろうと、ジャックは思った。

「……引き受けた」

「ぼっちゃま!」

 ジャックは左手でロンガを押しとどめ、机に戻る。

「アナスタシア、きみは僕が、修理中になにかしないと思ったのかい?」

 カマをかけたわけではなく、純粋な興味からだった。

「もちろん、防御策は用意しています」

「どういう?」

 アナスタシアは、天井を見上げた。

「アメリカの軍事衛星が、この館をターゲットにしています。私に異常が発生した場合、核弾頭がロンドンを焼き付くすようにプログラムされているのです」

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