02.それは転がる石のように
「……匂うわね。主に貴方から」
教室に戻って席に着いた途端、唐突に話しかけられた。
今日は随分と「匂い」というキーワードにご縁がある日だ。夏だからかな。
声の主は葉月涼花。右隣の席の女子。
セミロングの髪。男前の領域に片足突っ込みそうなほどに凛々しい目元。そしていつも不機嫌にも見えるし無表情にも見える表情をしている。
僕が通っている高校は「予備校に通わずに現役合格」を目標としているそこそこの進学校で、今日は理系学部志望者向けの夏期講習の日だ。真面目な受験生に夏休みなんてないのである。
文系の奴らや既に受験を諦めている奴、推薦が確実な奴らは来ていないので教室にいる人数は通常の半分以下。周囲の席もスカスカ。話しかけられているのは僕で間違いないだろう。
「臭うって、まさか隣の席まで漂うほど汗くさい!?」
夏だし仕方がないとはいえ、高校生男子だって女子から臭いとか言われればそれなりにヘコむ。
「そんなことをこの男だらけの教室で気にしていたらキリがないわ。師走君、私が言っているのはそうじゃなくて」
犯人はお前だ! と言わんばかりに僕を指さして、彼女は断言する。
「チョコの匂いよ」
「……!」
なんてこった。渡す段取りもろくに練っていない状態で言い当てられてしまった。
確かに僕はそれを持っている。あの子から、如月節奈という後輩から預かったブツを。
「嫌がらせね」
「へ?」
「この私が無類のチョコ好きと知っていてこれ見よがしにそんな匂いまき散らしているんだわ」
そうだったのか。初めて聞く情報だ。
「嗜好品の持ち込みは校則違反。先生にバラされたくなかったら、大人しく一個よこしなさい」
そんな校則あったか?
鋭い目つきでこちらを見つめる葉月。彼女は人と話すとき真っ直ぐに相手の目を見て話す。お年頃な一男子としては色々と、やりづらい。
降参。こういう時は小細工抜きのノーガード戦法に限る。
「わかったよ。ギブアップ。んじゃ……ほい」
鞄から男としては何やら手に持っているのが恥ずかしくなる可愛らしい包装に包まれたあの箱を取り出して、素直に渡すことにした。よし、ミッション完了。やってみれば意外と簡単なことだったな。
「え? い、いや、一個でいいわよ。何も箱ごとくれなくても」
「遠慮するなよ。元々葉月にあげるために持ってきたものなんだ」
「……」
あれ?固まってる?
「お、お~い、葉月さ~ん?」
「プレゼントって……こと? きょ……今日が私の誕生日って、よく知ってたわね……」
そうだったのか。こりゃまた初めて聞く情報だ。
いや、そんなことは脇に置いておくとして、何だこの微妙な空気。
よく考えてみたらこのシチュエーション、まるで僕が葉月に誕生日プレゼントを渡したみたいじゃないか?
いかん。これじゃ僕は只のキモい奴になってしまう。
ちゃんと後輩の子から預かったものだってことを伝えておかなければ。
「実はこれ、」
「あ、ありがとう……。ねえ、ここで開けてみてもいい?」
こちらが何か言うよりも先に問いかけられてしまった!
「え? え、え~と、うん。OK」
ヘタレな自分をとりあえず呪う。まずい。タイミングを逸した。
ギクシャク且つ丁寧に、というある意味器用な手つきで葉月は包装を外し、箱を開ける。そしてそのまま、ピキリともう一度固まってしまった。
箱の中は、やはりチョコだった。そしてそのチョコは、まるで「湯煎が終わったので、これから形を整えて冷やして固める予定ですが何か?」と問いかけてきそうな勢いでドロッドロに溶けていた。
ああ、だからあんなに匂いがしていたのか。
暦は八月。
市内の気温が観測開始以来の最高を記録した日。
うん、まあ、保冷剤も添えずに持ち歩いていたら、当然そうなりますよね。こぼれて外にはみ出なかっただけでも幸運でしたよね。はい。
こりゃ顔に向かって投げ返されても文句は言えないかも、などと覚悟を決めていると、彼女は無言のまま人差し指でチョコをすくい、ペロリと舐めた。うお、何かエロい。
ちょっとドキリとしてしまったことを自覚するよりも前に、彼女の顔が青白く染まった。
「こ、これ手作りなのかな? と、とって……も、おいしい……よ?」
いや、そんな今にも吐血しそうな顔色で言われても。
「ちょ、無理するな。何かごめん! それ、回収するよ!」
「ダメ!」
思いっ切り払いのけられてしまった。痛い。
「あ、ごめん……! その、食べ物を粗末にしちゃいけない、というのがうちの家訓なの。全力でいただくわ」
「そ、そうなんだ」
全力って、食べるときに使う言葉なのだろうか。
「ところで、さっき何か言いかけてなかった?」
「い、いや、何も言ってない。何でもないよ」
とっさにそう答えてしまった。だって仕方がないだろう?
季節はずれで、ドロドロに溶けていて、元々なのか傷んでいたのかわからないけど恐らく劇薬レベルの不味いチョコ。
そんなものを、如月が作ったなんて教えてしまったら、葉月の如月への印象はきっと悪くなってしまう。
そしたら、如月は、悲しむ。きっと。
アイツのそんな顔を、僕は見たくない。
……決めた。ちゃんとした素晴らしい、いかにも愛情こもってますっていうチョコを、僕が作ろう。
勿論今度こそ、如月からのプレゼントということにして。
腹を据えた僕は宣言する。
「次は、ちゃんとしたものを持ってくる!」
「え……!?」
「ちょっと時間がかかるかもしれないけど、必ず持ってくる。その時に、葉月に伝えたいことがあるんだ」
如月のこと。あの子がどれだけ葉月のことを慕っているかってこと。
「え、その、ありがとう……た、楽しみにしてる。」
珍しく目をそらして俯く葉月。
教室にいた他の連中の好奇の視線が全身にザクザクと突き刺さった。
この時、既に僕は如月のことで周りが見えない状態になっていたのかもしれない。トチ狂っていたとすら言える。
後になって思えば、見た目や味がいくら悪かろうが、ちゃんとあのチョコが如月からのものであることを最初から葉月に伝えるべきだったのだ。それが葉月と如月の両方への礼儀というものだろう。その後どうなるかなんて彼女ら二人の問題だったはずなんだ。
もしもタイムマシンが手に入ったら。
僕はまず、この日の自分に真空飛び膝蹴りをくらわせに行く計画を立てようと思う。
(続く)