続児童残酷物語
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、一切関係ありません。悪しからず。
季節は冬――巷がクリスマスに浮かれている、12月25日の夕方。
小ぎれいな住宅街の中に建つ、雑草で囲まれた小汚いアパート《たそがれ荘》。塗装の剥がれた階段で二階へ上がると、すぐ手前に201号室がある。
未亡人の矢古辺渚と、一人息子の翔太が、そこで慎ましく暮らしていた。
古い呼び鈴が耳障りな金属音を室内に響かせた。
矢古辺翔太は飛び上がり、台所の椅子を持って玄関に向かった。扉の前にイスを置き、その上に乗って魚眼を覗く。
翔太はため息を漏らしつつ、ドアを少しだけ開けた。
知らないオバサンが二人いた。気勢を削がれつつ、二人の訪問者を観察する。どちらも清楚と純潔を強調したいのか、全身を純白のスーツで包んでいる。靴まで白なので、おそらく靴下も白だろう。
にもかかわらず、オバサン達の笑顔はどことなく気味が悪い。それ以上に彼女達が醸し出す雰囲気は、母の渚に似ていた。アレなところが、である。まさに見かけ通りで、陰湿、不審、怪訝などなど、マイナス面が次々浮かんでは消える。
遠くから、灯油を売るトラックがアラブ風の奇怪な音楽をかき鳴らし、近くの商店街が一日中垂れ流すクリスマスソングと重奏して響く。
「あの……何か御用ですか?」
うるさい。頭がおかしくなりそうなので、翔太はドアを早く閉めたかった。
藪から棒に、オバサンの右側――白い眼鏡をかけて、鶴のように細長い首には奇妙な模様のスカーフを巻いている――が一声を発した。
「人は死んだら、どこに行くと思いますか?」
「は?」
やはり……。翔太は落胆の声が漏れしかける。初めての体験ではなかった。
「人は死んだら、どこへ行くと思いますか?」
同じ言葉を、向かって左側のオバサン――厚化粧に、鼻の横にある立体的なホクロが目立つ小太り――が聞いてきた。
自分なんかより、偉い学者や坊主に聞く方が早い気がする。
「あの、分かりません。すみません」
後半の台詞が余計だろう。何も悪事をしたわけでもないのに、なぜこちらが謝らなければならないのか? だが、同じ状況に遭遇すれば、ついでに言ってしまうのは何も自分だけではないはずだ。
「そうよねえ。坊やには、まだ難し過ぎたかしら」
右のオバサンが言う。じゃあ、なぜ質問をした? そもそも答えのない問題みたいなものだろ? 質したかったが、どうせ満足する答えは得られないだろう。
「パパかママは?」左が言った。
「仕事でいません」
母の渚は、近所のスーパーでパートをしている。いつも6時頃に帰ってくるので、もうそろそろのはずだ。
「じゃあ、ボクだけお留守番? 偉いわねぇ」右が言った。
小学二年になれば、家にいるだけで褒められる言われはない。翔太は、同年代より背が低い。そのせいで、彼を園児と間違えるものも少なくない。
左のオバサンが鞄から一枚の小冊子を取り出した。チェーンが掛けられたドア越しに、翔太へ手渡す。
――あっち系の外回り、か。翔太の予想は的中した。
「私達は、光の楽園に導いてくれる、ルシフェラー様のご指示に従い、日夜、布教活動をしているのよ。これをパパとママに見せて、一緒に読んでね」
B5サイズほどの小冊子は、仙人の格好をした老人が何人も大木の枝の上で座禅をしていたり、横に伏していたりしている、意味不明な表紙を飾っている。絵の下には、黄金色で彩った太字で、『これぞ、楽園にしかない神の成る木!?』とあった。
冬だが少し寒い。矛盾だが、なぜか翔太はそう思えてならなかった。
二人の訪問者が隣室へ行こうとした直後、翔太は力一杯にドアを閉めた。
“ガス抜き”は日常生活の中で発散しなければいけない。以前、怒りに任せて家の中をグチャグチャにしてしまった反省から生まれた、翔太の考案である。
おかげで、少年が歩く小学校の通学路や廊下、教室のロッカー、さらには屋上の壁床にはやたら凹みや欠損が目立った。
あまりにも非現実だが、似たようなケースはある。中国の少林寺の修行僧は日々、訓練の踏み込みを重ねる。そのため床には窪みが多いという。もっとも、翔太の場合は鍛錬ではなく、感情の発散が目的だが――。
錆びた階段をカンカン上がる足音がし、「ちょっと、あんたらは何者?」と、ドアの向こうから母の声が聞こえた。
さっきの連中を目ざとく見つけたのだろう。それにしても、いい大人の誰何とは思えないのは、翔太の気のせいだろうか?
「私達はルシフェラー様が遣わした、楽園創造教の布教使節団でございます」
誰何も返答もトチ狂ってる。魚眼を覗こうとしたが止めた。わざわざ面倒だし、本心では彼女達の今後など興味はない。
「なんですって! おのれ悪魔教の回し者か、畜生めが!」
ヤクザの抗争じゃあるまいし……。呆れる翔太に構わず、ドアの向こうでは渚の咆哮とオバサン達の悲鳴がこだました。
慌てて階段を下りる複数の足音に遅れて、「おととい来やがれ! アンジェラ様がいる限り、お前ら邪教徒の失楽園など完成させるものか!」
アンジェラ様とは、関西弁でメガネをかけた女性シンガーで、最近では昔の演歌も歌い出したあの人、では当然ない。悪しからず。
アンジェラ様とは、最近になって彼女が入信した新興宗教、ヴィーナス教会の偶像を指し、本殿の奥に特大サイズが鎮座している。
いずれにせよ、アンジェラ様を現世に降臨させるのに、心のこもったお布施と祈りの習慣が必要となる。よって、矢古辺家の生活費と翔太の自由時間が、再び搾取されているのは言うまでもない。
説明が遅れたが、翔太の母、矢古辺渚はカルトに熱中しやすく、7歳の息子にとって、ストレスの大部分を占める問題であった。
ドアが開き、彼女がやっと帰って来た。顔中が汗にまみれたせいで化粧も崩れ、マスカラが黒い涙を流している。髪も狂ったように乱れ、安物買いした服も同じ有様だったが、勝利の余韻に浸るドヤ顔で帰還した本人には、どうでもいいようだ。
「ただいま、翔ちゃん」
満面の笑顔が先刻のオバサンらと重なる。類友の彼らでさえ、宗派の違いで争うのだ。世界を取り巻く宗教問題が解決するのは、まだまだ遠い未来だろう。
「翔太!」
渚はいきなり叫び、翔太の手に持っていた冊子を奪った。
「こんなモノを持って、あんたは一体何をしようとしたの!」
たかだかB5の小冊子ごときで、人が血相を変えさせるほどの問題行動を引き起こせるならば、逆に教えてほしかった。
しかし、翔太の関心は、母がお土産を持ち帰って来たかどうかだった。
「ママ、あれ買ってきた?」
「アレ? トースターなら前に買って、あなたが癇癪で壊しちゃったじゃない」
忌まわしい過去を無神経に蒸し返す渚に、翔太の堪忍袋は二割ほど裂けた。
「液晶テレビだよ。約束を忘れたの」
「ああ、確か今朝言っていたわよね……」
事の発端は、今年の7月――正確には25日の日曜日にさかのぼる。
その日から、全国のテレビが地デジ(地上デジタル放送)に代わるので、家のアナログテレビでは映らなくなったのだ。翔太はテレビを見ない生活を目指した。務めて読書に耽った。渚の検閲から免れるために、哲学書や学術書ばかりを選んだ。
だが2カ月後、流行遅れという恐怖感に、少年は焦り感じて、ついに屈した。必死に母に直談判するものの、答えはノーと説教のセットと決まっていた。
さすがに真顔の渚が「これが地デジじゃなかったの?」と小さなブラウン管に映る砂嵐を指して言った時には、テレビを投げつけてやりたい衝動に駆られたが、なんとか抑え込んで耐えた。
急展開は、12月になってすぐだった。渚の方から「今年のクリスマスプレゼントは、液晶テレビよ」と言ってきたのだ。もちろん、翔太は小躍りした。渚に何があったのか? どういう風の吹き回しにして、心境の変化があったのか? 彼が問い質すのを怠ったのは、迂闊かもしれない。要は、それほど嬉しかったのである。
クリスマスが近づくにつれて、約束を反故する様子を見せない渚に息子の期待は徐々に高まっていき――そして現在……母から子へのクリスマスプレゼントの約束はなされたのであろうか?
渚は頭を天井に向けて、忘れ物を思い出そうとする仕草をした。やはり、ダメか。翔太の顔には落胆が浮かびつつあった。
「ちゃんと買って来たわよ」作りすぎた笑顔で、彼女は言った。
「え? なんて言ったの、ママ」
「液晶テレビよ。約束したでしょう」
夢ではないという確認だった。この世界が現実でありますように、と翔太は頬を軽くつねった。嬉しい痛みを感じた。
「ありがとう! ママ大好き!」
「もう大袈裟なんだから、翔ちゃんは」
翔太の感謝の一言は本当だった。これが本当の母の姿ならどれだけ救われているだろうか。宗教狂いの渚だが、本当は美人であるのを彼は知っている。ジキルとハイドと同じく、自分の母には二人の人格が住んでいると信じていた。
いつまでも、ジキル博士の側にいますように……。
「ところで、テレビを部屋に入れるのを手伝ってくれる? とても重たくて、重たくて」
「お安い御用だよ!」
翔太は意気揚揚 に外へ向かう。今なら、渚のために火の中に入れるに違いない。
外の通路に出ると、ドアの横に巨大な段ボール箱が置いてあった。
なぜか、小学二年生の翔太よりも高い。高さだけではない。横も奥行きも異様に長く、全体的に正方形に近かった。箱だけで中身は小さいだろうと思い、持ち上げようとするがビクともしない。渚と一緒に力を入れても一緒だった。
結局、隣室に住むガチムチの外人に手伝ってもらい、新型のテレビは、無事、201号室の奥間に収まってくれた。
いよいよだ。翔太の心は階乗に上がっていく。
梱包から出てきた代物に、翔太は目を丸くした。
以前、近所の電器屋でリンゴのマークが入ったパソコンを見た事がある。だが、目の前に鎮座しているそれは、あの奇抜でカッコいいデザインとは似て非なる、なんとも奇妙なオブジェであった。
丸い20インチの液晶の周りを、蛇の彫刻が這い、(この時点で十分おかしいが)全長1メートルぐらい髪の長い女神像が丸い液晶胸に抱えているのだ。目を閉じた女神の顔は深淵な威厳さを醸し出しているが、何かが違うと翔太は感じた。
余計な装飾に、無意味な造形。失望という暗雲が、少年の中で広がっていく。
「ママ……これ、テレビだよね?」
「そうよ。誰がどう見ても、薄型の20型液晶テレビでしょう」
何を今更、という感じで彼女は呆れるように言った。
違う。翔太は即断した。これは、テレビ以外の何かだ。
まず、薄くない。翔太の知っている液晶は奥行きがとても薄かった。目の前の物体は20インチぐらいなのに、飾りがデカ過ぎる。本物はもっと軽く軽いはずだ。なぜ、女子供と腕力のある外人さんとでやっと運べるほど重いのか?
「どこで買ってきたの、コレ?」
「近所の電器屋よ。安かったのよ」
おそらく電器屋以外のどこかだろう。
「ママ、これさ、交換できる?」
つい言ってしまったが、気づくには遅過ぎた。
「翔太!」と叫ぶ声と共に、渚の平手が少年の小さな体をなぎ倒した。信じられないかもしれないが、意外と攻撃力はある。
「ひどいわ! ママがせっかく買ってあげたというのに!」
大粒の涙を流しながら、渚は訴えた。
「これを買うために、ママはずっと貯金をためていたのよ。全部、あなたのためだったのよ。それなのに、あなたって子は……」
「ママ……」
「そうよ。どうせ、わたしはセンスの悪い女よ。悪趣味で、感覚のおかしい、頭の先からつま先まで間違った判断しかできないわ」
彼の中で罪悪感が募ったが、なぜか、その言葉を否定できる台詞がなかった。だからといって、「うん」とは言えない。
正しいものは正しい。だが、それを口に言うのは別なのだ。
「ごめんなさい。これはテレビだ」
こういう時は、すぐ折れるに限る。妥協ではなく方便だ。
居心地の悪さを紛らわすために、翔太は取扱説明書からリモコンを取り出した。テレビの設定を始めるためである。従来のアナログテレビと違い、液晶テレビは所在地の県を選んだり、郵便番号を入力したりしなければならない。
テレビを点けると、(説明に従って、設定を選んでください)と女性のアナウンスが説明を始めた。面倒だが仕方がないと意気込んだ翔太だが、第一の項目にリモコンの指がピタリと止まる。
あまりにも、既視感著しい質問であった。
(あなたは死んだら、どこへ行くと思いますか?)
下に表示される、四つの選択肢。天国(天界)。地獄。煉獄。何もない(無)。
少し考えてから、翔太は四つ目を選んだ。無神論者としての信条ではなく、普通の感覚としてそう思った。
決定を押すと、(エラー。もう一度、再試行して下さい)と出る。思わず、翔太は悪癖になりつつある舌打ちを漏らした。
翔太は、続けて天国と地獄を選んだ。いずれも、外れ。まるでクイズ方式だが、答えは最後に残った“れんごく”で決まりだろう。
「ねえ、ママ。煉獄って何?」
読書に耽ってからの翔太は、同学年以上に漢字が強くなった。さすがに意味までは分からない。なんとなく、分からなくても困らないと思ったが、気にはなった。
顔を上げて、渚は即答した。「天国と地獄の中間にある所よ」
翔太は、煉獄を選択した。すると、第二問に画面は映った。
(あなたの宗派は何ですか?)
「はい?」思わず、声に出た感想。簡潔にして実直。
選択肢は、無限にあるとしか思えなかった。延々と下がるスクロール。そこには、世界中の宗教団体の名が連ねられており、総当たりで選んでいたら、クリスマスどころか来年越しの作業になるだろう。
「どうしたのよ?」
泣き止んだ渚が画面に近づいてきた。少し唸ると、「ヴィーナス教会はある?」
「今、ママがハマっているカルトだよね」
瞬間、脳天に衝撃が走る。渚が拳骨を下したのだ。矢古辺家では、《カルト》という単語は禁句である。もっとも、翔太は母の拳骨に慣れていた。以前、一升瓶で殴られた時と比べれば、ずっとましだった。
数百の選択肢は五十音順に並んでいるはずなのに、なぜか『あ行』の列の一番の最初に、ヴィーナス教会はあった。おかげで、見つけるのに時間がかかった。
エラーはなく、難なく次の項目へと進む。
(これで、最後の設問です。ヴィーナス教会は、あなたの汚れた魂を救っていると思いますか?)
利用者の心が濁っていると、なぜ、この機械は断言できるのであろうか? 翔太は、自分が完全な善人だとは考えていない。小ズルい事もある。時には嘘をつく。だが、このテレビの質問はあまりにも高慢過ぎやしないかい?
選択肢は、『はい』か『いいえ』。翔太は自らの正義に身を委ね、後者を選んだ。テレビは、『後悔しませんね?』と執拗に聞いてきた。再度、同じ答えを押す。
すると、『読み込み中』とパーセンテージが表示された。腹立たしい事に、1%ずつにしか上がらない。
十分くらい経過しただろうか、やっと100%に到達しようとしていた。翔太が安堵した、まさにその時――。
(ぎゃあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!)
「うああああぁぁぁぁ!」
画面が暗転し、突然現れた鬼女が血まみれの顔で叫んだ。食い入るように見つめていた翔太は、意表を突かれ大絶叫を上げた。
「素直に答えないから、そうなるのよ」
腰を抜かす少年の後ろで、渚が腕を組みながらニヤついた。素直に答えたら、こうなったのだ。
「何だよ、コレ! まるで、インターネットのビックリ動画じゃないか?」
「もう一度、最初からやり直しよ」
結局、母の言う通り、設定は第一問から仕切り直しだった。同じ問いに同じ答えを選び、最後の設問では、不本意ながら『はい』を選んだ。
その間、渚は楽しそうな顔をしているのが、少年は気がかりだった。
そもそも、なぜ母はテレビを買う気になったのだろうか? 何か思惑があるのか、はたまた、単なる気まぐれか……あるいは、頭を打って気でも触れたか――つまり、正気に戻ったとか?
考え込むと時間が早くなるものだ。長い設定が終わっていた。あれだけ待ち望んでいた地デジが、7月以来、家で拝めるのだ。すっかり疑点を忘れてしまい、翔太少年は胸を躍らせながら、珍妙な液晶テレビの前に噛り付いた。
最初に映ったのは、何やらニュースのようだった。
意味なく小難しい顔をするキャスター、派手さのない質素な背景や雰囲気からして、NHKだろう。翔太が壁の時計を確かめると、19時ジャスト。NHK総合でこの時間帯ならば、ちょうどニュース・セブンが始まるところだ。
「どう、テレビを買ってよかったでしょ」
何度も言うが、母の渚はテレビ嫌いのはずだ。今まで何度頼んでも買ってもらえず、しまいにはゴミ捨て場で偶然見つけた小型テレビを使っていたほどだった。
有頂天な気分の翔太は首肯し、無言で『うん!』と答える。顔はずっと、液晶に釘付けの状態であった。
メガネで小太りのニュースキャスターがこちらに一礼し、挨拶する。
(こんばんは、ニュース・セブンイレブンです。なんちゃって)
のっけからおかしい。NHKが流すニュースは、こんなおふざけの挨拶をしたか?
しかも見事に滑っているのに、画面の端から笑いが漏れている。唐突なのと、ネタが寒いせいか、翔太はクスリともできなかった。
(本日未明、ハンナラ教とホンナラ教の信者数名が、互いの教義を巡って、激しい抗争をしました)
(夕方ごろ、チキ院教の教祖が信者大多数にリンチされました。原因は、自らが開眼した力と公言していた教祖の空中浮遊が、実はワイヤーを使ったトリックであると判明し、トリックに気づいた信者らは大激怒。教祖をリンチし、その場で退会しました)
(今日、大天使アンジェラを祀るヴィーナス教会にて、天国の存在を否定した信者が火あぶりの刑に遭い、厳正なる罰を受けました)
画面が切り替わる。密室で、石油ストーブに囲まれ、半裸の中年男が悶絶している光景が目に入る。(熱いよっ! 死んじゃうだよっ!)と棒読みの命乞い。あまりにも芝居がかっている演技にしか思えないところで、カメラはスタジオに戻った。
どれも宗教がらみのニュースばかりが続く。終わりに、もう一人のキャスターが締めくくった。
(ホントに、ヴィーナス教会以外の団体はいけませんね。皆さんも、危険な新興宗教には注意して、女神様の教義を守りましょう)
「もっともだわ」後ろで、渚のつぶやきが聞こえた。
ニュースが終わった。同時に、夢から覚めたように翔太はチャンネルを一つ進めた。NHK教育のはずだが、はたして。
最初に映ったのは、歌のお兄さんとお姉さんの二人。美男美女だが、虚ろな目の下にクマが浮かせ、幼児達に元気よく歌っている。
(みんな! 天使様にお祈りは済んだかい?)
(はーい!)
(あれれ、はぐれ者のカノンちゃんは、お約束を破るのかい?)
珍妙な豚の着ぐるみ、カノンちゃんは腰に手を当てて威張り散らす。(へんだ! あたいは女神様なんて信じないよーだ)
(いけないなあ。そんなカノンちゃんはこうだ!)
突如、豚の足元に大穴が現れた。哀れ、カノンちゃんはブーブー喚きながら姿を消した。風を切る落下音に遅れて、(グシャッ!)と肉を打つ効果音。
幼児の中には泣き出すのも幾人かいたが、無理もない。
(いいかい、お祈りをしていない子は、カノンちゃんみたいになっちゃうぞ。皆、守れるかな)
そう言うと、怖い顔をして子供らを追いかけ回すお兄さん。逃げる彼らは迫真過ぎる演技を見せる。追いかける方は、いかにも変質者だった。
下に字幕が映る。『みんなも、きょうぎをまもりましょうね♪』
「三つ子の魂百までね」また、後ろが何か言った。
翔太は背中に怖気を走らせ、チャンネルを変えた。今日のNHKはどうかしている。民放はどうだろうか?
4チャンネルにすると、ちょうど見慣れないアニメをやっていた。実際に見た事ないが、何だか二昔前のアニメみたいな感じで、どこか安っぽい。
一目で悪人と分かるチンピラが老若男女を襲っている。そこに駆けつけるコスプレ姿の好青年。こいつが主人公だと思ったが違うようだ。彼は颯爽と登場するなり腕を切られ、大袈裟な断末魔を上げる始末。単なる、かませ犬かと思った矢先――。
(待ちなさいな!)
ビルの屋上から降り立つヒロイン。フリフリのスカートに奇抜なファッショからして、日曜の朝にやっていそうな美少女ヒロインっぽい。
主人公は、彼女でもなかった。着地した時に足首を捻挫して勝手に自滅した。さすがに、翔太は笑った。意表を突く演出は嫌いではない。
(だめだ。あの人がいないと)
(そうよ! あのお方なら懲悪できるはずだわ)
彼らの台詞に呼応するように、太陽が2つに割れて、光背を輝かす肥満体の中年オヤジが雲に乗って降りてきた。いかにも、“教祖”っぽい。
(悪魔め、制裁してくれる!)
そいつが手を伸ばすと、突如、悪者の全身を紅蓮の炎が覆い隠した。悪者は断末魔を上げて、瞬く間に蒸発してしまった。翔太はアニメの世界で初めて、瞬殺というものを見た気がしたが、特に感動はなかった。
(教義を守らぬ者は、こうなるのだ!)と下品な高笑いを上げる主人公。明らかにヒーローとは対をなす、悪玉のラスボスそのものだ。
彼に向かって恍惚の視線を送り、男女とモブ民衆が随喜の涙を流して歓迎しているところで、目の前にテロップが浮かぶ。
【二次元世界においても、教義は絶対です】
ちょっと待った。悪役の背景は知らない。だが、そう簡単に殺していいのか。容易く更生の根を摘んでいいのか? ましてや、教義とやらを守らない奴はこうなるだとか、懲悪ではなく、むしろ制裁だろう?
「子供に見せたい番組ね」渚がうっとりと酔うように言った。
心の中で、翔太は叫んだ。こんなモノ、子供に見せてはいけない!
翔太はチャンネルを色々変えた。恋愛ドラマに切り替わる。どこかのデートスポット。そこで並んで歩く、美男美女のカップル。
(俺さ……ずっとお前の事が気になってたんだ)
(ユキト……)男の名前だろう。
(でもダメなんだよな)
(どうして? 私が嫌いになった?)
(違うんだ。俺の教義は、恋愛したら業火に焼かれて、地獄に堕ちてしまう)
場にそぐわない、硬派な単語がいきなり飛び出した。
(私だってそう、一千本の針に刺し貫かれて一千年苦しむそうよ)
(アユ……俺達ダメなのかな。一緒になれないのかな)
(そんなの、やだよ! 私もユキトが好きだったの!)
二人は抱き合い、キスを交わした。いいじゃないか、勝手になっていればいい。二人が恐れる事態にはならないと、翔太は保証できた。
その時、港の風景が変わり、灼熱の炎に切り替わった。CG以前のSFXよりもチープな特撮で再現された、学芸会風の地獄に落され、二人は悶え苦しむ。
やはり、例のテロップが出た。『教義は絶対です。屋内外問わず、不純異性交遊につながるであろう恋愛は、例外なく万死に値します』
なんだこれ? 翔太は怒りを覚えた。二人の愛より重いのは教義とは……。
「ざまあみろ」
渚の嘲笑が漏れる。翔太は、浅ましい母に失笑した。
チャンネルをいくら変えても同じ落ちで終わる内容ばかりだった。教義に天使。キーワードはその二語。どちらも聞き覚えがあった。
一方、渚は料理番組に夢中になっていた。毒気のありそうな色をしたパイ、エンジェル・パイを先生に倣って速攻で作ってみせた。見た目と一致しそうな材料の組み合わせの詳細や作り方は省くが、とりあえず犬の餌にしか見えない。
その間、翔太は一計を案じた。できれば出したくなかったが、伝家の宝刀の出番だろう。トイレに入ってから“それ”を起動すると、慣れた手つきで操作した。
自分の勘は正しかった。翔太は、怒りと確信を胸に秘めて、パイの味見をしようとした母の前に立った。
「ママ、このテレビは偽物だね?」
ギクリと擬音が聞こえてきそうなほど、挙動不審の渚。「何言ってるのよ」
「ほら見て」
翔太は、今まで隠し持っていた物を取り出した。携帯電話であった。そのワンセグに映る放送と、目の前のテレビとは明らかに違っていた。
「翔太! 一体それをいつどこで?」
「ママには秘密で、ワンコインで買ったんだ」
買うだけならば、安い携帯はいくらである。だが、通話をするにも相手はいない。ネットにつなげば、通信費がかかり母に露見される。購入以来、翔太は電源を切ったままそれを持ち歩いていた。
すべては、学校で友達に遅れを取らないため。今時の子供にとって携帯とは、武士に刀と同じ重みを持つほどの必需品なのだ。
母に頼んで買ってもらえないので、こっそり買うしかなかった。
「どういう事なの? このテレビは一体何? 分かるように説明してよ」
その時、呼び鈴が鳴った。翔太は舌打ちして立ち上がる。
いつものように台所の椅子を運び、玄関のドアまで持っていくと、足場に乗ってから扉の魚眼を覗いた。
レンズの向こうにいるのは、知らない顔ではなかった。金髪の頭に、青い目は輝かせ、口から白い歯をこちらに見せる、外国人の若者。名前は覚えていないが、隣で住んでいて、ポンコツテレビを運ぶ時に手伝ってもらった。
真冬なのにタンクトップ一枚で、これよみがしに筋骨隆々の肉体を見せつけているのだから、出身国はおそらくアメリカだろう。
「オヤオヤ、バレちまったみたいネ、矢古辺サン。あなた、オ芝居下手ヨ」
あなたこそ日本語下手ヨ。翔太は指摘したかったが我慢した。
「どういう事? この人はヴィーナス教会の回し者なの?」
「なんてことを言うの!」すかさず、母からビンタを喰らった。
「失敬な。私は、ヴィーナス教会の広報担当。ホンデ、このテレビは、入りたての信者を教化させるのに、化学班が開発した矯正映像装置、通称ですワ」
世界のナントカモデルを標榜する、テレビの名称をなんとなく思い出した。
考えてみると、ここの二階には、自分達しか住んでないはずだ。年がら年中、女が意味不明な言葉を叫び、怪しげな祈りが聞こえてくる所など、誰が住むだろうか?
「この度、君のお母さんに頼まれて、このテレビ貸したけど、君に効果なくて残念ネ」
翔太は母を鋭く睨んだ。「ママもグルだったの?」
「すべてはあなたのためだったの……」
「ノン、ノン。グル(尊師)は女神様だけネ」外人が横槍を挟む。
「うるさい!」
翔太が怒鳴り、気迫に押された二人は沈黙した。
母がクリスマスプレゼントとして、テレビを買ってくれると聞いた時、来年一杯は親孝行しようと決心していた。怒りを通り越して、悔しさをも過ぎて、ただただ悲しみだけがこみ上げてくる。言葉が詰まり、ひきつけみたいになる。
純粋に、裏切られた気持ちで少年の涙腺は緩み、濁流のごとく落涙を許していた。塩辛い滴が畳を濡らす。
息子の嗚咽に、渚はひさしぶりに心を痛めた。また傷つけてしまったのだと、自覚した。だが、すべては不信者の息子を改心させたいがためだった。
「まあ、とにかく、受信料だけは払ってもらうヨ」
「え?」彼女には初耳であった。《アグネス》は、確かタダだったはず。
「契約規約は読まなかったカ? 《アグネス》の貸出自体は無料だけど、設定時間も入れた受信料は、一分につき百円になるノヨ」
「じゃあ……総額でいくらになるんですか?」
「ココに出るヨ」
外人はリモコンで操作すると、液晶の端に金額が出た。使用時間は、設定に1時間、視聴に15分。締めて、75分。総額で7,500円とある。古い旅館にあるコインタイマー付きのテレビだって、一時間に百円なのだから、ぼったくり猛々しい。
短時間にしては法外な料金に、渚は青ざめた。翔太も泣き止んでいた。
「そんな……ヴィーナス教会はお金とは無縁の団体と聞いたのに……」
今まで、金や時間を散々寄進してきたじゃないか? 母の間抜けぶりに翔太は呆れるしかなかった。渚の青白い顔は、一層青ざめている。
「コトワザにもあるネ。地獄のサンタも金次第です。安心するアル、受信料はすべて私の国に送金されるヨ」
「祖国?」
「私は、生まれは自由の国だけど、育ちは赤い大国。あなた達の受信料は、そのまま広報担当たる私の報酬を経て、我が国の肥やしになる。ヨロシ?」
「何がヨロシだ、畜生……」渚が、台所の流しから包丁を取り出した。「おのれ、よくも私達をだましやがって! この邪教集団めが!」
人間離れした渚の怒声に、外人広報は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「オーノー! あんた達、ニッポンの恥サラシでーす!」
鬼のような気迫に、外人は呆気なく逃げ出した。部屋の中には、《アグネス》だけが残され、沈黙だけが支配していた。商店街のクリスマスソングも聞こえない。
「ごめんね、翔ちゃん。また騙されちゃって……ホント、ダメな母親ね」
肩をすくめ、渚は呆れたように言った。
「いつも、そう。色んな人に騙されてバカにされて……結局、裏切らなかったのは、死んだお父さんと、息子のあなただけ。なのに、当の私が嘘をついて……」
「ママ……もういいよ。もういいよ」
渚は目が覚めた。また、酔うかもしれないけど、とりあえず今は素面に戻って、素直
に謝ってくれたのだ。
翔太は、ある哲学書の不思議な一説を思い出した。人間は過ちを忘れ、過ちを繰り返すのではない。過ちを思い出すために、過ちを繰り返すのだ。
「ありがとう、翔ちゃん。実はね――」
また、呼び鈴が鳴った。舌打ちしながら、渚は玄関へ向かった。
「しつこいわね。また、アイツね」
ドアを勢いよく開けると、例の徴収人ではなく、小さな女の子が一人いた。ちょうど、翔太ぐらいの年齢である。オシャレで高そうな服、頭には大きな蝶の形をしたカチューシャを乗せている。
「あの……こんばんは。矢古辺くんはいますか?」
いきなり出てきた鬼婆の威容に押され気味な少女は、怯えつつ言った途端、渚の眉が吊り上がる。怒りの形相が浮かび、小さな訪問者は少したじろいだ。
「あんた、ヴィーナス教会の手先? 今度は翔ちゃんを誘惑しに来たのね!」
渚は台所に戻ると、置いてあったエンジェル・パイを鷲掴みにした。異変に気づいた翔太が母を追って、玄関に向かった時には遅かった。
「ダメ、ママッ! その子は――」
「これでも喰らいやがれ!」
渚は少女の顔に向かって、不味そうなパイを投げつけた。
無残にも、少女の顔面は白粉を塗ったような有様となった。
「ひどい……ひどいよ、矢古辺くん」
「舞ちゃん、ごめん。僕のママは、狂ってるんだ」
涙を流す白塗り顔の少女に、翔太もつられて泣き出した。
「それなら、早く言ってよ! お気に入りの服も髪もベトベトになっちゃったた! せっかく、矢古辺くんもクリスマス・パーティに招待してあげようと思って、呼びに来たのにひど過ぎるよ……ママに怒られちゃう」
「とにかく、服を洗濯しないと――」
「うちの洗濯機は、歩いて五分、往復十分のコイン・ランドリーよ」
渚の一言が引き金となり、ダムが決壊したように少女は喚きだした。
「学校裏サイトで言い触らしてやるからっ!」
捨て台詞と共に、翔太の同級生、舞は寒風が吹き荒れる階段に消えた。
「ボク……また、友達を一人失くしちゃった。学校でいじめられちゃう」
「平気よ」
「なんでさ?」
「学校はもう冬休みなんでしょ? どうせ、年を越して正月が過ぎて三学期になる頃には、きれいさっぱり忘れてるわよ」
そう言えば、そうだ。母もたまにいい事を――と思った矢先、翔太の頭の中のあった袋が決壊した。“堪忍”とある袋がとうとう弾けた。
「そう言えば、ヴィーナス教会と敵対していた楽園創造教の冊子があったわよね。何だか良さそうだから入信してみようかしら。騙されたと思って」
渚は何もなかったかのように、冊子に乗ってある電話番号をかけていた。(はい、こちら――)のところで、電話が急に切れた。
「あれ、おかしいな? 電話線でも取れたのかしら……」
渚が確認すると、真横に翔太が立っていた。小さな手には、無残にも素手で引きちぎられたモジュラーケーブルが握りしめられていた。
「翔太! あんたって子は――」
「なんだよう……何なんだよう……」
息子は明らかに怒気を孕んでいる。危険水域の真っただ中。それが初めてではないと知っている渚は、慌てて言い訳を考えたが、とりあえず謝るのが先決だった。
「ごめんなさい、翔ちゃん。悪かったわ、本当に」
「何も分かってないんだ……」
「何が?」
「ボクはね、薄型でコンパクトな、地デジが映る、ちゃんと液晶テレビがほしかったんだ! それなのに、あれは何のつもり? 変てこな番組やアニメばっかりの、宗教詐欺師のテレビは? え!」
巻き舌を駆使して怒鳴っている。顔も梅干しみたいに赤い。
「しかも、ボクを悔悛させるための作戦だって? 一体ボクが何をした? どんな悪事を働いた? 間違いを犯したか? さあ、答えてみてよ」
「あの、テレビをほしがったからよ。世俗の芥を垂れ流す、罪深い箱はあなたの脳を破壊するようなもの――」続きは途切れた。翔太の投げた電話機が渚の脇をかすめ、窓を突き破ったためである。
「ゲーム脳並みに非現実的だ。てんで、おかしいじゃないか、そんなの!」
翔太は炊飯器を壁に投げつけた。夕食時だというのに、空っぽの窯が床に落ちて、空しく乾いた音を残して消えた。
「第一、帰って来た時の怒鳴り声は何? 近所中に丸聞こえだよ。あの恥の上塗りはわざと? 一体どれだけ恥という字を重ねたら気が済むのさ! 書初めの宿題でも出たのかよ!」
「お、落ち着きなさい、翔ちゃん。近所に丸聞こえでみっともないわよ」
失言である。癇癪の相手に対し、売り言葉に買い言葉は逆効果に他ならない。
「みっともないのは、あんたの方だ!」
翔太が小回りの回し蹴りを、ちょうど渚の脛辺りに直撃させた。「だおお!」と悶絶する渚。翔太は故障した暴走ロボットと化し、家具や食器を破壊しだした。
「ボクがほしかったのは、CMで篠原涼子の出てきたテレビだ。変な天使が持ったインチキテレビなんて欲しくなかったんだよぉ!」
それから小一時間、翔太は暴れまくった。皿を手裏剣みたいに飛ばし、ちゃぶ台をひっくり返し、それをやはりフリスビーみたいに飛ばした。ついでに畳も飛ばしたのか、壁めり込んでいた。大穴の空いた天井からは夜空が覗いている。
《アグネス》に対する仕打ちも凄惨を極めた。女神像の肢体はバラバラに切断され、液晶は無残に粉々に割られ、美しい顔も陥没して原形を留めなかった。
「翔ちゃん、メリー・クリスマス」
「手遅れだよ、もう。プレゼントのないクリスマスなんて、ない方がいい」
荒廃した奥間の真ん中で、お互いに布団を引いた母子は距離を置いて寝ていた。
「プレゼントなら、ちゃんとあるわ」
「また、宗教関連なら怒るよ」
渚は首を振った。「冷蔵庫の中」
ふと、気になった翔太は疲れた体を起こして、小型冷蔵庫へと向かう。逆さにひっくり返ったそれを開けると、同じように逆さまになった箱があった。近所で見かけたことのあるケーキ屋のマークが入っていた。
箱の中身は、ワンホールのチョコレートケーキだった。翔太は空腹を紛らわすために、時々、商店街のケーキのショーウィンドーから、小さい頃から大好きだったチョコレートを眺める癖があった。
今、彼の目の前には、普段は厚いガラスで隔てられていたチョコレートケーキがあった。生憎、逆さになっていたせいか、形は潰れていたが、甘くほろ苦い香りを放つそれは、正真正銘の本物だった。
「どうして、これを?」
「翔ちゃん、時々ケーキ屋で、ずっと眺めてたでしょう」
母は知っていたのだ。何でも、パートの帰りに見たらしい。
「本物のテレビを買う余裕がなかったの。だから、それで勘弁してもらおうと思ったの。本当にごめんね、翔ちゃん」
月夜に照らされた母は、いつもの宗教狂いの彼女ではなかった。翔太が望んでいた、きれいな時の渚だった。三十路を過ぎているとは思えない、白く透き通った顔は女神そのものだ。
「ありがとう。明日食べるね」
翔太はケーキを冷蔵庫に戻すと、自分の布団に潜って、さめざめと泣き始めた。感情に暴力を働いた自分が、幼稚すぎて情けなかった。
ママはちゃんとプレゼントを用意してくれていたのだ。サンタクロースになってくれたというのに、自分ときたら――。
「お馬鹿さんね。クリスマスに丸くなって泣く子がいますか?」
布団からチョコンと顔を出して、翔太は母の横顔を見た。宝石みたいに輝く瞳は、いつもの濁ったそれとは違ったし、乱れた黒髪も光沢を放っている。
これが本当の母なのだと思った。サンタさんのプレゼントなんだ、と彼は思った。今年のクリスマスは本当によかった。心の中で、翔太はサンタに感謝した。
「ところで、翔ちゃん」
「なあに、ママ?」
「どうして、篠原涼子が出てるテレビが欲しかったの?」
「それは……」
翔太は言い淀んだ。篠原涼子が綺麗で好きだからという、商品の機能とは無関係の理由なんて、あまりにも恥ずかしくて言えるはずがない。
だが、頬を赤らめた息子に渚はすべてを悟り、その衝撃に破顔した。息子の年上好みは前々から気づいていた。が、まさか自分よりも年上の人妻も恋愛対象だったという事実には、母親として心穏やかに看過できなかった。
再び、きれいな方の渚は影を潜めた。
「翔太!」
「え、何?」
一転、鬼婆に戻った母に、翔太は縮こまる。
「篠原涼子は止めておきなさい。あなたには合わないわ。私の勘に狂いがなければ、あの女は間違いなく、あばラぁ!」
翔太の蹴りが、彼女の罵詈を最後まで続かせなかった。
「もうそれ以上何も言わないで」
渚はしばらく呻いていたが、落ち着いてくるとまた一言付け加えた。
「吉永小百合も、悪くないわよ」
怒りの応酬を恐れて、渚は身構えていた。寸分の間が過ぎたところで、眠たげな翔太の声が小さく言った。
「考えとく」
こうして、今年の聖夜も静かに過ぎていくのだった。
《了》
本作は、以前に投稿した短編『児童残酷物語』の続編に当たります。しかし、関連性はあまりないようにはしました。
冒頭にあった「人は死んだら――」の勧誘の場面は、実体験が元になっております。もちろん言われた側です。翔太同様、「は?」と返しました。
今後は、『冥王の娘』の同じく続編を予定しています。
それでは、メリー・クリスマス、いいお年を、あけまして――。