8.日常
部下たちはマークの変わり果てた姿に驚いていた。
覇気が無く、目の下に濃い隈を残している。
随分と具合が悪そうだ。
スタイスが心配して声を掛けた。
「チーフ、大丈夫ですか?
具合が悪そうです。
無理せずお帰りになられては?」
「大丈夫だ。ありがとう。
ところで、先週末分の依頼書が来ていないが?」
「申し訳ありません。直ぐにチェックしてお持ちします。」
「遅い。技術部門のエンジニアを暇にさせる気か?
既にクレームが来ている。
私でチェックも併せて行うから、今直ぐに持って来る様に。」
「は、はい。」
ひと仕事終えたスタイスに、他のチームメイトが詰め寄った。
「お、おい、どうしたってんだ? チーフは。」
「分からない。
確かに、ぶん投げて帰った俺が悪いんだが………」
「そりゃそうよ。
月曜の朝に滑り込みで出しゃ楽勝さ!
なんて言いながら帰ったアンタが悪いわ。」
「にしたって、チーフはあんな冷徹な言い方を淡々と語る人じゃなかったよな。
理路整然としながらも、温かみのある人だった。」
「失恋かもね。」
「えぇ?!」
「最近、ランチタイムにデイリー・ブリューで、
美女と逢引しているのを良く見かけるもの。」
「本当か?!」
「って、タニアあんた、デイリー・ブリューなんかでランチしてるの?!
随分と羽織が良いじゃない?!
給料上がったの?!」
「そんな訳無いじゃない。
チーフみたいに毎日なんて行けないわよ。
疲れた時に気合を入れに行く程度ね。
それだって、月に2〜3回よ。」
「あ、それいいな。
今度俺もやろ。」
仕事をしている時は彼女の事を忘れる事が出来た………
とはならなかった。
ドラマや小説では良くある事だが、現実はそんなに簡単では無いと痛感していた。
文章でCRと続く文字を見るだけで、ドキリとして胸がキリキリと締め付けられる痛みを覚え、
呼吸が極端に浅くなる。
ランチタイムになり、ハッと気付くと二度と訪れまいと考えていたのに、
デイリー・ブリューのいつもの席に座っていた。
仕方が無いので、パニーニとコーヒーを注文する。
汚れ1つ、しわ1本も無い、ピシッとした制服をキチンと着こなし、
キチンとアップシニヨンに髪をまとめたウェイトレスが、
「本日お連れ様は?」と言い掛けたが、
表情を読み取って「かしこまりました」とだけ言って引き下がった。
出されたパニーニを口に運ぶ。
この世で最高のランチだと信じて疑わなかったパニーニが、
酷く味気無い物に感じた。
酸味と苦味だけの黒い白湯で、無理矢理それを腹に流し込む。
誰かが言っていた。
食事とは何を食べるかでは無い。
誰と食べるかだと。
会計を済ませ、肩を落として会社へと戻る。
何とか仕事を終えて帰路に着く。
自然と足取りは例の裏路地へと向う。
そして、そこに何もない事を確認して意識がブラックアウトするのを、
頭を振って抑え込む。
いや、あのまま意識を手放した方が楽だったのではないか?
そんな考えが頭を過る。
街頭で照らされる木々と芝生。
夜のリバーサイド・グリーンのあのベンチに腰掛けて彼女を想う。
このまま朝になって欲しいが、待てども暮らせども時間が経過しない。
1分が1時間に感じた。
それでも10分程座っていたが、それ以上は辛くなり部屋へと帰って行った。
ブランデーをグラスに注ぎ、テレビのチャンネルを回しながらそれを飲み込む。
紐のような情けない水着で、馬鹿みたいに大きなビーチボールで戯れる、馬鹿みたいな女。
その胸は子供が膨らませたフーセンガムの様であり、
その腰は既にマットを皮下に敷いてある様に見え、
長時間座るのに便利そうだと思った。
軽蔑の目でそれを見ると、二杯目を注いでチャンネルを回す。
「あ、貴方は………いつもバスでお見掛けする?!」
「そんな事より、さぁ早くこっちに来なさい!」
「は、はい! ありがとうございます!」
既に観た筈のその映画のそのシーンで、
マークの目からボロボロと涙が溢れる。
口に近づけていたグラスのブランデーに、
幾つかの波紋を作った。
ひとしきりさめざめと泣くと、マークは一昨日ぶりの眠りに就いた。
夢の中に出て来た彼女は、相変わらず自然で肉質的で蠱惑的な身体付きをしていた。
自身の腕に絡み付き、それの感触が腕から伝わって来る。
彼女の笑顔は愛くるしく、美しかった。
マーク、マークと楽しそうに語る彼女は、誰よりも愛おしい。
抱き寄せようとしたところで、デジタル時計の音が起床時間を告げた。
その日の帰り、彼女と共に訪れてハンカチをプレゼントした雑貨店で、
マリーゴールドの花が刺繍されたハンカチを見つけ、購入して帰ったのだった。
ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、気が楽になった様に錯覚出来た。