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あなたの何気ない一言があったから、なんとか仕事が完成しました~ある植物学者が妻に果した約束

作者: 茜子


 植物学者の牧野誠太郎が大学の研究室から帰宅すると、キッチンでは妻のスエ子が夕飯の支度をしていた。鍋からは温かい湯気が立ち上り、味噌の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。鼻歌を口ずさみながら包丁を動かすスエ子の後ろ姿を見て、誠太郎はほっと息をついた。


「あら、おかえりなさい。今日はずいぶん早かったのね。何かあったの?」


「ただいま。研究にちょうど区切りがついてね。君に報告したいこともあったから、早めに切り上げたんだ」


 誠太郎は上着を脱ぎ、カバンから論文のコピーと植物標本を取り出してテーブルの上に置いた。


「長いことかかったけど、ついに成果が出たよ」


 スエ子が振り返り、テーブルの上を覗き込む。


「……まさか、これ、新種?」


 誠太郎は小さく頷いた。


「そう。正式に認められたんだ。マキシモヴィッチ博士が鑑定してくれてね。間違いないと太鼓判を押してくれた」


 その声には、確かな達成感がにじんでいた。論文には新種の学名とともに、誠太郎自身の名前も記されている。


「世界中の誰も知らない花……」


 スエ子はそっと標本の薄紫色の小さな花びらを見つめた。その可憐な姿に、心が震えるような感覚を覚えた。こんなに美しい花が、まだ誰にも知られていなかったなんて。


「そう。この論文が発表されるまで、この花は存在しない。僕たち以外、世界中の誰も知らない花なんだよ」


「すごいわ……ほんとに、すごい。世界中の誰も知らなかった花を見つけたなんて……!」


 スエ子は目を丸くして、そっと標本に目を落とした。小さく可憐な薄紫の花。その儚げな色彩に、心の奥が静かに震えるような気がした。


「じゃあ、まず私がお祝いの第一号ってわけね。……お赤飯、炊こうかしら!」


 誠太郎も笑い返したが、すぐにふっと表情を引き締めた。


「……でも、ここまで、本当に大変だった」


 彼は少し遠くを見るような目で、静かに語り始めた。


「僕の頭の中には、あらゆる植物の特徴が詰まってる。だから、これは新種だ、って直感では分かるんだ。でもね、それを“証明する”のは、まったく別の話だったよ」


 誠太郎はふっとため息をついた。


「実際に論文を書いてみて、初めて分かったんだ。

 新種として認められるには、過去のあらゆる文献に目を通して、似た標本を世界中から取り寄せて、徹底的に比較しなきゃならない。

 どこが違うのか、何が決定的なのか、それを第三者が納得する形で示さないといけない」


 彼の声は次第に低く、重みを増していった。


「本当に……気が狂いそうだったよ。

 睡眠時間は削られるし、間違いが許されないから、確認に確認を重ねて……。

 もしこれが、ただ自分の研究のためだったら、途中で投げ出してたかもしれない。だけど……」


 誠太郎はスエ子のほうを見つめた。


「君との約束があった。あの言葉が、ずっと僕の支えだったんだ。だから、諦めなかった。そういう意味では……この仕事を完成させてくれたのは、君だよ。ありがとう、スエ子」


 スエ子はきょとんとした顔をした。


「……約束?」


「覚えてないかな。新婚の頃、花言葉の話をしたろう。『この世界にまだ知られてない花があって、それに自分で花言葉をつけられたら素敵』って、君が言ったんだ」


 スエ子は眉をひそめて考え込んだ。


「え? 私、そんなこと言ったっけ……? ……うーん……」


 しばらく沈黙が流れたあと、ぽんと手を打って笑った。


「……そういうこと、言いそうな気はするわね、私。女はみんな花が好きだもの。

 そんなロマンチックなこと、言ってたかも。でも、まさか本当に見つけちゃうなんてね……ああ、なんか、ほんとに嬉しい……!」


 スエ子は目を潤ませ、花標本をまじまじと見つめた。


「君の何気ない一言だったけど、僕にとっては大事な目標になったんだ」


 誠太郎はそう言って、そっとスエ子の手を握った。


「君の夢を、ちゃんと形にしたかった」


 静かなキッチンに、湯気と共に優しい沈黙が流れる。


「……花言葉、どうしようか。せっかくだから、君がつけてみたら?」


 スエ子は驚いたように目を見開いたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。


「そうね……じゃあ……『永遠の献身』、なんてどうかしら?」


「いいね。きっと、この花も喜んでいると思うよ。植物愛好家の雑誌に、このことを寄稿しよう」


「なんだか、身びいきとか言われそうで怖いわ。でも、ありがとう、誠太郎さん。こんな素敵な瞬間をくれて」


「実は、本当の目的はその雑誌の中で『僕の妻です』と紹介したいんだ」


 スエ子はあまりのことに目を開けたまま、しばらく何も言えなかった。窓の外から間の抜けた猫の鳴き声が聞こえた。


「そんな理由かと思う?」誠太郎はスエ子の顔を見つめた。


「……いえ、そんなことは……」


「世界中の人にスエ子を僕の妻だと紹介することは『この人は僕の愛する妻です』と伝えることなんだ」


 もう、夕飯の支度とかどうでもいい。スエ子はしばらくこの幸せに浸っていたくて、何もかもほったらかして黙っていた。しばらくして誠太郎が沈黙を破った。


「あっ!でも恥ずかしいから、このことは誰にも言わないでね」


 誠太郎はいたずらっぽく微笑んだ。


「ふふっ。なんだか、ちょっと恥ずかしいけど……でも、ありがとう。こんな素敵な贈り物、他にないわ」


「いや、僕のほうこそ。君がいつもそばにいてくれたから、ここまで来られたんだよ」


 二人は笑い合い、暮れなずむリビングに、ゆっくりと温かな光が広がっていった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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