7
新年度が始まった。
ノイエとアーサーも進級し、
セイシルには後輩ができた。
校内中にフレッシュな空気が満ちているが、
セイシルとノイエ様の日常は変わらない。
昼休みになると小部屋に寄りあい、
ランチを取って解散する。
穏やかで楽な空間を、ふたりは謳歌していた。
「私、耐えられるでしょうか…」
今日も今日とて、
小部屋での昼食時間。
久々に旧礼拝堂から聞こえてきたささやき声が、
静かにパンを食んでいた二人の耳に聞こえてきた。
小部屋の格子をわずかにずらし、セイシルが礼拝堂内を覗き見ると、
複数人の女子学生が肩を震わせていた。
なんだなんだ、穏やかじゃないな。
「こんなに急に、
心の準備ができようはずもありません」
「どうして…どうして…」
「何かの間違いということはありませんか?」
「そうであって欲しいですわ」
「受け入れられませんわ…
ノイエ様がご結婚など」
ブホ!!!!
後ろでノイエ様が盛大に水を吹き出した。
やめろやい、かかるでしょうが。
「でも、確かな情報なのでしょう?」
「ええ…わたくしこの目で見ましたもの…
ホテル・オリーブで、
ノイエ様がお見合いをされている現場を…」
「限界ファンのあなたが仰るのだもの、
人違いという線はありませんわよね」
今度はセイシルが目を見開く番だった。
「ええ間違いありません。
ご令嬢と両親が並んで座り、
ノイエ様が向き合って座っておられました」
「ど、どなたなの、そのご令嬢は」
「実はご令嬢は後ろ姿しか見えず…」
「ああ!無念!」
「あの薄いブルーの上質なワンピース、
きっとノイエ様の瞳を意識したのでしょう。
そして栗色の髪の艶やかなこと。
相当な家柄のご令嬢に違いありません」
違う…!
ワンピースは前日に気に入って買っただけ…!
髪も久しぶりにサロンに行っただけ…!
家柄って、うちは新興の成金…!
というか、見合いじゃない!!
ちがう、ちがうと小声で呟きながらふるふると首を振るセイシルはまるでぜんまい仕掛けの人形のようである。
「ノイエ様が、どなたかの夫となる」
「地上に降臨なされた天使が、人間と結ばれる」
「し…神話が…神話が始まりますわ…」
「ノイエ様を射止めたご令嬢とは如何なる人物なのでしょう」
「気になりすぎてノイエ様に凸してしまいそうですわ」
「いいえなりません、私たちはいちファン。
ノイエ様のご決断を見守りましょう」
うん、うん、と納得したように頷き、そして去っていくファンガールたち。
残された小部屋の二人は狼狽した。
「いや凸してくれよ…いっそ聞いてくれよ…
否定すらさせてくれないのかよ…」
「どう見たらあれが見合いに見えんですかね」
どうする?
と視線で会話するふたり。
「…まあ、しばらく静観すりゃ誤解も解けるだろ」
「そうですね、私はそもそもバレてませんし」
しーらないっと。
セイシルお前ずるいぞ!
そんなやり取りを能天気にしていたしばらく後。
「ノイエ様のお見合い相手が見つかりましたわ!」
「どなたですの!?」
「当校新入生のレイチェルさんと仰るそうよ!」
……ノイエの見合い相手を自称する人物が、名乗りを上げたのであった。
その日、セイシルは昼休憩に入り、いつものように購買部に向かっていた。
「あ、いたいた、セイシルさん」
声を掛けてきたのはアーサー様である。
「アーサー様、お久しぶりです」
「久しぶり、これ預かりもの」
こそっと読んで、と耳打ちされる。
手渡されたのは二つ折りにされた用紙だった。
「ありがとうございます」
「いえいえ、今ちょっと大変みたいだから」
「大変?」
「ま、読めばわかるよ」
じゃまたね、と大きな手のひらでセイシルの頭をポンポンとし、アーサーはのしのし去っていった。
セイシルはアーサーの後ろ姿をぼおっと見ていたが、自分の周りにヒソヒソ声が響いているのに気付きハッとした。
「頭ポンポン…」
「頭ポンポンでしたわね…」
「あのグローブのような厚い手のひらで…」
「羨ましい…」
やばい、とセイシルは思ったが後の祭。
アーサー様信者のファンガールたちの視界に入ってしまった。
これだからアーサー様は目立って嫌なんだ!!
と、脱兎のごとくその場を逃げ出したのだった。
やっとのことで人気のない裏庭にたどり着き、
今日はここでいいかと腰を下ろして休む。
パンを買いそこねたセイシルは哀れ本日腹ペコである。
先ほどもらった用紙を開くと、
『セイシルへ
気味が悪い奴に付きまとわれてる。
しばらくは行けないと思う。
危険だからセイシルもしばらく俺に近づくな。
ノイエ』
とある。
ノイエ様の繊細な筆跡がやや乱れた様子から、
あーだいぶ苛ついてるなあ、とセイシルは察した。
アーサー様が言う「大変」とはこのことか。
ノイエ様も来ないなら、今日はちょっと趣向を変えて食堂へ出てみようか。
騒ぎ立てる腹の虫を抱えて、セイシルは歩き出した。
食堂は多くの学生でごった返している。
久しぶりにパン以外の食事を買い席に着いたセイシルは、
食堂の奥にノイエとアーサーが座っているのを見つけた。
まあ、小部屋に来る以前はああして食堂で食べていたらしいから、当然のことなのかもしれない。
「ん?」
ノイエの隣、同席者とも他人とも取れない絶妙な位置に、
ひとりの女学生が座っている。
他に連れもおらず、さもノイエの連れのような顔をしているが、
ノイエに話しかける訳でもなく相槌を打つわけでもない。
ただ静かに、隣に座って食事をしているのである。
ノイエが可哀想なほど少量の食事(イメージ対策)を終え食器を持って立ち上がると、
その女学生もすぐさま立ち上がり、さも同行者のような顔をしてノイエのすぐ後ろに着いて回っている。
ああ、付き纏われてるってアレのことか。
「ご覧になって。
レイチェルさん、
当たり前の顔をしてノイエ様と同席してらっしゃるわ」
「ノイエ様も無下になさらないところを見ると、
噂は本当なのかしら」
「レイチェルさんはご結婚について否定なさらないそうよ」
「ではやはり…」
ノイエは食器を片付けると出口に向かって歩き始め、セイシルを視界に認めた。
一瞬顔を歪めたノイエ様は、
セイシルのいる席のあたりで立ち止まり、
後ろを振り返り女子学生に声を掛けた。
「どなたか存じませんが、
あまり近くにいられると少々やりづらいのですが」
すると女子学生はぱっと花が咲いたように笑顔になり、
「レイチェルですわ」
と弾む口調で告げた。
そして突然大きな声で、
「ええ、ごきげんようノイエ様。
また喜んでご一緒させていただきますわ」
と嬉しそうに張り上げ、食堂を去っていった。
「ノイエ様が食事にお誘いになったのね…」
「レイチェル様のあの嬉しそうなこと。
羨ましいですわ」
食事時の雑音の中、レイチェルの大声しか聞こえていなかったファンガールたちにはそう見えたようだ。
取り残されたノイエは何が起きたか分かっていない風だ。
セイシルをちらりと見たのに気づいたが、
首を捻っておいた。
ノイエも食堂を後にすると、
アーサーがセイシルに近づいてきた。
…近づかないでくれお願いだから。
「セイシルさん」
「アーサー様、先程はありがとうございました」
全然親しくない感を出すセイシルだが、
アーサーは鈍感にも距離を詰めてくる。
そしてごく小さな声で、
「あんな感じでさ、
ずうっと付かず離れずの距離から離れないんだ。
何度かああして注意するんだけど、
全く響かないし、さも会話しているように振る舞われちゃってさ」
大変でしょ、
と呆れたように言う。
「確かにあれはなかなか強敵ですね…」
「どうにかしようにも、
彼女、結構なお嬢様らしくて、
あまり強く出られないらしい」
「ええ…」
「セイシルさん」
アーサーがすっと、両手でセイシルの手を取る。
「ノイエを見捨てないであげてね」
「分かりましたからその手を離してくださいお願いしますお願いだから」
「?」
全然分かっていない感じでアーサーが手を離す。
じゃね、と颯爽と去っていくが、
セイシルは冷や汗が止まらなくなった。
「今度はアーサー様が…」
「見ました?今の。
女王に誓いを立てる騎士のようでしたわ…」
また自分の周りにヒソヒソ声が立ち上るのを感じ、
セイシルは食事を味わうことも忘れてかき込み、
転がるように食堂から逃げ出したのであった。
それからはふたりして大変だった。
校内で見かけるたびにノイエの後ろにはレイチェルが張り付いていたし、
セイシルはセイシルでアーサー様信者の注目を浴びることになってしまった。
小部屋になど行けようはずもない。
遠い寮に戻って昼食を取ったり、
人目を避けて移動するのにすっかり疲れてしまった。
そしてある日。
疲れ切った二人が、校内の中央ホールで出くわした。
普段なら知らんぷりしてすれ違うのが常だったが、
へとへとの二人は向かい合って足を止めた。
『疲れましたね』
『ああ、疲れた』
視線で会話する。
セイシルは大きく息を吸った。
「ノイエ様、お噂通り、
そちらの方とご結婚なさるのですか」
声がよく響くホールで、皆によく聞こえるように声を張り上げる。
道行く学生たちがぎょっとする。
視界の端で、ノイエ様のファンガールたちがあわあわと聞き耳を立てるのが見える。
こうなりゃやけっぱちだ。
この酷い茶番を終わらせようじゃないか。
すぐに意図は通じた。
同じく大きく息吸ったノイエ様は、
「僕が結婚するかですって?
その質問の答えは明確にNOです。
なぜか最近、こちらの女性が僕の後ろを着いてくるのですが、
意図が分からず困っているところです」
と大きな声で答えた。
慌てたのは後ろにいるレイチェルだ。
「ノイエ様、いじわるをなさらないで!」
「いじわるではないよ。
あなたはなぜ、僕の後ろを着いてくるのですか?」
ファンガールたちは戸惑っている。
あれ?ノイエ様嫌がってるの?
とざわついている。
ようしもう一声、とセイシルは追撃する。
「ノイエ様、レイチェル様とはお見合いなさったのでは?」
「いいや、していないよ」
「ノイエ様!」
なぜかレイチェルが咎めるような声を出す。
「ひどいわノイエ様、
私ノイエ様と添い遂げるつもりですのに」
「なぜそのようなことになるのですか?
僕とあなたとは面識がないでしょう」
レイチェルはぱくぱくと口を開けるが、
うまく言葉が出てこない。
「次の休暇には両親に会ってもらおうと」
「なぜ?
僕とあなたはそのような親密な間柄ではない」
「だって…」
レイチェルはそれきり口を閉じた。
「今、両親にはこれから会ってもらうと言った?」
「では、お見合いの女性は別の?」
「レイチェルさんは何をしていたの?」
ファンガールたちはもうパニック状態である。
レイチェルはぼそぼそと口を開く。
「ノイエ様が、素敵で…
そうしたら、栗色の髪の女性と結婚するらしいと聞いて…
でも誰も具体的なことを言わないし、
だったら私でもいいかなって、
私栗色の髪だし」
「はあ?」
思わずセイシルは口に出してしまった。
「なんだかんだ一緒にいれば、
なし崩しに私のことを好きになってくれるかもしれないでしょ!
誰も咎めないし、
両親も呼んで外堀埋めれば結婚してくれるかと思ったの!」
「僕は何度か咎めたはずですが」
ノイエ様が冷たい声で突き放す。
「僕は確かに、
このサマーホリデー中にとある令嬢とご両親にお会いしました。
僕が会いたくて訪ねて行ったんです。
でもそれはあなたではない。
誤解なきように言っておきますが、
そのご家族と話した内容は結婚のことではなく、
僕自身の将来に繋がる、もっと有意義な話でした」
ですから僕に結婚の予定はありません。
ノイエ様は言い切った。
お見事、バッサリ一刀両断である。
良かった良かったと安堵するファンガールたち。
セイシルもよしよしと立ち去ろうとしたところ、
「君こそどうなんだ」
とノイエ様が声を張り上げた。
「アーサーと噂になってるじゃないか」
セイシルは忘れていた。
そうだ自分も誤解を解かなければ!
「君たちは、れ、恋愛関係なのか?」
「いいえ、そのような事実はありません」
「本当に?
手を握らせたんだろう」
「アーサー様とは共通の話題がありまして、
少々お話させて頂く機会があるだけです。
親密な関係性では一切ございません」
「でも手は?」
「あれは親密な意味で握った訳ではなく、
どうぞよろしく、の握手です」
「頭ポンポンは!」
「あれは私もよくわかりません!」
し つ こ い!!!
「君はアーサーみたいなのがいいんじゃないのか?!」
「だからそうじゃないですってばー!」
セイシルは思わず絶叫した。
さすがにノイエ様も口を閉じている。
「いいですか、
私もノイエ様と一緒です。
全然なにもないのに噂になって、
困ってるんです」
「その通りだよ」
騒ぎを聞きつけてアーサーがやってきた。
「セイシルさんと僕は恋愛関係ではないよ」
アーサー信者が飛び上がって喜んでいる。
「だからノイエ、
機嫌を直しておくれ」
「まあ…ふたりがそういうなら…」
赤い唇を尖らせるノイエがあまりに小悪魔的で、
それをなだめるアーサーが抜群の包容力で、
その破壊力にファンガールが2.3人立ち上がれなくなっているのを確認してセイシルはその場を離れた。
こうして二人の日常は戻ってきたわけであるが、
間もなく上級生の研修先が発表された。
ノイエが港町にある貿易商ジーン商会へ研修に出ることが、公になったのである。
「ノイエ様、遠い研修先を選ばれたのね…」
「ジーン商会ですって」
「アーサー様とお離れになるのは辛いでしょうに…」
「…あれ?」
とあるひとりのファンガールは気付いた。
「セイシルさんって、家名がジーン?
あれ、セイシルさんも栗色の髪?
そういえばあの時のノイエ様の口調…?
あれ…?」
幸いなことに、彼女はその気付きを口に出すことはなかった。