10.運命
その日もマークは何とか仕事をするだけの日常を送っていた。
世界から色は消え失せ、食事から味は消え失せ、
他人への情は消え失せた。
仕事が終わると、あの裏路地へ通う事が日課になっていた。
そこで三十分程さめざめと泣き崩れ、ガックリと肩を落として帰路へと着く。
そんなある日。
その日も裏路地へと行く。
いつも通り何も起こらない、何の変哲も無い裏路地。
しかし信じられない事が起こった。
そこに楕円形の黒い粒子の膜が現れたのだ。
夢かと思った。
途端にマークの顔は歓喜の涙でグチャグチャになる。
そこに、期待通りの人物が現れたのだ。
「マーク……。」
「あぁ……! 愛しい人!
僕はどんなにこの時を待ち焦がれた事か!」
「あぁ……マーク……」
しかし彼女は複雑な表情をしている。
マークも敏感にそれを察知した。
「何か……あるんだね?」
「そうよ………マーク。」
アブラヘルは意を決して伝えた。
「貴方には2つ選択肢があります。
1つは貴方が経験した今回の事は記憶から消えます。
しかし、そこで学んだ事はセンスとして刻まれ、
貴方には幸運に満ちた、幸福な人生が約束される。」
「な……そ、それは……」
「もう1つは………貴方がこちら側に来る事。
貴方の世界の宗教観で言えば、正に………」
アブラヘルは敢えて正しい言葉を選んだ。
「正に、永遠に地獄へ飛び込む事。
貴方がた人間が想像した範囲など、ほんの浅瀬。
楽しい楽しい見せかけのミュージアム。
しかしその一歩奥は、命が幾つあっても、何回気が触れても足りやしない。
そんな過酷な世界。
さぁ、マーク。選んで頂戴。」
アブラヘルが自身の報酬を蹴って申し出た取り引き。
マークの約束され、幸運に満ちた幸福な人生。
やがて彼は、世界長者番付において、
2位へ大差を着けた首位を終生維持するだろう。
そしてノーベルを始めとした権威ある賞は、
彼のファミリーネームを持つ者で独占される事になる。
そんな光景が、選択の力によってマークの脳裏にフラッシュする。
「分かった。
この二択は、迷う事は無いな。」
「でしょうね。
さぁ、貴方の口から答えを言って。」
アブラヘルは答えを待つ。
どちらを選ぶかは分かっている。
でも……もし違う答えを選んでくれたなら私は……
そんな事が頭を過ぎるが、慌てて振り払う。
マークは迷う事なく選択した答えを告げた。
「僕はそちら側に行こう。」
アブラヘルは聞き間違えかと思い、思わず聞き返した。
「えっ?! な、何を?!」
「僕はキミと共に生きる。」
「あぁ……マーク、いけないわ!
取り消して! 今ならまだ……ダメ! 待って!」
慌てふためくアブラヘルを他所に選択は成され、
マークはその場にバタリと倒れた。
「あぁぁぁぁぁ………!! マーク!
貴方はなんて事を!!」
アブラヘルはマークの遺体にしがみついてワンワンと泣き叫んだ。
「ドルギス様、異常事態です。」
並み居る大幹部達との会議の席で、
アーカンソーがそっと近づき告げた。
議案を説明していたナルギギトーは困惑してプレゼンを止めた。
「どうした? アーカンソー。」
ドルギスは真っ青な顔をしているアーカンソーを察して
ナルギギトーに目配せをして詫びると、
アーカンソーに報告を促した。
「アブラヘルが来ます。
何でも、伴侶を紹介したいとの事です。」
「何?!」
前代未聞の事態を察してドルギスも青褪めた。
そしてアブラヘルが相変わらずの肉感的な身体を、
蠱惑的に揺らしながら優雅に歩いて来た。
「ご機嫌よう! 皆様!」
その実力はドルギスに並ぶと謳われるアブラヘルに、
大幹部達は畏怖して一斉に視線を下げる。
しかし、その後ろを見慣れぬ者が付いてきていた。
「皆様、雁首揃っているところで、
お話しておきたい事がありますのよ。」
斯様な無礼な物言いで挑発して怒りを誘い、
思考を鈍らせるのは彼女の十八番である。
「さぁ、マーク。」
「お初に御目に掛かります皆様。
私はベルカンゾと申します。
この度、アブラヘルと正式に結婚と相成りまして、
皆様にお見知り置き頂きたく、ご挨拶に参上致しました。」
そう言って恭しく礼をした悪魔は、その魔力が天才の先を行く事を示す、
アブラヘル同様の薄い灰色の肌で、
逞しい筋肉質の体躯をしており、
流れる様なウェーブ掛かった白髪のロングヘアで、
ジョーカーの仮面を被っていた。
その瞳の奥には、ただならぬ重厚な知性と気品、
威圧感を放っていた。
誰が見てもドルギスより遥か高みに居る事は明白だった。
「お前は……まさか……それを選択したというのか!」
それを選択したという事は、何時ぞやの人間の詩人の様に、
安全が保証された浅瀬を半ば観光気分で巡るのでは無く、
単身で、この最奥まで挑まなくてはならない。
「信じられん………お前、本当に元人間か……?」
「何でも、分相応に無い地位に居る方々をお見受けしますが………」
ベルカンゾはそう言ってアーカンソーや幾人かの大幹部達に視線を送った。
「まぁ、それはそれ。
基本的に私めは、妻であるアブラヘルと暮らせれば、
皆様とは一定の距離を置きたい所存ですので、
その辺りはご安心を。」
ベルカンゾは警告をした。
「と、言う訳よ。ドルギス。
仕事はしてあげるけど、変な事に巻き込まないでね。
さあ、行きましょうか、マーク。」
「あぁ、愛しい人、アブラヘル。」
ドルギスはワナワナと肩を震わせた。
やがて自分は寝首をかかれるだろう。
口ではああは言っているが、ここを粛清してあるべき姿にする。
そう強い意志をベルカンゾという男から感じた。
基礎的な力を持ち鍛え上げたとは言え、元人間如きがここ迄到達するとは……
何と言う幸運なのだと思い感心したその時だった。
(幸運………? 幸運………そ、そうか!!)
「おのれ!! 図ったな!! アブラヘル!!」
ドルギスは選択肢を創る為に、
アブラヘルを運命の間へ立ち入らせた事を後悔した。
今にして思えば、あの女狐の異様な知力を以てすれば、
自分達は未だ使い熟せていない運命の間を、
他より使い熟す事が出来そうだと思ったのだった。
しかし、もう何もかもが遅かったのだ。
そしてドルギスは最後まで気付かなかった。
例えそれが無かったとて、ベルカンゾにはその自己犠牲を通じて、
かの方の関与があったのだ。
かつて堕ちた2人の我が子の面影を見る、
あの2人に幸多からん事を願って。