第1話 現代馬術初陣、いざ出陣!
1
「ふむ……ここが、現世の馬小屋か……」
がらん、とした夜明け前の厩舎。
一頭の栗毛の馬と向き合い、赤い鎧に身を包んだ男が、まるで寺にでも参拝するかのように手を合わせていた。
「我が愛馬よ……いや、違ったか……お主の名は、何と申す?」
横で目を白黒させていた若い厩務員――橘あやめは、ため息をつきながら手に持った手帳をめくった。
「……この馬の名前は『黒風』です。もう、何回も説明したでしょ……」
「黒風、黒風……うむ、良き名だ!」
烈馬は黒風の鼻先に自分の顔をぐいっと寄せた。
一瞬、黒風は驚いて耳を伏せたが――なぜか烈馬の声にすっと落ち着き、静かに鼻を鳴らした。
「ほお……この馬、烈馬さんにだけはなつくんですよね。不思議だな……」
あやめがぽつりと呟くと、烈馬は得意げに胸を張った。
「馬は拙者の戦友。時を越えようと、その理は変わらぬ!」
あやめは額に手を当て、思わず空を仰いだ。
(……昨日まで普通の厩務員だった私が、なんでこんな鎧の武将のお世話を……)
2
烈馬がこの厩舎に転がり込んだのは、ほんの三日前のことだった。
未明、厩舎の裏に倒れていたところをあやめが見つけ、救急車を呼ぶより先に「馬に乗りたい!」と暴れるので、仕方なく関係者以外立入禁止の厩舎に連れて来たのだ。
「その鎧、どこで買ったんですか? コスプレですか? 本気ですか?」
「コスプレとは何じゃ?」
「ですよね……」
結局、病院にも交番にも行かず、なぜか厩舎に住み着き、空き部屋を勝手に自室と宣言し、気がつけば厩務員の仕事まで手伝いだした。
――その働きぶりは、妙に凄まじかった。
馬の扱いだけは、誰よりも上手かったのだ。
馬の機嫌をとる、蹄鉄を点検する、飼葉の配合を勝手に変える……問題行動も多いが、馬たちは明らかに落ち着いている。
そして、誰よりも早く厩舎に来て、誰よりも遅くまで馬の世話をする。
「……そこだけは、本物の武将っぽいんだよな……」
あやめは烈馬の後ろ姿を見つめながら、ぼそっとつぶやいた。
3
「おーい、烈馬!」
突然、背後から声がかかった。
振り返ると、若くて背が高く、見るからにスポーツマン体型の青年が立っていた。
髪をきっちりまとめたその男こそ――藤堂俊介。現役の若手エースジョッキーだ。
「おお、若造か。何用じゃ?」
「若造言うなって……お前、また勝手に馬に乗る気じゃないだろうな?」
藤堂は険しい目をして、黒風の首筋をさすった。
黒風は鼻を鳴らして、やはり烈馬の方へ顔を向けた。
「乗るぞ。黒風と共に戦場を駆けるのじゃ!」
「……ここ、戦場じゃないからな? 競馬だからな? ルール守れよ?」
「任せておけ!」
あやめと藤堂が顔を見合わせて同時に思った。
(……全然、信用できない。)
4
朝の調教が始まる時間が近づいてきた。
厩舎の周囲に、他の調教師や馬主が集まってくる。
烈馬は黒風の鞍を確認すると、どこからか引っ張り出した自分の赤備えの兜を被り直した。
「兜は……やっぱり外してください! 危ないから!」
「むっ、これが無いと武将の威厳が――」
「威厳よりも安全第一です! さあ、外して!」
あやめが必死に兜を奪い取り、代わりに最新型のジョッキー用ヘルメットを被せた。
「むむ……何と軽い兜よ……」
「だから兜じゃなくてヘルメットです!」
「小癪な……」
烈馬は頬を膨らませながらも、しぶしぶ従った。
5
「さあ烈馬さん、今日が調教デビューですからね! わかってますか?」
あやめは最後の確認をする。
「前の馬を抜かさないこと! 指示されたコースを外れないこと! ゴール前で叫ばないこと!」
烈馬は馬上で仁王立ちした姿勢のまま、胸を叩いて答えた。
「心得た! 武士に二言はない!」
藤堂は遠巻きでため息をついた。
「お前の『武士の約束』ほど信用ならんものはない……」
「何か申したか?」
「何も。」
黒風が蹄を鳴らす。
スタートの合図が響いた。
烈馬の初めての現代馬術――その幕が、いま上がった。
6
パカッ、パカッ――
朝の調教コースに蹄のリズムが軽快に響く。
夏の朝の空気は澄んでいて、馬の吐息も白くはないが、どこか緊張をまとっていた。
コース脇では、あやめと藤堂が双眼鏡を構えながら、烈馬と黒風の走りを固唾を呑んで見守っている。
「……お、思ったより普通に走ってる……?」
あやめが驚いた声を漏らす。
烈馬は、軽やかに黒風の背でバランスを取り、脚の使い方も正しい。
古来の武将とは思えぬほど、きちんとフォームを保っている。
「フッ……やるじゃねぇか、戦国武将さんよ……」
藤堂も思わず感心した。
7
――しかし、そんな静寂は長くは続かない。
コースを三分の一ほど走ったところで、烈馬の目に、前を走る二頭の馬の背中が映った。
黒風も自然と、前の馬に追いつこうと脚を速める。
その瞬間――
烈馬の血が騒いだ。
(敵軍……!? 追いつく……討ち取る……!)
「黒風! 我らの突撃を見せてくれい!」
カッ!
黒風が鼻を鳴らした。
いつもの暴れ馬の本領が、烈馬の合図に応えて解放された。
「烈馬さん!? まさか――!!」
双眼鏡越しに、あやめの悲鳴が響いた。
8
バシュン!
黒風の脚が、一段階ギアを上げる。
調教ペースを完全に無視して加速。
前を走っていた馬の内側を、強引に抜きにかかる。
「おいバカッ! コース守れって言ったろ――!!」
藤堂が顔面蒼白で叫ぶが、届かない。
烈馬は、戦場のように前傾姿勢で馬体を伏せ、口元には勝ち誇った笑み。
「敵将、討ち取ったりぃぃぃ――!!」
烈馬の叫び声が、朝の競馬場に木霊した。
9
コース脇のスタッフや調教師が一斉に悲鳴を上げる。
「誰だあれ!?」
「制止しろ! 止めろ――!!」
「うわ、またあの武将だ!!」
先頭の馬を追い越し、さらにその先の障害物コースにまで突撃しそうな黒風と烈馬。
「烈馬さん、止めてえええぇぇぇ!!」
あやめは双眼鏡を捨てて、柵越しに走り出す。
「だから言ったんだ……武士の約束は信用できねぇって……!!」
藤堂も頭を抱え、スタッフに指示を飛ばす。
10
結局、烈馬と黒風が止まったのは――
コース外れの草地を突っ切り、池の手前で黒風が勝手に急ブレーキをかけたおかげだった。
「ふははははっ! 見たか! これが真田烈馬、戦国最強の突撃じゃ!」
馬上で仁王立ち、胸を張る烈馬。
泥だらけの顔を必死に拭いながら、あやめが駆け寄った。
「はぁ、はぁ……あのですね……烈馬さん……」
「うむ、誉めよ。戦果を!」
「……誉めません!! 二度と暴走しないって誓ってください!!」
「ぬ?」
烈馬は黒風のたてがみを撫でながら、悪びれもなく笑った。
「心配無用じゃ、次はもっと華麗にやる!」
「いや、やらないでくださいー!!」
朝の競馬場に、あやめの絶叫がまた響いた。
こうして――
真田烈馬、現代競馬界の問題児としての第一歩を踏み出したのだった。