タイトル未定2026/08/23 20:37
お読みいただければ幸いです。
六時のノック
第一話
コンコン。
「……」
コンコン。
啓介は薄く目を開けた。見慣れた天井の木目が、ぼんやりと視界に映っている。
なぜか、身体がひどく重かった。
指先を動かそうとした。
……動いた。
それだけのことなのに、なぜか安心した。
ゆっくりと壁の時計へ目を向け、寝返りを打った。
(誰だよ、こんな朝早くに……)
しばらく布団の中で動かなかった。
聞こえるのは、自分の呼吸だけだった。
やがて、諦めたように起き上がり、床へ足を下ろした。
冷たい。
寝癖もそのままに玄関へ向かい、ドアスコープを覗いた。レンズの向こうはいつもと変わらない共用廊下、電気メーターの箱、隣の部屋の傘立て、剥がれかけた避難経路のシール。誰もいない。
啓介はもう一度覗いた。景色は動かなかった。
「……気のせいか」
そう呟くと、自分の声だけがやけに小さく聞こえた。
エントランスのカードリーダーに社員証をかざす。ディスプレイに浮かんだ「川田啓介」の文字を、いつものように目に留めた。
会社では、昨日の修正漏れを上司に指摘された。
「すみません」
頭を下げながら、自分の謝罪の声が、どこか他人事のように聞こえた。席に戻ってからも、集中できず、資料の同じ行を、何度も読み返した。
(集中できていない)
そう思った瞬間、自分がそのことに気づいているのが妙だった。こんなふうに、自分の手足が自分のものではないような感覚。今まで、こんなことはなかった気がする。
夜、帰宅した啓介は玄関の前で立ち止まった。
白いドア。傷も汚れもない、ごく普通の玄関。朝と何も変わっていない。
――何も変わっていないはずなのに。
なぜか、しばらく見つめていた。自分でも理由が分からないまま、首を傾げ、鍵を開けた。
その夜は、何事もなかった。
*
翌朝。
コンコン。
啓介は目を開けた。昨日と同じ音だった。今度は、すぐに身体を起こし、壁の時計を見た。
六時。
「……またか」
昨日の音が夢ではなかったことを、ようやく認めた。床は相変わらず冷たかった。
玄関へ向かい、ドアスコープを覗くと、昨日と寸分違わぬ景色が、そこにあった。同じ電気メーター、同じ傘立て、同じ静けさ。
「イタズラ……?」
口にしてみた。だが、逃げる足音も、笑い声も聞こえなかった。誰かがいた痕跡すら、どこにも残っていない。
その日も小さな失敗が続いた。資料を一枚入れ違え、取引先への返信を後回しにし、そのまま忘れた。どれも大きなミスではない。
(こんなこと、今まであったか……)
そんな考えが、何度も頭をよぎった。まるで自分の一部が、少しずつ言うことを聞かなくなっているようだった。
*
三日目の朝。
コンコン。
啓介はすぐに目を開けた。
「まただ」
眠気より先に苛立ちが込み上げ、布団を跳ねのけて玄関へ向かった。素足が床を打つ音だけが、部屋に響いた。
ドアスコープを覗いた。覗いた先には、何もない廊下が広がっているだけだった。
啓介は迷わずドアを開けた。冷たい朝の空気が頬を撫でたが、廊下には、音も気配も見当たらなかった。空っぽの静けさが、そこにあるだけだった。
「なんで……」
声が震えた。誰もいない。なのに、音だけが残る。それが何よりも気味悪かった。
第二話
翌朝。
啓介は目を閉じたまま、布団の中で息を潜めていた。眠っていたわけではない。時計を見ることができずにいた。昨夜から、ほとんど眠れていなかった。
部屋は静かだった。それでも、あと少しで「あの時間」が来ることだけは分かっていた。鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。
そして。
コン、コン。
啓介は目を見開いた。玄関ではなかった。
音は、耳のすぐそばで鳴った。頭の内側を叩かれたような、生々しい音だった。
「っ……!」
飛び起きた。壁の時計は、ちょうど六時を指していた。
玄関へ駆け寄り、ドアスコープに目を押し当てた。覗いた先に映るのは、無人の廊下。ドアを開けても、朝の冷たい空気が流れるだけだった。景色は何も変わらない。変わったのは、自分だけだった。
会社へ向かう足取りは重かった。昨夜から何度も考えた。疲れているだけだ。寝不足だからだ。そう言い聞かせても、六時のノックだけは頭から離れなかった。
デスクに座り、キーボードを叩く。
カタ、カタ。
その音が「コン、コン」に聞こえた。コピー機が動いた。ウォーターサーバーの水が落ちた。誰かがドアを閉めた。どの音も、ノックに変わった。耳を塞いでも消えなかった。音は外ではなく、自分の中で鳴っていた。
「川田さん」
名前を呼ばれ、顔を上げた。部下が心配そうにこちらを見ていた。
「顔色、悪いですよ。大丈夫ですか」
「……少し寝不足で」
そう答えた自分の声が、妙に遠くから聞こえた。一瞬、誰か別の人間が答えたような気がした。
啓介は小さく首を振った。
「……大丈夫です」
今度は、自分の声に聞こえた。笑おうとしたが、頬がうまく動かない。パソコンの画面が滲んで、文字が読めなかった。
啓介はふらつくように席を立ち、トイレの個室へ逃げ込んで鍵を掛けた。狭い空間に座り込むと、大きく息を吐いた。
静かだった。
――ようやく、静かになった。
そう思った。
コン、コン。
啓介は顔を上げた。
もう一度。
コン、コン。
「……誰ですか」
返事はない。ただ一定の間隔で、叩かれ続けている。
恐る恐る足元へ目をやった。ドアの下の隙間。そこに、一足の革靴が見えた。黒い革靴。爪先の擦り傷を見た瞬間、喉が締まった。
――あれは、今朝履かなかった方の靴だ。
玄関に置いてきたはずの、自分の靴だった。
息が止まる。啓介は勢いよく鍵を開けると、個室を飛び出した。手洗い場にも、個室の前にも、人の姿はどこにもない。鏡に映る自分だけが、青白い顔で立ち尽くしていた。
その日の午後、啓介は早退した。帰宅すると、そのままソファへ倒れ込んだ。電気もつけず、天井を見つめたまま、小さく呟いた。
「……俺は、壊れてきてるのか」
返事はなかった。静かな部屋だった。
その静寂を破るように、低い電子音が響いた。
ピッ。
部屋の隅、布を被せたままのスマートスピーカーだった。コンセントは昨日抜いたままだった。それでも、機械音声は静かに告げた。
『――間もなく、夜が明けます』
啓介は動けなかった。窓の外はまだ夕暮れだった。赤く染まった街並みが、ゆっくりと夜へ沈もうとしている。時間が、どこかおかしい。それなのに――部屋の中だけが、もう次の朝を待っていた。
靴も、スピーカーの声も。思えば、すべて「音」から始まっていた。ノックの音が、いつの間にか形を変えて、この部屋のあちこちに染み出しているような気がした。
第三話
四日目の夜。
啓介はスマホで心療内科を検索した。「不眠」「幻聴」。指先が震えた。予約フォームに名前を打ち込みながら、どこかで自分を情けなく思った。それでも、送信ボタンを押した。何もせずに待つよりは、ましだった。
寝る前には、スマホの録音アプリも立ち上げた。
「証拠を残す。それだけだ」
誰に言うでもなく呟いた。これでもし、また何かが鳴ったなら――今度こそ、正体を突き止めてやる。そんな意地だけが、かろうじて啓介を支えていた。
その日から、啓介はできる限りの手を尽くした。玄関の外側、床の上にそっと小麦粉を撒いた。誰かが本当に訪れているのなら、足跡が残るはずだった。ドアの隙間には、剥がれればすぐ分かるよう透明なテープを小さく貼った。後日、六時を待たずに家を出た日もあった。共用廊下の隅、空室になったはずの301号室の前に身を潜め、息を殺して待ち伏せしたこともあった。会社帰りにはネットカフェへ寄り、一晩そこで明かした夜もあった。
結果は、いつも同じだった。小麦粉の上には、足跡ひとつ残らなかった。テープは、剥がれた形跡すらなかった。301号室の前では、夜が明けるまで何も起きなかった。
そして――どこにいようと、六時になれば、耳の奥であの音は鳴った。ネットカフェの個室でも。駅前のベンチの上でも。同じだった。
啓介は、少しずつ理解し始めていた。この現象は、外からやってくるものではない。
それから数日後の朝。
啓介は、まだ壁の時計を見ていなかった。
見なくても、分かった。汗が滲んだ。
まだ鳴っていない。まだ……あと少し。
コンコン。
いつもの音だった。だが今日は、布団から出なかった。息を止めて、じっと待った。しばらくして、ようやく玄関へ向かい、ドアスコープを覗いた。誰もいない、いつもの廊下。
――終わった。
そう思い、肩の力を抜いて部屋へ戻った。その瞬間。
背後で、
コンコン。
振り返った。そこにあるのは、ただの壁だった。
啓介は拳を握った。恐怖より先に、苛立ちが込み上げた。
「……いい加減にしろ」
壁に向かって、思い切り叩き返した。
ドン、ドン。
掌が痺れるほどの強さで。反応はなかった。ただ静寂だけが返ってきた。
耳を押し当てた。隣の部屋の物音一つ、聞こえない。それがかえって不気味だった。壁一枚の向こうに、誰かがいる気配すらしない。
啓介は玄関へ飛び出し、隣室のインターホンを押した。反応はない。もう一度押した。ドアの向こうは静まり返ったままだった。
部屋へ戻り、スマホで管理会社の番号を調べた。呼び出し音が三回鳴って、担当者が出た。
「隣の部屋から物音がすることがあるんですが、住んでいる方は――」
「え、301号室でしたら、半年前から空室ですよ」
一瞬、言葉が出なかった。
「……空室、ですか」
「はい。次の入居者もまだ決まっていなくて」
礼を言って電話を切った。手の中のスマホが、やけに重く感じられた。
録音アプリを開いた。再生した。自分が壁を叩く音だけが、正しく記録されていた。それ以外の音は――向こう側から返ってきたはずの何かは、どこにも残っていなかった。まるで、音そのものが記録されることを拒んでいるようだった。
第四話
その夜。
啓介は部屋中の電源を切った。壁時計の電池を抜き、スマホの電源を落とした。コンセントというコンセントを引き抜き、スマートスピーカーには布を被せた。光も、音もいらなかった。六時を知らせるものは、何一つ残さなかった。
暗闇の中、布団へ潜り込んだ。
(明日こそ、鳴らない)
そう思い込まなければ、眠れなかった。
しかし、夜明け前。啓介は寒さで目を覚ました。
カチ。
耳の奥で、秒針が鳴った。
カチ。
カチ。
壁の時計は止めた。それなのに、音だけが規則正しく頭の中を刻み続けた。
啓介は布団から起き上がった。息が白く見えそうなほど、部屋が冷えていた。玄関へ向かった。時計はない。スマホもない。それでも、もう分かっていた。六時が来る。
ドアの前へ立った。深呼吸をひとつ。逃げなかった。もう、この音から逃げるのは終わりだった。
ノブに手をかけたまま、動かなかった。
まだだ。まだ、鳴っていない。
心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。
ドクン、ドクン。
それ以外の音は、何もない。時計を止め、スマホを切り、コンセントを抜いた部屋は、息を潜めているように静まり返っていた。啓介も、息を止めた。
玄関の隙間から流れ込む空気は、氷のように冷たかった。素足の裏から、床の冷たさが這い上がってくる。震えが寒さのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、もう分からなかった。
――鳴るなら、早く鳴ってくれ。
そう願う自分と、鳴ってほしくないと願う自分が、同時に胸の内にあった。
一秒が、やけに長い。
二秒。
三秒。
耳の奥では、まだあの秒針の音がしていた。
カチ、カチ、カチ。
止めたはずの時計が、頭の中でだけ動き続けている。
――もうすぐだ。
ノブを握る手に、汗が滲んだ。冷たいはずの金属が、なぜか熱く感じられた。世界から音が消えたようだった。
そして。
コン、コン。
啓介は勢いよくノブを回し、ドアを開けた。そこにあるはずの廊下の代わりに広がっていたのは、灰色のカーペット。白い蛍光灯。コピー機。壁際の観葉植物。どこかでコーヒーの匂いがした。見慣れた景色だった。毎日歩いた。毎日座った。毎日ため息をついた。会社だった。
玄関の向こうには、会社のオフィスが広がっていた。啓介は言葉を失った。理解が追いつかなかった。それでも視界だけは、容赦なく現実を映していた。
思わず一歩、前へ出る。
ガチャン。
背後で重い音が響いた。振り返った。玄関のドアが閉まっていた。
ゆっくり近づき、ノブを回す。開かない。力を込めて、もう一度回した。やはり、開かなかった。
誰が、鍵を――
「コツッ」
音がした。ドアポストの隙間から中を覗いた。玄関には、一人の男が立っていた。
─続─
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回、続編あります。




