06.宰相府次席補佐官
「クラシーク侯」
家名で呼ばれて執務机から顔を上げると、上司である宰相閣下が私を見ていた。
「は。なんでしょうか、閣下」
「卿は新婚であったな」
「……はあ」
確かに最近、爵位の継承と引き換えに父上がしつこく勧めてきていた子爵家の長女との縁談を受け入れて、婚姻式を挙げたばかりだ。だがそれがどうしたと言うのだろうか。
妻は代々の王宮文官の家系ではあるものの、取り立てて権勢もない家門の娘である。年齢もまだ17歳と若すぎるし、おそらくは夜会か何かで私に惚れて、嫁入りすべく父に取り入ったのだろう。他の令嬢たちと違って、直接私に言い寄って来るのではなく父に接触を図ったあたりが姑息で気に食わなかったし、本来なら婿を取り家を継ぐべきふたり姉妹の長女であるにもかかわらず嫁入りを目論むような、責任感のない小娘だ。
だから婚姻式後の初夜でハッキリと宣言してやったのだ。白い結婚と3年後の離縁を。離縁するまでの侯爵夫人の地位と待遇を約束してやれば、弁えたのかしおらしく受け入れて誓紙への署名まで従ったので、その点は満足だが。
「新婚早々から新妻を放っておくものではない。寂しがっておるだろうし、今日はもう切り上げて帰るとよい」
「ああ、心配は無用です閣下。あれは私が多忙なのもよく理解して弁えておりますから」
しかしまさか、あんな誓紙への署名まで受け入れるとは思わなかった。さすがに当然嫌がるだろうと思っていたし、そこでひと悶着するものとばかり思っていたのに。
まあ、誓紙への署名を拒否されたところで即座に離縁はできなかったから、その点は正直助かった。さすがに婚姻初夜で離縁したとなると父が襲爵無効を王宮に訴え出るに決まっているはずだから、どのみち子が生まれないことを理由にした離縁以外は認められないだろう。とはいえ不妊による離縁が認められるのは最低でも3年経ってからであり、それも大抵の場合はもう少し様子を見ろと周囲から言われて、さらに2年ほど我慢させられるのが目に見えている。
だが誓紙への署名さえあれば3年後の離縁も確定だ。なんと言っても本人の同意があるのだから。そして最初から離縁の同意を得ているのだから、名目上はともかく実態として妻と扱うわけがない。
そもそも17歳の小娘など相手する気にもならん。やはり相手をするなら経験豊富な大人の女、具体的には歳上に限る。
「そうは言っても新婚の独り寝は寂しいものだぞ。奥方はまだ若いのだろう?少しは気を使ってやりたまえ」
気を使えと言われても、初夜に誓紙に署名させたあと別邸に囲った愛人の元に向かってから、一度も本邸には帰っていないのだが。さすがに新婚初夜に呼び出しもないのに王宮に舞い戻り、帰ることもなく王宮で寝泊まりしていては宰相閣下や首席補佐官殿に何事かと邪推されるから、あの夜以来ずっと、父にも内緒で数ヶ所保有している別邸を数日おきに転々としている。
だがそんな事を正直に話せるはずもないため、ここは色よい返事でもしておくに限る。
「ですが今取り組んでいる隣国との貿易交渉の件が大詰めではありませんか。発案者として責任を持ちたく思います」
「なに、首席補佐官も三席補佐官もおるから心配は要らぬよ」
冗談ではない。次席補佐官の業績をなぜそのふたりの手柄にしてやらねばならんのだ。特に首席補佐官殿にはその地位を早急に明け渡してもらわねばならんというのに。
「それにな。新婚のクラシーク侯に頼らねばならぬほど宰相府が逼迫している、などと噂されては敵わんのだよ」
だが、そう言われると反論もしづらい。敬愛する宰相閣下の評判を下げたいわけではないのだ。
「…………分かりました。では切りのよいところまでまとめましたら、今宵は辞しとうございます」
「ああ。そうしてくれたまえ」
仕方ないな。予定にはなかったが、今夜は郊外の邸に囲っている平民女の相手でも久々にしてやるとするか。
そうして手早く議案をまとめて、その夜は王宮の宰相府を辞したのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
クラシーク侯爵アロガント。新進気鋭の若き侯爵で、宰相府の次席補佐官を務めている。学院時代から才気煥発、次席で卒業したあとは王宮文官試験を受けて見事合格し、そうして宰相府に配属され、順調に頭角を現しつつある。
以来約8年。筆頭公爵家の嫡男を三席に追い落とし、宰相府の次席補佐官に抜擢されて、確固たる地位を築いていた。今年に入ってからは念願の襲爵も果たし、年若き貞淑な妻も迎えて今後ますますの躍進が期待される俊英である。
そんな彼は頭脳だけでなく容姿も優れていて、だから夜会に出席すれば独身時代はもちろん婚姻してからも、いつでも未婚の令嬢たちのみならず既婚の夫人たちにまで囲まれ持て囃された。だのに女たちには目もくれず、侯爵家の縁と宰相府補佐官としての人脈を広げることにばかり熱心で、それがまた硬派で怜悧な人柄を輝かせると評判であった。
そんな彼は、だが決して女が嫌いというわけではない。むしろ男性としての欲求は人並み以上に持っている。だからその欲求を吐き出すための、都合のいい女は常に何人か抱えていた。
彼が気に入るのは美しく才知あふれる極上の女だけで、その条件にさえ当てはまれば生まれや身分は問わなかった。とはいえ高位貴族の令嬢を囲い込むのはなかなかに難しい。だから今、彼が別邸に囲っているのは子爵家令嬢と男爵家令嬢、そして平民がそれぞれひとりずつ。全て別々の邸に住まわせていて、その日の気分で相手を替えていた。
彼が普段、群がる令嬢や夫人たちを歯牙にもかけないのは、地位も才能も容姿も兼ね備えた貴顕たる自分に相応しくないと考えているからだ。だから当然、彼が自分に相応しいと認めた女がいれば口説いてモノにする。
と言っても、普段の硬派なイメージを自ら損なうことなどするわけがない。だから夜会の席では敢えて素っ気ないフリをしつつ、相手の素性を調べて後日密かに接触を図るのだ。
侯爵家当主にして宰相府次席補佐官ともなれば、必然、王家から高位貴族まで多くの招待状が送られてくる。彼はその中から、自分が出席するに相応しい品位と格式のある夜会だけを選んで招待を受ける。たとえ高位貴族の招待であっても、気が向かなければ多忙を理由に断るのが常であった。 名高い宰相府次席補佐官の地位は、そういうことも可能だったのだ。
彼はこの日も、とある夜会に招待され出席していた。主催は筆頭公爵家であり、この国では王宮主催に次ぐ格式ある夜会だ。
彼がこの夜会の招待を受けたのは、とある目的があったからである。
「さて、噂の“情激の百合姫”はどれほどの女になっているか……」
筆頭公爵家には嫡男のほか、娘がひとりいる。その娘⸺公女は魔術に優れ近隣六ヶ国の言語に堪能で、学院を圧倒的な成績で首席卒業し、そのまま隣国である帝国の第二皇子に嫁していた。自国の王子妃となってもなんら不思議はない才媛だったが、王家の縁戚でもある筆頭公爵家の公女として、王女待遇で婚姻外交に使われたわけだ。
その公女が嫁いだ先で夫に死なれて寡婦になり、約10年ぶりに実家に戻ってきているらしい。噂ではこの夜会で正式に帰国を発表し、社交界に復帰するのだという話であった。
実は彼女とは、既知の間柄である。学院での一学年先輩であり、彼女が学生会長を務めた際には総務としてそれを支えた事もある。あの当時から彼女の眩いばかりの輝きに目を奪われていたのだが、さすがに格上の公女であり、才知も地位も名声も何もかも圧倒的な彼女と深い仲になるなど不可能で、諦めるしかなかったのだ。
そんな彼女は嫁ぎ先の帝国社交界でも存分に名を馳せた。ともすれば夫の存在感を食うほどの鮮烈な印象を振り撒き、国外出身者だという不利をものともしなかったという。
だがそんな彼女が寡婦になり、国内の社交界に復帰するのなら。宰相府次席補佐官にまで出世した今であれば自分でも彼女に手が届く。いや、届かせてみせる。
招待状を提示して公爵家の使用人に案内され入場した大ホールには、すでに多くの招待客の姿があった。知己や仕事上の付き合いのある貴族たちの姿も確認でき、互いに挨拶がてら雑談に花を咲かせる。
やがて、奥まった一角から起こったざわめきがホール全体を包んだ。そちらに目をやると公爵家の当主、夫人、嫡男に続いて、艷やかな雰囲気をまとったひとりの女性が入場してくるのが見えた。
それこそが出戻りの公女、“情激の百合姫”ことグロリオーサ・シュペルブスであった。