第109話 最後の標的
ともえが目を覚ましたとき、彼女はジャンヌのマンションにいた。
白雪のような色をした天井を見上げ、ともえは記憶を掘り起こした。
昨晩なにがあったのか、にわかには思い出すことができなかった。
次第に漠然とした印象がよみがえってきた頃、突然、部屋の扉がノックされた。
「だれだ?」
ともえの問い掛けに、ジャンヌの声が聞こえた。
ともえは少しばかり上半身を持ち上げ、入室をうながした。
「おはよ、起きて大丈夫なの?」
「ああ、痛みはない」
ジャンヌは見舞いの品と思しき、リンゴの皿を差し出した。
ともえは急に空腹と喉の渇きを覚え、一口つまんだ。
シャリシャリとした感触と水気が、口の中に広がった。
「あなたって、回復が早いのね。アベルは寝込んでるわよ」
アベルの名前を聞いて、ともえは顔色を変えた。
「アベルは、どうした?」
「双性者に攻撃されたみたいで、怪我してるわ……っと、そんな顔しないでよ。大丈夫。かすり傷とは言わないけど、急所は外れてる。肋骨に命中したみたいで、ヒビが入ってるから、しばらく安静にしなきゃいけないけどね」
「そうか……」
ともえは、安心したような気持ちと同時に、もうしわけないという心地がした。昨晩の状況からして、アベルが自分をかばったことは、明らかだったからだ。役に立たないと思っていた友人に助けられたことは、彼女の自信を奪うとともに、過小評価していたアベルに対して、どこかしら罪悪感のようなものが沸き起こった。
友人。そこまで考えて、ともえはハッとなった。
いつ自分とアベルが友人になったのか、彼女には分からなかったのである。
「ジャンヌ殿……昨晩の双性者、追跡できぬのか?」
「それなんだけどねぇ……」
ジャンヌは、困ったような顔をした。
「無理か?」
「昨日のドタバタで、軍の関係者が死んだでしょ、ちょっと警戒が厳しいのよね」
「どういうことだ?」
「テロ警戒態勢に入ってるみたいなの。ま、双性者捜しの口実なんでしょうけど、こっちも表立っては動けないわ」
面倒なことになった。ともえはそう思いながら、外の景色を眺めた。
空の青さが、レース越しに透き通って見えた。
昨晩の潜入劇が、まるで嘘のようであった。
「ジャンヌ殿は、この件から手を引く気はないのか?」
ともえの質問に、ジャンヌはおどけたような表情を浮かべた。
「名探偵に撤退なし、よ」
「しかしこれはあくまでも、警察からの依頼なのだろう? 軍が出て来た以上、最後まで付き合う義理もないと思うが」
ジャンヌはひとさしゆびを立て、それを左右に振ってみせた。
「双性者と軍に舐められたんじゃ、魔女の名が泣くってもんよ」
「それだけの理由なのか?」
ともえは、少し遠回しにたずねた。
なにか、背景があるのではないか。そう考えたのだ。
けれどもジャンヌのほうは、あっけらかんとしていた。
「それだけよ」
「……変わった女だな」
「ふふふ、よく言われるわ……さて、もう動けるの?」
ともえは、昨晩攻撃された場所を、軽くさわってみた。
多少の痛みはあるものの、それは塞がった傷を押さえるような痛みだ。
どうやら自分の体は、思っている以上に回復が早いらしい。高校時代も、剣道などで怪我をした部分は、すぐに消えるのが常だった。
「大丈夫だ、動ける」
「オッケー、セバスチャンの見立てでは骨折してないみたいだし、出掛けましょ」
人使いの荒い魔女だ。
そう思いつつも、ともえはベッドから出てシャワーを浴び、服を着替えた。
昨晩の化粧のあとを落とすと、いつもの顔が鏡の中にあった。
「出掛けると言っても、どこへ?」
「軍は、あなたのことを捜していると思う」
「拙者ではなく、ヤワラ・カティンを、であろう?」
「ま、そうなんだけど、軍の技術なら、変装くらい見破れるわよ」
ジャンヌの指摘に、ともえは顔をしかめた。
「そのようなことは、聞いておらぬぞ」
「まあまあ、素顔は分かんないと思うから。ただ、変装を見破った軍は、市内に捜索の手を広げているはずよ。双性者であることも、バレたでしょうね」
「どうしてだ?」
「チェッカーで、ホールに双性者が2体いたはずだから」
それも、そうだ。ともえは、ジャンヌの推理を認めた。
とすると、自分が嵌められたような気がして、愉快ではなかった。
やはり魔女は魔女だと、ともえは警戒心を抱き始めた。
「ま、気楽に行きましょ」
ジャンヌはともえの肩を叩いて、部屋を出て行った。
ともえもあとに続く。
マンションを出ると、例の熱気が襲い掛かってきた。
雲がちらほら出ているものの、ほとんど快晴に近い空だった。
「で、どこへ行く?」
「具体的な候補があるわけじゃないけど……ムーラン・ルージュに行ってみる?」
ジャンヌの提案に、ともえは眉をひそめた。
「現場にもどるのか?」
「犯人は必ず現場にもどって来る……ってね」
「それは小説の受け売りであろう。そもそも、犯人は拙者たちだ」
「私たちだけじゃないわよ。双性者ももどって来るわ」
歩き出したジャンヌのあとを、ともえは早足で追った。
「ならば、軍ももどって来るのではないか?」
「かもね」
ジャンヌの無責任な返答に、ともえは呆れてしまった。
「かもしれぬ……ではなかろう。チェッカーで見つけられたら、事だぞ」
「大丈夫、セバスチャンに、これを作らせたから」
ジャンヌはポケットから、小さな2本の金属棒を取り出した。
そのうちのひとつを、ともえに手渡す。
「なんだ、これは……?」
ともえは目の前で、その金属棒をくるくると回した。
煙草くらいの大きさで、先にランプのようなものがついていた。
「チェッカーのチェッカーよ」
「つまり……チェッカーが近付くと、反応するということか?」
「正解。半径50メートル四方まで調べられるから、先に対処できるわ」
双性者用のチェッカーの有効範囲が、十数メートル。
それに比べると、50メートルは破格だ。十分に余裕があると思われた。
「スイッチは?」
「先端のランプ部分を、右に回してちょうだい。もう入ってるけど」
「チェッカーが接近した場合、先端のランプが光るのだな?」
「それプラス、電子音がなるから、注意してちょうだい。耳はいいんでしょ?」
ともえはうなずきかえし、それをポケットに仕舞い込んだ。
彼女の服装は、ジーンズに、黒のTシャツ。
さらに、日除けのツバ付き帽子とサングラス。
やや男っぽい服装だが、昨日の今日ということもあり、地味な服装を選んだ。
それに、性別転換をしたとき、スカートでは動きにくいのだ。
ジャンヌも、ジーンズに白のブラウス、サングラス、麦わら帽子という出で立ちだった。
「じゃ、ムーラン・ルージュへ急ぎましょ」
ふたりはタクシーを呼び止め、キャバレーへと向かった。
昼は営業してませんよ、と、運転手は忠告したが、その後は黙ってハンドルを握った。走行中、ふたりは終始無言で、次に口をひらいたのは、目的地の少し前だった。
「そこで停めてちょうだい」
「え? ムーラン・ルージュは、まだちょいと先ですよ?」
「いいから停めてちょうだい」
運転手はいぶかりつつも、車を停めた。
ジャンヌは50ユーロ札を出して、男の手に握らせた。
「細かいのはないんですかい?」
「釣りはいらないから」
「っと、こりゃどうも」
運転手はふたりを下ろすと、にこにこ顔でその場を去った。
ジャンヌとともえは、遠目にムーラン・ルージュの様子をうかがった。
「多分、警察がいるはずなんだけど……」
「殺人事件の翌日だからな。やはり、近付けないのではないか?」
もう少し強く反対すれば良かったと、ともえは思った。
「私は警察に知り合いがいるから、ちょっと様子を見てくるわね」
ジャンヌはそう言って、キャバレーの方へと歩き去った。
残されたともえは、日陰を求めて移動し、木立の下で涼を取った。
そよそよとした風に身を任せ、ともえは目を閉じた。
これまでの出来事を、順番に反芻し始めた。七丈島で、自身の出生を明かされたこと、中国への脱出、父の死、そして……いや、ともえの思考は、いつもそこで止まってしまう。柳生影勝の死の直接的な原因は、ムサシの攻撃ではなく、一向聴の特殊能力であった。とはいえ、それはムサシの心にも、ともえの心にも、深いしこりを残していた。
ともえが瞑想していると、ふいに女の声が聞こえた。
ジャンヌとは違う声音に、ともえは軽く身がまえた。
「お、おぬしは……ッ!?」
ともえの目の前にいたのは、あの黒人少女だった。エッフェル塔とシャトー・ルージュでの邂逅が、瞬時によみがえる。それと同時に、ともえは守りの構えを取った。
「何用だ?」
「……昨晩は、兄がお世話になりました」
やはり、そうか。
ともえは一歩下がりながら、リストウォッチを確認した。
点滅していない。
「おぬしは、双性者ではないのか……?」
「私は違います……しかし、兄はそうなのです」
少女は、悲しみをはらんだ声で、そう答えた。
ともえはジャンヌを呼ぶか、迷った。
周囲に視線を走らせながら、女の動きを警戒した。
「なぜ、拙者の前に出て来た? おぬしの兄は、殺人犯で捜索中だぞ」
「あれは正当防衛だったと聞いています」
ともえは、なにも答えなかった。
それは、自分やジャンヌも使っている口実だったからだ。
「おぬしの兄は、今どこにいる?」
「それは教えられません」
「ならば、おぬしはなんだ? なぜここにいる?」
「ひとつ、協力していただきたいことがあります」
女の言葉に、ともえは眉をひそめた。
「協力……?」
「昨晩、兄があなたがたを襲ったのは、あなたがたを軍の人間だと誤解したからです。それについては、大変すまなかったと申しております」
「そのようなことは、本人の口から聞かねば、納得できぬ」
ともえは、負傷したアベルを思い出し、怒った。
しかし、女は冷ややかな視線を投げ掛けてきた。
「そのような威嚇的な態度に出られるなら、やはり兄は来なくて正解でした」
「くッ……」
ともえは、女の正論に歯ぎしりしながら、話をもどした。
「で、なにを協力しろと言うのだ? 我々は敵同士だぞ?」
「敵ではありません……敵はフランス軍です」
「確かに、拙者は追われている身だが……敵の敵が味方とは限ら……」
「はい、はーい、そこのおふたりさん、なにを話してるのかな?」
ジャンヌの登場に、女はローブの布地で顔を隠そうとした。
「それはズルいんじゃない?」
ジャンヌはサングラスをずらし、美しい瞳で女を見つめ返した。
女はしばらくためらったあと、顔をあらわにした。
「さて、なにを話してるのかな? 私だけ除け者?」
ジャンヌは拗ねたように、そうたずねた。
わざとらしい演技だとは思うが、ともえはそれを口に出さなかった。
「……あなたも昨晩、ムーラン・ルージュにいらっしゃいましたね」
「んー、かもね」
ジャンヌは、曖昧な返事をした。
「お名前は?」
「ポンパドゥール夫人」
「……お答えいただけないのですね」
ジャンヌはうふふと笑った。
「で、繰り返し訊いて悪いけど、なんの話をしてたの?」
ともえは、女の代わりに答えたものかどうか、思案した。
とはいえ、女がなにを言いたいのか、ともえも十分に把握しているわけではない。
しばらくの沈黙のあと、女はようやくくちびるを動かした。
「あなたがたに、兄を助けてもらいたいのです」
「お兄さんって言うのは、昨晩の双性者かな?」
女は、黙って頷き返す。
「助けるって言うのは? 人間にもどす技術は、まだないんじゃない?」
やはり、そうなのか。
その事実は、ともえにも若干の動揺を与えた。
「兄も、普通の人間にもどりたいとは、申しておりません……復讐です」
復讐。その一言で、ともえはすべてを察した。
ジャンヌも、うっすらと笑みを浮かべた。
「双性者計画関係者の私刑……か」
「彼らがおこなったことは、非道な人体実験です」
「ひとつ教えて欲しいんだけど、あなたはなぜ双性者じゃないの? 双性者は体細胞レベルで異なるから、すべて培養のはずなんだけど?」
「私と兄は、共通の父母を持っています。兄は軍に提供された精子と卵子から作られ、私は母の胎内で育ったのです」
「ふぅん、じゃあ、なんで兄妹だって分かったの?」
「それは、私も驚きでした……兄は、軍の資料から両親の個人情報を突き止め、私に連絡を取ってきたのです。死んだ両親からは、兄がいること自体、知らされていませんでした。もっとも、両親自身、兄の出生を知らなかったのかもしれませんが……」
ジャンヌは、麦わら帽子に手を触れ、そっと目を閉じた。
「そういうことか……あなたたちの個人情報は?」
「双性者に個人情報など、あってないようなものです……兄はシメール 、私はサンドラです。兄の名前は、コードネームだと聞いています」
「いかにも、それっぽいわね」
ともえには、それっぽいところが見えてこなかった。
フランスの文化を知らなければ、わからないことなのだろう。
ただ黙って、会話に耳をかたむけた。
「5人には復讐済み、ってわけね」
「……兄からはそう聞いています」
「で、あと何人に復讐すれば、お兄さんの気が済むの?」
ジャンヌの質問に、女はあからさまな憎悪の雰囲気をただよわせた。
「兄は、軍に冷凍保存されていたのです」
「永久に目の覚めない、ってやつ?」
「そうです……フランス政府は双性者の開発を中止し、それまでに製造した双性者をすべて、冷凍保存することにしました。とはいえ、将来的な再開のためではなく、単なる標本に過ぎなかったのです」
「ま、そうでしょうね。政府としても軍としても、莫大な研究費をかけた以上、はい処分ってわけにはいかないでしょうし。で、その『関係者』とやらは、残り何人なの?」
ジャンヌの質問に、女は視線を下げた。
「因果関係を問えば、いくらでもいるでしょう……しかし、いくら双性者とは言え、私たち兄妹でそれを洗い出すことはできません……ただ、ひとりだけ、どうしても殺さなければならない人物が残っています」
「それは?」
「対外治安総局、情報部部長、ブルーノ・フーコー大佐です」
ジャンヌはにやりとほほえんだ。
「DGSEか……また大物ね。でも、なんで諜報機関を敵に回すの?」
「双性者の用途として、スパイが含まれていたのです。開発段階のデザインで、フーコー大佐は大きな役割を果たしました。そのせいで、兄はあのような姿に……」
ともえは、男がヤモリを模した怪物であったことを思い出した。
確かに、諜報向きだ。
青空に似合わぬ重苦しい空気の中、ジャンヌは息をついた。
「だいたいの事情は分かったわ」
「では、協力していただける、と?」
「それはできない相談ね」
ジャンヌの返答に、サンドラだけでなく、ともえも目を見開いた。
「なぜですか? あなたがたは、諜報部に追われているのでしょう?」
「それとこれとは、別問題よ。私たちは、シャトー・ルージュ連続殺人事件の捜査をしているの。あなたの兄が犯人であることは、もはや明白だわ」
「捜査……?」
「そう、捜査。私たちって、探偵なのよね、ワトソンくん」
ジャンヌは、ともえにウィンクした。
サンドラは、それを冗談だと思ったのか、ふたりの顔を交互に見比べた。
そして、すぐに後ずさりをした。
「あなたがたは、まさか兄を警察に……」
「んー、そういうわけじゃないわよ。もし殺人を思いとどまるなら、こちらも手を引いてあげるわ。悪くない取引でしょ?」
「……兄に、そう伝えます」
「よろしく」
おつかいでも頼むように、ジャンヌはサンドラの背中に手を振った。
ともえは言葉なく、この茶番を眺めるばかりであった。




