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ユキトには、特別な甘い言葉など持ちえない。どちらかといえば、2人の会話は本当に他愛ない日常会話だけだ。それなのに、一週間メールが途絶えただけで、私の心は打ちのめされてしまった。
枯れてしまった花のように、うなだれた気持ちでは、もう前には進めないんじゃないかと思うくらい、私を貶めたのに…
『大丈夫。私は、大丈夫だから』
『嘘、つかなくていいよ』
『嘘なんかじゃないよ。ユキトは、私の心に光を灯してくれたのよ。ありがとう』
送信したあと、大袈裟だったかな、と自己嫌悪に陥りそうになったが、直ぐにきた返信を見て、私は自然と口角が上がる。
『なんか… 照れるな笑。でも、こんなしがない自分が誰かの役立ってるなら、悪い気はしないね』
彼の本文を読みながら、私は微笑んでいた。
本当はこんな気持ちを抱いてはいけないと、ちゃんと解っている。解ってるけど、冷静になろうとすればするほど、胸が苦しくなってくる。
この時間を手放したくない…
複雑に絡み合う私の心は、どこに向かって行くのか、今は考えたくはなかった。
今日もいつものように、彼からのメールで一日が始まる。バタバタと支度をしつつも、彼への返信は怠らない。必ず時間を見つけ、携帯電話を開いていた。
『バブル崩壊の原因ってなんだろね?』
朝の挨拶のあと、ユキトから唐突すぎるその話題に私は固まった。しかし、社会人をやっている大人の自分が学生の彼に答えられないのはどうなんだろうかと、私は焦りながら考えた。すると、過去の記憶から、あるニュース番組を一緒に見ていた時にあの人が突然語り出したのを不意に頭の中をよぎったのだ。
色々と解説を交えて教えてくれていたが、経済に疎い私には難しく、なんとなく聞いていたことだったのだが…
そう思いながら、私はユキトにメールの返信を打ち始めた。すると、わりとすぐ彼から返信が届いた。
『へえ。なるほどね! 沙羅は何でも知ってるね!』
少しだけ、心に痛みが走る。
『受け売りだよ。私に経済のことは聞かないで!』
思わず胸に手を当て、深呼吸した。
(…もう、平気だと思ったんだけどな)
あの人のことを思い出せば、まだまだ胸が痛む自分に嫌気が差す。
あの頃、興味のないことでも、あの人が話をしてくれることなら、私はそれを一生懸命聞いていた。
(あの頃の会話が、役に立ったって訳か…)
少し複雑な思いで私は化粧を仕上げ、部屋を出た。
『お疲れ! 沙羅のお陰で、レポート出せたよ、ありがとう!』
夕方、そんなメールが届いていた。
(やっぱ、レポートのテーマだったのか)
昼間にメールがなかったのも納得だった。午後の授業まで必死にレポートを仕上げていたのだろうか。私は、クスッと笑った。
「吉田さん、何ニヤけてるんですか。彼氏ですか~?」
仕事上がりに、ロッカーでメールを見ていたためか、隣りでオフィスサンダルからヒールに履き替えていた後輩から突っ込まれてしまった。
「ち、違うよ! お疲れ様!」
私は、顔を赤くしながら即座にロッカーから出た。
『今朝、バブル崩壊については 受け売りだって言ってたよね? 前の彼?』
それは、風呂上がりに届いていたメールだった。
(え…)
一度携帯電話をテーブルに置いて、誤魔化すように頭にかぶっているタオルで髪をふいた。
(…別に、隠すことじゃないし)
タオルをかぶったまま、テーブルに置いた携帯を再び手にすると、『そうだよ』と、一言だけ返信した。何となく、それ以上言葉をつなげてしまうと、冷静な自分を保てなくなりそうだったのだ。
すると、すぐにメールが届く。
『まだ、好きなの?』
急に核心をついたその言葉に、私は胸をドキッとさせずにはいられなかった。
一方的な別れ方に、今だって納得はできていはいない。だからといって、付き纏うようなことをするつもりもない。
でも、確かに好きだった。
だから、あの人が教えてくれたことは、私の中に知識として残っている。今の私がいるのは、あの人を好きだったから、成り立っている。
だからあの人を否定することはできない。いかに酷い別れ方をしても、だ。
好きになってしまったことを後悔しても仕方ないのだ。あの時の全てを否定することはできない。したくない。
今はまだ傷が癒えないだけで、きっといつか思い出になることを願うしかない…
私は、彼にそう返信した。
『本能的な部分は、どうなの?』
ユキトから返ってきたメールを読み、私の目がピクリと反応する。
私の本能…?
それは理性では説明のつかない、ありのままの自分…?
私は、濡れたタオルをかぶったまま小さく肩を震わせた。
「…そんなこと聞いて、何が楽しいの?」と、思わず口に出していたのだ。
「何を… 言わせたいのよ…?」
私には彼の思惑が解らず、返事をできずにいると、またメールを知らせる着信音が手のひらから鳴った。黙って、届いたメールを開く。
『ごめん。少しだけ、前の彼に嫉妬したんだ。忘れて』
その言葉に、私の心は揺れていた。
微かに抱いていた想いが、重なった…?
ただ、これが本当の恋なのかは、解らなかった。しかし、彼が私の闇に光を当ててくれたのは、確かだ。文字だけの関係だけど、愛着が湧いてくるのは、実際にあるだろう。文字の向こう側には、感情を持った人がいるのだから。
私は激しく首を振り、小さく軽く目を閉じた。
ユキトは今、どんな顔をしているのだろう?
私は、どんな顔をしている?
思わず、ローテーブルに置いたスタンド式の鏡に写った自分の顔に目を遣った。自分の顔が映った瞬間、私は鏡をあらぬ方向へと遠ざけた。
(…ダメ。いくらなんでも、間に受けたら…)
ユキトからしたらこんなオバさんが横に並んでたら可笑しいでしょ…
それでも、信じたいと思う自分もいた。このまま、終わりたくない、と…