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第116話 ニンジャ

 ジャンが振り返ると、そこには東洋人のメイドが、慎ましく立っていた。

 眼鏡の奥から、ジャンの様子をじっと伺っている。

「ジャン様、こちらにいらっしゃいましたか」

 メイドは、さきほどと同じ台詞を繰り返した。

 ジャンは眉をひそめて、窓際に一歩下がる。どこか違和感を覚えたのだ。

「どうなさいました?」

 今度は、メイドの方が不審そうに声を掛けた。

「えーと……誰やったかいな?」

 ジャンの質問に、メイドは一瞬きょとんとした。だが、すぐに笑みをこぼす。

(しのぶ)です」

 分かるだろう。メイドは、そう言いたげだった。

 しかしジャンの脳内には、まったくヒットしない名前だった。ただ、日本人のような気がした。その理由も判然としない。本当に、ただなんとなくだった。

「おふくろのお手伝いさんやったかな? それとも、兄貴の?」

「……ジャンさん、お芝居はもういいんですよ」

 メイドの口調の豹変に、ジャンは顔をしかめた。タメ口をきかれたことよりも、メイドの妙な馴れ馴れしさが、少年の神経を逆撫でしたのだ。

「芝居ってなんや?」

「お気遣いは、ご無用。館の外に車を用意してあります。こちらへ……」

 メイドが腕を引っ張ったので、ジャンはそれを振りほどいた。

 誘拐犯か。そう考えたジャンは、自分でも気付かぬうちに、大声を張り上げた。

「くせ者やーッ!」

「なッ!?」

 忍と名乗ったメイドの背後に、ひらりと影が舞い上がる。

 忍は人間離れした俊敏さで、その影の攻撃をかわした。

「ジャン様、お怪我はございませんか?」

 影の正体は、メアリー専属の付き人、サリカだった。

 サリカはさきほどの箒を握り締め、忍と対峙した。その顔からは、従順な召使いの面影は消えて、戦いを前にした傭兵のそれになっていた。

 ジャンは、背中にぞくりとしたものを感じた。

「ジャン様、そこをお動きになりませんように」

「ほ、箒で大丈夫なんか……?」

 見当違いな心配をするジャンを他所に、最初のひと太刀が決まる。

 忍が腰から取り出した小刀と、サリカの箒の柄がぶつかり合った。

 2度、3度の追撃。サリカはジャンを庇うように、大立ち回りを控る。忍が繰り出す攻撃を、弾くことに専念していた。なぜ木の棒で応戦できるのか、ジャンには分からない。そのようなことを考えている暇もなかった。

「くッ」

 5度目の攻撃を弾かれた忍は、廊下の奥に大きく後退した。

 サリカが押していることは、明らかだ。むしろ、余裕さえ見える。

「どう致しましたか? 隠密課のエースでも、その程度で?」

「相当な手練……血塗れ(ブラッディ)メアリーの側近ですか?」

「お答えする必要はありません」

 サリカは攻勢に出た。

 最初の一歩を踏み出した瞬間、忍の足下から煙が沸き立つ。

 サリカもジャンも袖で口と鼻を覆い、呼吸を止めた。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 忍の姿は消えた。サリカはあたりに用心しつつ、ジャンのそばにかがみ込む。

「お怪我は?」

「だ、大丈夫や……」

 ジャンは情けないところを見せないように、すっと立ち上がった。ズボンの埃を払い、軽く咳払いする。サリカはなにも言わず、廊下の左右に視線を走らせていた。

「今の、何者や?」

「日本政府の犬ですよ……ニンジャです」

「忍者? ……あの女が?」

 ずいぶん若かったような気がする。

「はい、さきほどの動き、通常のスパイではありえません……ところで、ジャン様は、ここでなにをしておいでなのですか? てっきり、お部屋へお戻りになられたものとばかり……」

 サリカの問いに、ジャンは内心焦った。

 焦る必要などないのだが、どこか後ろめたいところがあったのである。

 一方、なぜサリカがそのようなことを尋ねたのかも、不思議に思った。ここは彼の生家なのだから、どこをほっつき歩こうが、勝手なはずである。

「とりあえず、お部屋にお戻りください」

「せ、せやな……戸締まりはしっかりせんとあかんで」

「大変申し訳ございません。すぐに侵入経路を調査致します」

 サリカは丁寧にお辞儀すると、有無を言わさぬ調子で、ジャンを先導し始めた。もと来た廊下を遡って、ついに寝室へと辿り着いた。サリカは扉を開け、ジャンに入室を促す。無言の圧力に押されて、ジャンは室内に収まる。

「今夜のご夕食は、6時からとなっております。それまでおくつろぎください」

 他人行儀だな、とジャンは思った。

 これでは、ホテルの宿泊客扱いである。

「サリカはん、ひとつだけ訊いてもええか?」

「どうぞ、お気兼ねなく」

「どこかに、テレビゲームする部屋はないんか?」

「テレビゲームでございますか……そのような部屋は、残念ながら……」

「じゃあ、なにして遊べばええんや?」

 ジャンは、遊具もなにもない部屋を見回し、やや憮然と言い放った。

「遊戯室へおいでくだされば、いくらでもございます。ダーツ、ビリヤード、ポーカー……もしお暇なようでしたら、わたくしがお相手を仕ります。おひとりでは危険ですので」

「ビリヤードは、やったことないんよな……ダーツはなんとなく……」

 トランプゲームと言えば、大富豪と七並べしかやったことがない。

 そう思った瞬間、ジャンの脳裏に、見知らぬ少年たちの顔が過った。

「どうかなさいましたか?」

「……いや、なんでもないで。とりあえず、遊戯室の場所を教えてくれへんか?」

「喜んで……しかし、あの女がまだ潜んでいるやもしれませんので、移動はしばらくお待ちください。このお部屋にも、見張りをつけさせていただきます」

 生活を監視されるというのは、あまり気分がよくない。そう感じたジャンだが、賊が忍び込んでいるのでは、仕方がないとも思った。悪の組織には、敵がつきものである。

「ほな、適当なときに呼んでや。寝とるわ」

「のちほど参ります……ごゆっくりと、おくつろぎいただきますよう……」

 

  ○

   。

    .


 クレムリンの夏は寒かった。ジェット機と同じ高度で飛ぶクレムリンは、ろくな暖房設備も持たず、ロシア上空の寒気に晒されていた。

 配管の剥き出しになった研究室の一角で、テスラ博士はサモワールでお湯を沸かし、お茶を淹れようとしているところだった。白衣のポケットに手を突っ込み、空いた右手でパソコンを操作する。流れる数値を追いながら、博士は何度も首を傾げていた。

「おかしいのぉ……これではまるで……」

 そのとき、部屋の電話が鳴った。

 研究を邪魔された博士は、溜め息を漏らし、電話を取る。

「もしもし、テスラだ」

《博士にお電話が掛かっております》

「電話? ……誰からだ?」

《ジャックと言えば分かる……と伺っておりますが……》

 博士は顔色を変えた。

 サモワールがちんちん鳴り出したが、それも構わず交換手に指示を出す。

「すぐに繋いでくれ」

《しばらくお待ちください》

 沈黙が訪れた。

 博士は年柄もなくどぎまぎし、取り次ぎを待った。

《もしもし……》

「ジャックくんか?」

 挨拶もせずに、博士は相手の名を呼んだ。

《テスラ博士ですか? ……お久しぶりです》

「おお、やはりきみじゃったか。元気にしとるか?」

 ワイヤレスの受話器を持ったまま、博士はサモワールに歩み寄った。

 紅茶の葉を入れておいたポットに、お湯を注ぐ。

《博士の方も、お元気そうでなによりです……お時間はありますか?》

「きみとの電話なら、時間くらい作るよ……まあ、ちと面白いところだったがな」

《なにか、新しい発見でも?》

 テスラはそこで、自分が口を滑らせたことに気付いた。

 パソコンの画面に目をやり、それから口をモゴモゴさせる。

「個人的な研究じゃよ……ところで、今日はなんの用だ? 老いぼれの声が聞きたくなったわけでもあるまい?」

《アナスタシアが完成したというのは、本当ですか?》

 博士は、まだ薄めの紅茶をカップに注ぎながら、ふむと鼻息を漏らした。

 これほど早く情報が漏れているとは、思わなかったのである。

 それとも、自分が迂闊だったのだろうか。悪の組織の情報網は、世界中に張り巡らされ、各国の諜報機関と、同等のものだと言う。博士は、そんな噂を思い出した。

「それは、どこで訊いたのかな?」

《然るべき筋から……とだけ……やはり完成したのですね? なぜ教えてくれなかったのですか?》

「クレムリンの機密事項を、外部に漏らすと思うのかね?」

 博士の反論に、ジャックは押し黙った。

「で、仮に完成していたとしたら、どうする? 昔、わしもおもちゃを……いや、おもちゃと言うには、少々難解過ぎるが、いろいろ見せてやったのは事実じゃ……しかし、アナスタシアを見せるわけにはいかんな……未完成だとしても……なんせ……」

《手元になくて見せられない……の間違いではないのですか?》

「……そうかもしれんな」

 博士は、熱々の紅茶を啜った。

《お茶の時間でしたか。これは失礼を……》

「構わんよ。わしはイギリス人ほど几帳面には飲まんからな……で、用件は? アナスタシアが留守なことを知っているのなら、どうしてわしに電話をかけた?」

 博士は、相手がすぐには答えないと思った。

 そして、その予想は裏切られた。

《アナスタシアは、世界の悪のバランスを崩壊させると思いますか?》

 単刀直入な質問だった。

「何年前になるかの……おまえさんに、同じことを訊かれた覚えがある……」

《もう30年以上前だと思います。博士が僕の家庭教師だった頃の話ですよ》

「そうか……もうそんなになるのか……」

 テスラ博士は、紅茶の水面に視線を落とした。濃い琥珀色の鏡に、ふと、まだ若かりし頃の自分が現れ、湯気の向こう側に消えたような気がした。希望と情熱に燃える眼差しは、年老いた博士の胸に、ちくりとしたものを感じさせた。それが過去の美化なのか、それとも現在への失望なのかは、判然としなかった。

《博士、聞いておられますか?》

「ああ、聞いておるよ……」

《質問にお答えください》

「きみはまた、ひどく抽象的なことを訊いたな……」

《抽象的だとは思いません。世界の政治、経済、軍事のバランスを一変させる……これは、あなたの台詞です。僕はそのときの衝撃を、未だに覚えていますよ》

「きみたちの存在が脅かされるからかね?」

 テスラは、皮肉を言ったつもりはなかった。ただ単に、そう推測したのである。

《いえ……科学の力にです……》

「アナスタシアが今後どのような行動に出るかは、わしにも分からん」

《どういう意味ですか?》

「アナスタシアは自立した」

 テスラ博士は、最後の文句に、強くアクセントを置いた。

 まるで、自分に言い聞かせるようであった。

《自立した……? やはり、プログラムが暴走したのですか?》

「『やはり』ということは、なにか聞き及んでおるんじゃな」

 通信機器を挟んで、緊張が走った。

 探り合いは、博士の好むところではない。

 事実を率直に。それが彼のモットーであったし、またジャックのモットーでもあった。長い年月が、その根元を腐食し、看板を揺らがせてしまっていた。あるいは、お互いに微妙な思考上の変化があったのかもしれないと、博士は思った。人間というものは、自己の変節にはきわめて無頓着な生き物である。

 先に口を開いたのは、ジャックだった。

《アナスタシアは、上海で吸血鬼一族の手に渡ったと聞いています》

「その通り」

《ずいぶんと、明け透けなのですね……機密ではないのですか?》

「全員が知っている情報を、機密と言えるのかね? ……まあ、いい、こういう誤摩化し合いはよそう。率直に言って、アナスタシアは、わしらのコントロールを離れておる。自我を持っているからな。もうどうにもならん」

《自我? 自我なら、最初からプログラムされているはずでは……》

「よく覚えているな…… だが、それとは少し違う」

《違うとは?》

「感情付きの自我じゃよ」

《感情?》

 ジャックは、その単語を2度ほど繰り返した。

《アナスタシアには、感情があるというのですか?》

「おそらく」

《だとすれば、凄い発見ですよッ!》

 いきなりテンションの上がったジャックの声に、テスラは微笑んだ。

 ロンドンで家庭教師をしていたときの光景が、瞼の裏に蘇ってきた。新緑に輝くモミジの木と、そよ風に揺れるナラ、そして芝生の上をちょこまかと動くコマドリのことを、彼は今でもはっきりと回想することができた。

「確かに、凄い発見かもしれんな」

《博士は、お喜びになられないのですか?》

「素直に嬉しいよ……ただ……」

 博士は、そこで言葉を区切った。

《ただ?》

「子供に旅立たれたような気がしてな……」

 博士はここで初めて、自分の気持ちを吐露した。

 助手のイワンにすら、そのことを口にしてはいなかった。

《そうですか……》

「というわけじゃ。アナスタシアの今後の動きは、わしも予想できん。ただの人工知能と化すのか、世界を滅ぼすのか、あるいは……いや、適当な推測は控えよう。ともかく、きみの質問には、さっき言ったようにしか答えられんよ。……まさに、神のみぞ知る、だ」

《分かりました……お忙しいところ、すみません》

「それにしても、この会話は全部記録されとるんじゃが、いいのか?」

 テスラの質問に、少年っぽい笑い声が聞こえた。

《ご安心を。盗聴対策ならできていますので》

「それでこそ、わしの弟子じゃな……いや、わしの方が若いのか。どうじゃ? そろそろ、メアリー様も引退なさって、おまえさんに後を継がせるんじゃないのか?」

 一瞬、受話器の向こうの空気が変わった。

《母上は、ご健在です……では、ありがとうございました。お元気で》

「きみもな」

 そこで、通話は途切れた。

 交換手から、なにか忠告が来るかと思ったが、特に音沙汰はなかった。

 博士は残りの紅茶を流し込んで、再びパソコンに向かう。

「さてと、このデータ……どう解析したもんかの……」

 

  ○

   。

    .


 受話器を置いたジャックは、コップの水を飲み、一息吐いた。

 ロンガが黙って電話を片付ける。

 会話の内容には、一切口出ししないような素振りだった。

「ロンガ、通話記録は抹消しておいてくれ」

「畏まりました」

 本来ならば、悪の組織間で勝手にホットラインを繋ぐことは禁じられている。メアリーの許可を得ない通話は、処罰の対象ですらあった。自分の息子は罰さないかもしれないが、ロンガに累が及ぶのは、どうしても避けたかった。

 ジャックの思考は、まだ見ぬアナスタシアと、もうひとつ、テスラの呟いたもうひとつの台詞の間を行き来していた。

「……ロンガ」

 通話記録の消去に取りかかっていたロンガは、すぐに顔を上げた。

「なんでございましょうか?」

 ジャックは両手を組み、顎を支え、じっと宙を睨んだ。

 ロンガは催促するでもなく、その場で主人の言葉を待ち続けた。

「……母上は、僕を跡継ぎにするつもりだろうか?」

 何年もの間、心中に抱いていた疑念を、ジャックは初めて口にした。

 これにはロンガも多少、冷静さを失ったらしい。

「なにをおっしゃいますか……ぼっちゃん以外に、跡継ぎなどあろうはずがありません」

「しかし、組織の長は……貴族選挙で選ばれる……世襲じゃない……」

「メアリー様は、これで3代目の世襲総代。実質的には世襲でございます」

「実質的には……だ。確定しているわけではない。僕たちは王朝を開いているわけではないのだ。あくまでも、裏社会の貴族の中から、優秀な者が選ばれる。そうではないのか?」

「ジャック様より優秀な者だと、おりません」

 ロンガの口調は、決してお世辞に聞こえなかった。

 しかし、一度芽生えてしまった不信……その炎は、容易に消し去ることはできない。彼は最近の母親の言動を、どうにも理解しかねていたのである。


 コンコン


「誰だ?」

「サリカでございます」

 ジャックは、ロンガと顔を見合わせた。

「サリカか……入れ」

 扉が半開きになり、サリカが顔を覗かせた。

「なんの用だ?」

「ジャン様が、お暇なので、遊戯室の方へおいでくださるように、とのことです」

「ジャンが……?」

「お忙しいでしょうか?」

 ジャックは動揺を悟られぬよう、すぐに席を立った。

「いや、すぐに行く……ロンガ、おまえも来い」

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